第7話:強さの形と弱さの意味、初夏の風が運ぶ悩み(後編)


「精霊の森で迷子?」


 椎名は鱧を一切れつまみながら尋ねた。千夏も耳を傾けている様子だ。


「ああ。テラルド大陸の中央部にある『精霊の森』っていう場所だ。魔法の力が渦巻く神秘的な森でな」


 勇者は熱燗を一口飲み、懐かしそうに語り始めた。


「俺たちパーティは魔物退治の依頼を受けて、その森に入ったんだ。だが案内人が怪我をして、地図も失ってしまった」


「それで迷子になったんですね」


「ああ。精霊の森は特殊でな、方角がわからなくなる魔法がかかっていた。普通の羅針盤も役に立たん」


 勇者の表情は真剣さを増した。まるで昨日の出来事を話すかのように鮮明だ。


「俺は焦った。『力ずくで道を切り開こう』と、剣で森を切り裂き始めたんだ」


「それで道が見つかったんですか?」


「いいや、むしろ事態は悪化した」


 勇者は少し恥ずかしそうに頭をかいた。


「森自体が怒ったかのように、木々が動き始めた。俺たちを閉じ込めるように道をふさぎ、進むほどに迷宮は深くなっていく……」


 その語り口に引き込まれ、椎名はいつの間にか鱧を食べる手を止めていた。


「それで、リーゼルはどうしたんですか?」


「あいつはな、俺の力任せの行動を見て、こう言ったんだ。『状況を変えようとするから迷うのよ。流れに身を任せなさい』ってな」


「流れに身を任せる……」


「初めは意味がわからなかった。だが彼女は森の中央に流れる小川を見つけ、『この流れに沿って行けば出口に辿り着く』と言った」


 勇者は鱧を一切れ取り、酢橘をかけた。その仕草には、当時の驚きと敬意が宿っているようだった。


「リーゼルは言ったんだ。『強さとは抗うことではなく、理解することよ』と」


 椎名はその言葉に、何かを感じたように静かに目を見開いた。


「それから?」


「言われた通り小川に沿って進むと、あれほど迷っていた森から、あっさり出ることができた」


 勇者は苦笑いした。


「俺は力任せに道を切り開こうとしたが、結局は森の流れを理解したリーゼルの方法で解決した。あの時、俺は『強さ』について考え直すきっかけをもらったんだ」


 椎名は自分の仕事のことを考えた。霧嶋誠一郎という作家の才能という「流れ」に抗うのではなく、それを理解し、活かす道筋を見つける。


「なるほど……」


 彼女は小さく呟いた。千夏が新しい酒を温め、勇者のおちょこに注ぐ。その湯気が初夏の夜に似合う風情を作り出していた。


「でもそれって、妥協するってことじゃないですか?」


 椎名が少し不安そうに言う。文字通り解釈すれば、作家の言いなりになってしまうようにも聞こえる。


「違うな」


 勇者はきっぱりと言った。


「流れに身を任せるというのは、諦めることじゃない。相手の性質を理解し、それを活かすことだ。リーゼルが小川を見つけたのは、森をよく観察したからこそだ」


 椎名は鱧を一切れ口に入れた。骨がないのに、しっかりとした歯ごたえがある。これこそ千夏の繊細な技術の賜物。骨切りという技術で、鱧の本来の良さを引き出している。


「作家の才能を認めつつ、その才能がより活きる方向を提案する……」


「そうだな。相手の『流れ』に合わせて、一緒に泳ぐんだ」


「でも、私が今担当してる作家は『川』どころか『滝』みたいな勢いで、こちらの意見を聞かないんです」


 椎名は少し溜息をついた。勇者は頷き、酒を飲む。


「滝か……確かに強い流れだな。だが滝にだって、周りを迂回する道はあるもんだ」


「迂回……」


「ああ。正面から立ち向かうのではなく」


 ここで千夏が新しい一皿を持ってきた。小さな器に盛られた香の物。茄子の浅漬けと、新生姜の甘酢漬けだ。


「お口直しにどうぞ」


「おお、これは『風の森』の三色漬けを思わせるな!」


 勇者は嬉しそうに箸を伸ばした。


「風の森?」


 椎名も一切れ取りながら尋ねた。


「ああ。テラルドの北東部にある森でな。そこには常に風が吹き、色とりどりの花が咲いている。その花を漬けた保存食がこれに似た味わいだった」


 茄子の爽やかな酸味と、生姜のピリッとした辛みが口の中で広がる。鱧の淡白な味の後には、絶妙のアクセントだ。


「美味しい……」


 椎名は思わず目を閉じた。その表情に、勇者は満足げに頷く。


「食べ物にもそれぞれの個性がある。鱧のような上品な淡白さもあれば、生姜のような主張の強さもある。だがどちらも美味い。むしろ、一緒に食べるからこそ、互いの良さが引き立つんだ」


 椎名はハッとした。食の話に見えて、彼女の仕事の悩みに対するアドバイスだ。作家の才能と編集の視点、互いを引き立てるバランスの取り方。


「なるほど……」


 椎名は少し考え込むように、ビールを飲んだ。千夏はカウンターを拭きながら静かに二人の会話を聞いている。


「千夏」


 勇者が声をかけた。


「ああ、鱧の骨切り、どれくらい時間がかかるんだ?」


「一匹あたり、慣れても30分はかかります」


 千夏は淡々と答えた。


「骨と身の間を数ミリずつ、包丁を入れていくんですよね?」


 椎名が確認すると、千夏はわずかに微笑んだ。


「そうです。鱧は細かい骨が多いので、一本一本丁寧に。でも力を入れすぎると身が崩れます」


「強さだけじゃなく、繊細さも必要なんですね」


「ええ。包丁の角度と力加減が命です」


 勇者は満足げに頷いた。


「リーゼルにもそんなことを言われたな。『力と繊細さのバランスが真の強さ』だってな」


 椎名はふと思いついたように言った。


「そういえば、リーゼルさんの占い、どうでした?」


 勇者は少し驚いたような表情をした。


「占い? お前、リーゼルの店に行ったのか?」


「はい、『紫眼の魔女』というお店でしょう? 名刺をもらったので、先週行ってみました」


 椎名は少し照れたように笑った。リーゼルとの出会いは驚きだったが、占い師としての彼女の鋭さに興味を持ったのだ。


「それで、何を占ってもらったんだ?」


「仕事のことです。実は、この担当作家の件も相談したんです」


「へえ、リーゼルは何て言ってた?」


「『川の流れを変えるのではなく、新しい水路を作りなさい』って」


 椎名は戸惑いながらも、勇者と同じ言葉が返ってきたことに驚いていた。勇者は大きく頷いた。


「さすがリーゼルだな。俺とまったく同じことを言っている」


「そうなんです。あと、こうも言われました。『あなたには特別な感性がある。それが武器になる』って」


 椎名の言葉に、勇者の表情がわずかに変わった。何か意味ありげな目で椎名を見ている。


「特別な感性、か……」


 椎名は首を傾げた。


「どういう意味だと思います? 私、別に特別な能力があるわけでもないし」


 勇者は考え込むように酒を飲んだ。


「わからん。だが、リーゼルの勘は鋭いぞ。特に人を見る目は」


 彼の言葉には、長年の信頼が感じられた。


「そういえば」


 椎名は思い出したように言った。


「勇者さんも私の耳が『エルフに似ている』って言いましたよね」


「ああ、そうだったな」


 勇者は椎名の耳を見た。確かに少し尖っている印象だ。


「エルフも『特別な感性』の持ち主だったんだ。自然の声を聞き取ったり、動物と話したり」


「そんな能力、私にはありませんよ」


 椎名は笑ったが、何か心に引っかかるものがあった。リーゼルの言葉と、勇者の話、そして自分の編集者としての直感。それらが不思議とつながっているような気がする。


「いや、あるかもしれんぞ」


 勇者は真剣な表情で言った。


「お前は編集者だろう? 物語の良し悪しを見抜く感性がある。それは才能だ」


 椎名は少し考え込んだ。確かに自分は、原稿の可能性や問題点を直感的に感じ取ることができる。それは経験だけではなく、生まれ持った感覚なのかもしれない。


「そうかもしれませんね。でも、それが今の作家との問題にどう役立つのか……」


「さっき言っただろう? 『新しい水路を作る』ってな」


 勇者はもう一切れ鱧を取った。


「作家の才能という流れを、別の方向に導くんだ。彼の強さを活かしつつ、新しい形にする」


 椎名の頭に、ある案が浮かんだ。霧嶋誠一郎が書きたいのは壮大な冒険譚。しかし雑誌の企画としては合わない。だが、連載の形を変えれば……。


「ひょっとして……小説ではなく、短編集という形で提案してみるのはどうでしょう」


 椎名は自分のアイデアを口にした。勇者は興味深そうに聞いている。


「彼が書きたい世界観はそのままに、雑誌に合う短い物語の連載。そして後に単行本として一冊にまとめる……」


「それなら彼の才能も活きるし、雑誌の企画にも合うということか」


「そうです!」


 椎名の目が輝いた。彼女の中で何かがつながった瞬間だった。川の流れをそのままに、新しい水路を考える。作家の才能を尊重しつつ、編集者としての視点を活かす道。


「それはいいアイデアだな」


 勇者も嬉しそうに頷いた。


「作家さんの『滝』をそのまま受け止めるのではなく、細かな流れに分けて導くということですね」


 千夏も静かに言った。彼女の言葉には、常に的確な観察眼が感じられる。


「まさにそうだ。どんなに強い流れでも、正しく導けば素晴らしい風景を作る」


 勇者は酒をぐいっと飲み干した。椎名もビールを飲み、ほっとため息をついた。心の重荷が少し軽くなったようだ。


「ありがとうございます」


 椎名は素直に言った。


「勇者さんの話のおかげで、何か見えてきました」


「俺のおかげじゃない。お前自身の力だよ。リーゼルの言うとおり、特別な感性を持ってるんだ」


 勇者はにやりと笑った。


「それにしても、リーゼルの店に行くとはな。あいつ、何か余計なこと言わなかったか?」


「余計なこと?」


「ああ、『定年』のことや、あるいは『たぬき屋』について」


 椎名は首を傾げた。


「いいえ。ただ……最後に不思議なことを言われました」


「何を?」


「『あなたの物語が始まっている』って」


 勇者の表情が一瞬引き締まった。椎名にはその意味がわからなかったが、何か重要なことを言われたような気がした。


「そうか……」


 勇者はひとり考え込むように呟いた。


「物語、か……」


 そのとき、暖簾が揺れる音がした。


「いらっしゃいませ」


 千夏の声に、三人は入り口を見た。田村が入ってきた。彼の表情は晴れやかで、どこか自信に満ちている。


「こんばんは! あれ、みなさん揃ってますね」


「おう、田村! 仕事終わりか?」


「はい! 今日は早く上がれました。それに……」


 田村はにこやかに言った。


「良い報告があるんです!」


「おお、それは聞きたいな」


 勇者は興味深げに言った。椎名も田村に微笑みかけた。


「まずは何か飲みますか?」


 千夏が声をかけると、田村は頷いた。


「はい、生ビールをお願いします! あと、鱧があれば……」


「ちょうどありますよ」


 千夏は頷き、ビールを注ぎ始めた。


「で、どんな良い報告だ?」


 勇者が促す。田村は少し照れながらも嬉しそうに話し始めた。


「前回勇者さんにいただいたアドバイス通り、チームで企画を進めたんです。そしたら鷹野部長から『よくやった』って言ってもらえて、さらに事業部からも高評価をいただいたんです!」


「おお、それはすごいじゃないか!」


 勇者が田村の肩を叩く。椎名も嬉しそうに笑った。


「鷹野部長も少しずつ変わってるんですね」


「はい。部長も実は変わりたかったんだと思います。ただ、きっかけがなかっただけで」


 田村の言葉に、椎名は自分の状況と重ね合わせた。霧嶋誠一郎も、実は変わるきっかけを求めているのかもしれない。正面から対立するのではなく、彼の才能を新しい形で活かす道を示す。


「これからもチームで頑張ります!」


 田村の言葉に、勇者は満足げに頷いた。


「そうだ、力を合わせて戦うんだ。俺もテラルドでの勝利は、いつも仲間あってこそだった」


 ビールが田村の前に置かれ、四人は自然と乾杯した。それぞれのグラスが店内に小さな音を立てる。


 椎名はこの居心地の良さを噛みしめた。「たぬき屋」という小さな居酒屋で、異世界の勇者と、真面目なサラリーマンと、寡黙な女店主と話す不思議な時間。しかし、この時間がとても大切に思えた。


 彼女は鱧を一切れ口に入れ、その柔らかさを味わった。繊細さと強さのバランス。そして、千夏の言う「包丁の角度と力加減」。それは編集の仕事にも通じるものだと感じた。


 窓の外からは、初夏の夜風が暖簾を揺らす音が聞こえる。椎名は心地よい疲労感と、新たな決意を胸に、また一口ビールを飲んだ。


「明日、作家さんに会って、新しい提案をしてみます」


 椎名が言うと、勇者は力強く頷いた。


「きっとうまくいくさ。お前には特別な感性があるんだからな」


 その言葉に、どこか不思議な確信を感じた夜だった。


 ***


 つづく

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