第2話 秘密のピアノ

次の日、昼休み。

 お弁当を食べ終えた私は、昨日と同じように教室の窓際でぼんやりしていた。クラスメイトたちの賑やかな声が教室に響いている。でも、そのざわめきが遠く感じるのは、あの音色がまだ耳に残っているからかもしれない。


 音楽室の、あのピアノの音。

 あの時間。

 結月の横顔。


「美咲!」


 声に振り返ると、結月が立っていた。今日も黒髪はさらりと揺れて、制服のリボンが少しだけ曲がっていた。彼女はそれを気にする様子もなく、まっすぐに私を見ていた。


「今、ちょっと時間ある?」


 私は頷いた。


 そして二人で音楽室へ向かった。誰もいない静かな廊下。足音だけが、私たちの存在を確認するように響いていた。


 ドアを開けた瞬間、昨日の空気が蘇るようだった。窓から差す光。微かに香る古い木の匂い。そして、ピアノ。


「ねえ、昨日の曲……なんて曲?」


 そう尋ねると、結月は少しだけ口角を上げて、ピアノの前に座った。


「私が作ったの。……タイトルは、まだないんだけど」


「えっ、作曲?」


「うん。ずっと前から、音でしか気持ちを表現できない時があって……。言葉じゃ追いつかないこと、あるでしょ?」


 私は黙って頷いた。彼女の言葉は、まるで私の心に触れてくるようだった。


 結月はそっと鍵盤に指を置き、また昨日の旋律を弾き始めた。

 その音には、言葉にはできない痛みと、どこか遠くを見つめる優しさがあった。


「美咲は、怖くないの?」


 ふいに、曲の合間に結月が言った。


「……なにが?」


「わたしのこと。……少し変だって思わない?」


 私は首を振った。心が自然にそうさせていた。


「全然。むしろ、もっと知りたいって思う」


 沈黙。

 でも、それは苦しいものではなかった。ゆっくりと溶けていくような、柔らかい静けさだった。


「……ありがとう」


 結月はそう言って、小さく笑った。

 その笑顔は、昨日より少しだけ近くに感じた。


 放課後。

 私は一人で帰ろうとしていた。けれど、昇降口で靴を履いていると、後ろから声がした。


「美咲!」


 結月だった。


「駅まで、一緒に歩いてもいい?」


 自然に、私の胸が跳ねた。


「……うん」


 二人で並んで歩く帰り道。

 昨日と同じ桜並木。花びらが舞い、今日もまた、あの風が吹いていた。


「今日ね、あの曲に名前をつけたの」


「えっ、本当? なんて名前?」


 結月は少し照れながら、答えた。


「“秘密”っていうタイトル」


 それが、彼女の心にある何かの象徴のように思えた。

 でも私は、ただ微笑んで、彼女の横顔をそっと見つめた。


 まだ何も知らない。

 でも知りたいと思った。

 それは、もう“始まってしまった気持ち”だった。


(つづく)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る