第29話 遥か彼方へ
それは、マナがアルトを探しにベルエスト山へ向う前日のこと。
半年ぶりに幼馴染との再会を果たしたアルトだったが、喜びでいっぱいのマナとは違い、彼の心情は複雑なものだった。
アルトは洗濯物を干しながら、目の前に広がっている景色ではなく記憶の中のマナを見つめていた。
──俺の知らないところで変わっていくなよ。
昔からマナのことを誰よりも近くで見てきた。
お
それでいて無邪気で、物事に一生懸命で、他人を思いやる気持ちは誰よりも強い。
気がついた時には、目が離せない存在へと変わっていた。
彼女が王宮に呼ばれ遠く離れることになった時も、本当は反対したかった。
だが国王の命に
そして今日。
思っていたよりもずっと早く、マナは帰ってきた。
半年ぶりに名前を呼ばれた時は、嬉しさが込み上げて思わず頬が緩んでしまった。
けれど、彼女は見違えるほど成長していた。
感じ取れる聖力は、
たった半年で、まるで別人のように変わってしまった。
魔力を持たない母でさえ、マナの変化を感じ取ったほどだ。
──俺は、なにも成長していない。
風魔法を習得したのは、正直、まぐれだった。
洗濯物を乾かすのが少しでも楽になればと、ただ何気なくイメージをしたら、草を揺らす程度の風魔法が使えるようになっただけ。
二つの魔法が使えるようになったことにどこか満足もしていたが、実際はそよ風程度の風魔法と、小さな水流を生む水魔法しか使えない。
曽祖父の武勇伝には程遠い。
──あの男がいなければ……。
マナの隣にいた長髪の男が嫌でも脳裏をよぎる。
あいつの態度も、マナの騎士だということも全部が気に食わないが、実力は確かに本物なのだろう。
だから余計に、苛立ちと焦りが出ていた。
あの男と自分の間に感じる越えられない壁のようなものが、どうしようもなく心を掻き乱した。
…………
………
…
まだ夕暮れの薄明かりが残る頃。
アルトは一人、ベルエスト山を登っていた。
彼の目的は山頂に咲いている花、
──霧と風だろ。俺の魔法なら、なんとかなる。
自分に言い聞かせた矢先、ふと母の言葉がよみがえった。
山頂付近は霧が濃くて風も強い。昔、何人もの命が失われた場所。
──いや……俺ならいけるはずだ!
湧いて出た不安を振り払うように、アルトは首を横に振る。
命を落としてしまったのは、魔力を持たない者が登ってしまったからだろう。
だから、自分の魔法があれば山頂まで辿り着けるはず。
──透幻華を持ち帰れば、きっと……。
マナに追いつき、自分の気持ちを言えるのだろうか。
あの男と、肩を並べることができるのだろうか。
不安定で曖昧な気持ちのまま足を進めるしかなかった。
風が木々を揺らす音が絶え間なく耳に届く。
幼い頃に聞いていた自然の音と違う気がしたのは、おそらく日が暮れてしまったせいだろう。
昼間の
奥へと進むにつれて汗ばむ感覚が薄れていき、肌を撫でる風には冷たさを感じる。
容赦なく霧は濃さを増し、じわじわと視界を奪っていく。
──これじゃ、前が見えないな……。
アルトは手をかざし、そこに魔力を集中させた。
──そよ風程度でも、霧くらいなら。
手のひらの前で小さな風が渦を巻き、霧が押しのけられるように流れていく。
一部だけとはいえ、霧が晴れた山道を目にしたアルトは胸を高鳴らせた。
──このまま進めれば、山頂まで行けるかもしれない。
自分の魔法が確かに通じているという手応え。
一歩一歩と踏み出すごとに、少しずつ自信へと変わっていった。
だが、それも束の間だった。
「……駄目か」
進めば進むほど霧は濃くなっていった。
押し流したはずの霧はすぐに舞い戻り、再び視界を覆い隠してしまう。
汗ばんだ手を握りしめたアルトは思わず舌打ちをする。
風魔法を使い始めてまだ間もない彼にとって、この濃い霧を完全に晴らすことは難しかった。
──水魔法でどうにかするしかないか。
アルトは新たに魔力を込め、手のひらに水を生み出していく。
球状になった水はゆるやかに揺れ、淡い光を放ちながら形を保っている。
その水球を霧の中に差し出すと、まとわりついていた霧がゆっくりと吸収されていった。水滴が球体に取り込まれるごとに、少しずつだか視界が開けていく。
──これでまた進める。
自信を取り戻しながら足を進めるも、すぐにとてつもない疲労感に襲われてしまった。
魔力を使い続けた経験は、せいぜい洗濯物を洗うときの数分程度。これほど長時間、魔法を維持することなど初めてだった。
景色はじわじわと暗さを帯び始め、いつしかあたり一面が闇に包まれている。
霧の吸収も限界に近づき、踏み出す足は
──夜になったのか……。
空を見上げると、霧の切れ間からほのかに星々の輝きが見えた。
それを確かめた瞬間、足元の岩に気づかず、つまずきかけた。
その拍子に膝をつく。さらに肩で息をしながら地面に手をついた。
震える指先から、自分の魔力が限界に達しているのを感じる。
これ以上魔法を使い続けるのは危険だと悟った。
立ち上がり足元がふらつく中、岩の隙間に身を寄せてやっとの思いでその場所に腰を下ろす。
── 今はここまでにするしかないか……。
一度限界と感じてしまった身体は鉛のように重かった。
肌にまとわりつくひんやりとした湿気と、魔力を使い果たした身体は、ますます重く感じられる。
そんな疲労感に、すぐに睡魔が押し寄せてきた。
──明日はこそ、山頂まで……。
心の中で繰り返しながら目を閉じる。
遠くで木々がざわめく音を聞きながら、意識は深い闇に落ちていった。
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