第35話 旅立ちの日に

 燦々さんさんと降り注ぐ朝の光が、カーテン越しに部屋の中を明るく照らしている。

 マナはすでに家を出る準備を整えていた。


 ──こんなもんかな。


 用意したショルダーバッグを肩にかけ、重さを確かめる。

 中身は最低限の荷物だけ。

 それでも、胸の奥は期待と緊張でいっぱいだった。


 ──うん、これでよしっ!


 気合いを入れて部屋を出ようとしたマナの前に、音もなくレイが現れた。


「あ、おはよう。来てくれたんだね」

「あんなやかましい声で叫ばれたら、いやでも耳に入る」


 アルトと木の下で別れた後、マナは一人ベルエスト山へ向かいレイに旅立つことを告げていた。

 いや、告げたというよりは彼の言う通り、一方的に叫んでいたと言った方が正しいだろう。

 なにせ、彼は姿を見せてはくれなかったのだから。


「やっぱりいたのね……」


 それなら返事くらいしてくれてもよかったのに、とマナは肩を落とす。

 不満そうな表情を見せたものの、すぐに自慢げな笑みを浮かべてみせた。

 

「でも、絶対あの山にいると思ったんだ。昨日の夕飯の時もいなかったし、せめて旅立ちの時くらいは一緒に、ね?」


 顔を傾げたマナの髪がさらりと垂れる。

 陽の光を浴びて輝いているのは、その髪だけではない。

 レイはため息混じりに肩をすくめ、部屋の外へと歩き出した。


「行くんだろう」

「うん」


 最後に、母の日記に手を触れる。

 日記は旅には持って行かない。

 記された道標みちしるべと母の思いは、すでに胸の中にある。


 ──お母さん、私は私の道を歩いてみるよ。だから、ここで見守ってて。


 思い出は大切にする。

 でもそれに縛られることなく、自分にしかできない旅を始める。

 それがマナの決意だった。


 部屋をくるりと見渡し、パタンとドアを閉める。

 そして、顔を上げて一歩を踏み出した。



「いよいよね、マナ」


 リビングで見送りの準備をしていた伯母おばが、力を込めてマナの両手を握った。


「病気とか怪我にはじゅうぶん気をつけるのよ。無理はしちゃ駄目だからね」


 いつもより早口な伯母の口調は、不安と心配が複雑に入り混じっているようにも聞こえた。

 その気持ちを抑えるように伯母は微笑んでいるが、目にはうっすらと涙が溜まっている。


「うん、ありがとう。気をつけるね」

 

 つられて目頭が熱くなるが、涙はこぼさないよう精一杯の笑顔で答えた。


「それと、これ」


 伯母がスカートの中に手を伸ばし、何かを取り出す。

 

「マナがこの村を旅立つときが来たら渡してほしいって、ドロシアから預かってたの」

「手紙……?」


 差し出されたのは、封をしたままの白い封筒。

 折れや皺がないことから、伯母がこの日まで大切に保管していたのがわかった。


「開けてみるね」


 マナは息を整えながら、そっと指をかける。

 中に何が入っているのかと、鼓動が少し速くなるのを感じながら慎重に封を開け、丁寧に中身を取り出す。


「……これ」


 中に入っていたのは、一枚の写真だった。

 海を背景に、優しく微笑んでいる母と、その腕に抱かれている生まれて間もない小さな幼女。

 短い茶色の髪と茶色い瞳。

 笑顔でも真顔でもない顔をしているその子は、まだ何の感情も宿していないように見える。


「この写真の子、きっとマナね」

「私……?」

「マナはね、この村で生まれたわけじゃないの。海の見える街で生まれたんですって」


 初めて知る事実に、マナは言葉を失った。

 驚きと戸惑いが胸の内を駆け巡る。

 けれど、どこか納得する自分もいた。

 見たことがないはずの海なのに、写真に映るその景色がなぜか懐かしく感じられたのだ。


 ──これが、お母さんが残してくれた最後の道標みちしるべ


 この写真の場所に行けば、きっと何かがわかる。

 そんな予感に身体中がふるい立った。


「ありがとう、伯母さん。旅の目的がもう一つ増えたよ」


 マナはしっかりとクロエの目を見つめ、感謝の気持ちを込めて言葉を続けた。


「私、いつかこの場所に行くよ。絶対」


 何かを掴みたくて、何かを知りたくて、心の中で強く誓う。

 写真を胸に抱き、大きく深呼吸をした。

 たとえどんな答えであろうと、進むべき道はただ一つだ。


「ええ。帰ってきたら、またたくさんお話聞かせてね」


 クロエはいつくしむように微笑み、彼女の髪に手を添える。

 その仕草には別れを惜しみつつも、旅立ちを応援する想いが込められているようだった。

 

「レイさんも、マナのことよろしくお願いします」

「……俺に言われてもな」


 頭を下げた伯母に、レイは軽く眉をひそめてそっぽを向く。

 けれど一瞬、口元がほんのわずかに持ち上がった気がした。


「マナー! 見送りにきたよ!」


 弾むような元気な声が、玄関の扉をノックする音とともに響く。


「もう行くんでしょー!」


 待ちきれない様子で、タクトの声が外から聞こえてきた。

 まるで「早く開けてよ」と言わんばかりだ。


 マナはクロエと目を合わせくすりと笑い合うと、小さく息を吐いて扉へと歩み寄る。

 ドアノブに手をかけて開くと、扉の向こうから淡くも鮮やかな朝の光があふれた。


 見送りにきたのはアルト、タクト、それにリラ。


 タクトは早くも明るい声を張り上げていたが、アルトは一歩引いてその光景を眺めている。

 マナとレイの旅立ちを見届ける彼の目には、どこか複雑な思いが浮かんでいるようだった。


「マナにね、お守り作ってきたよ!」


 タクトが胸を張って差し出したのは、小さな布製のお守り袋。

 ちょっぴりといびつな向日葵の刺繍が施されていて、タクトなりに一生懸命作ったことが伝わってくる。

 

「ありがとう。大事にするね」


 マナはお守りを受け取り、嬉しそうにタクトの頭を撫でた。

 すると、今度はリラが包みを差し出す。


「私からは、これ。旅の途中に食べて」


 リラが持ってきたのは、ふんわりとした焼き立てのスコーン。

 それが数個、布に包まれていた。

 

「わ、いい匂い。おばさんもありがとう。いただきます」


 すぐに手を伸ばし包みを受け取る。

 手のひらに広がる暖かさが身体中に染み込むように感じた。


 マナが笑い、タクトがはしゃぎ、クロエとリラが見守る。

 レイはその様子を少し離れたところから黙って見ていた。

 彼女たちの間に別れの寂しさはなく、むしろ楽しげな空気が広がっている。

 腕を組み玄関の扉にもたれたレイは、マナたちから視線を外した。


 ──また、うだうだと。


 出会いだの、別れだの、思い入れだの、いちいち感慨に浸る人間の営みはどうにも性に合わない。

 よくもまあ、こうも毎回飽きもせず騒げるものだ。

 

 そんなことを思っていると、視界の端でアルトの影が動いた。

 いくばくか乱暴な足取りで、まっすぐこちらへと向かってくる。

 

「なあ。ちょっとこっち来てくれ」


 目を合わせずに告げるアルトに、レイは眉根を寄せた。

 

「……何故だ?」

「いいから」


 険しい顔で何か言いたげな様子のアルトを前に、小さく息を吐く。

 正直、面倒だった。

 だが、マナはまだ出発する気配を見せていない。

 

 仕方なく足を向けると、アルトは無言のまま歩き出した。

 向かう先は家の裏手。見送りに集まった人々の視線が届かない場所だった。

 背中越しに伝わる硬い空気。


 ──何を企んでいる?


 こうして人気のない場所に連れ出す以上、ただの世間話では済まないだろう。

 もし喧嘩を吹っかけるつもりなら、受けて立つまでだ。

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