第3話 放課後の図書室
春の午後、陽の傾きが少しずつ長くなる季節。
放課後の校内は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
私は、図書室の奥の窓際に座っていた。開かれた窓から吹き込む風が、ページをふわりとめくる。その音さえも、心地よく感じるほどだった。
本を読むふりをしながら、実際にはほとんど文字が頭に入っていなかった。
代わりに、あの旋律が耳の奥で繰り返し流れていた。結月のピアノ。
そして——彼女の言葉。
『“秘密”っていうタイトル』
彼女の秘密。まだ何も知らない。でも、知りたいと思った。
「いた、やっぱりここ」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこに結月がいた。
制服のリボンを少しだけきゅっと締め直しながら、私の隣に座る。
「ここ、好きなの?」
「うん。静かだし……落ち着くから」
結月は「ふーん」と言って、棚から一冊の詩集を手に取った。
「これ、読んだことある?」
彼女が開いたページには、谷川俊太郎の詩が並んでいた。
「好き。詩って、時々ピアノに似てると思う」
「え?」
「短い言葉の中に、全部が詰まってるっていうか……響き方が、その時の気持ちで変わるでしょ?」
私はその言葉に、胸がじんとした。
やっぱりこの人の感じ方は、どこか特別なんだと思った。
静かに、時間が流れた。
ページをめくる音と、遠くから聞こえる部活の掛け声。
同じ机で本を読むだけなのに、こんなに心が満たされるのは、なぜだろう。
ふいに、結月が言った。
「……ねえ、美咲って、恋したことある?」
心臓が跳ねた。
思わず顔を上げると、彼女は本を見たまま、何気ない風を装っていた。でも、その指が、ほんの少し震えていた。
「……ない、かな。たぶん」
嘘じゃなかった。けど、本当のことも言っていなかった。
「ふふ。私も、ないよ」
結月はそう言って笑ったけど、その目は少しだけ遠くを見ていた。
「でもね、もし——誰かを好きになったら、その人には“ちゃんと自分を知ってほしい”って思うと思うの」
私は、黙って頷いた。
「でも、全部を話すのが怖くなることもあるかも。知られたら嫌われるかもって、そう思うと……つい、黙ってしまうの」
その言葉が、胸に突き刺さった。
私は、彼女が誰かを想っているのか、それともただ“仮定”の話をしているのか、分からなかった。
でも、何より怖かったのは——その“誰か”が、私じゃなかったら、ということだった。
その日、図書室を出た時、陽はもう落ちかけていた。
窓の向こうの空が、金とオレンジと群青のあいだで揺れていた。
結月と並んで歩く廊下。
その横顔を、私はそっと盗み見る。
どうしてこんなにも、目が離せないんだろう。
手が、触れそうな距離にある。
でも、触れてしまったら壊れそうで、怖かった。
図書室の匂いと、彼女の横顔が、私の記憶の奥に、静かに沈んでいった。
(つづく)
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