水面のゆらぎ

あらやん

第1話 始まりの教室

 春の匂いは、いつも少しだけ懐かしい。

 開け放たれた窓から差し込む風は、ほんのりと花の香りを運び、教室の空気をやさしく揺らしていた。始業式を終えたばかりの四月の午後。教室にはまだ、慌ただしさの残り香が漂っていた。


 その日、わたし——**高坂美咲こうさかみさき**は、窓際の席に座って、真新しい教科書のページをぼんやりとめくっていた。

 新しいクラス、新しい担任、そして新しい一年。でも、どこかでいつもと同じ春の始まりだと、自分に言い聞かせていた。


 そんなときだった。


「ここ、いいかな?」


 ふいにかけられた声に顔を上げると、そこにはひとりの女の子が立っていた。長い黒髪をポニーテールに束ね、制服のスカートから覗く足が、春の陽差しに透けて見えそうだった。


「あ、うん……どうぞ」


 彼女はわたしの隣の席に鞄を置いて、やわらかく微笑んだ。


「ありがとう。あたし、**綾瀬結月あやせゆづき**。今日からこのクラスに転校してきたの」


 転校生。

 その響きに、わたしの胸がすこしだけ跳ねた。


 自己紹介の時間、結月はみんなの前でも、あのやわらかい笑みを浮かべながら、落ち着いた声で名前を言った。

 まるで最初からこの教室にいたかのような自然さで。けれど、その瞳の奥には、どこか寂しげな色があったことを、わたしは見逃さなかった。


 放課後。わたしは教室に残ってプリントの整理をしていた。すると、窓の外から聞こえてくるピアノの音色に気づく。静かで、でもどこか切ない旋律。

 音楽室。


 気がつけば、足が勝手に音のほうへと向かっていた。


 そっと音楽室のドアを開けると、そこには結月がいた。窓辺のピアノの前に座り、目を閉じて、丁寧に指を鍵盤に滑らせていた。


 曲が終わると、彼女はゆっくりと目を開け、そしてこちらに気づいた。


「……聞いてた?」


「うん。すごく、綺麗だった」


 結月は少しだけ驚いたように笑って、それから照れくさそうに視線を外した。


「ありがと。人に聞かれるの、久しぶりだから、ちょっと恥ずかしいな」


「なんで? すごく上手だったよ」


 彼女はふっと視線を戻し、少しだけ真面目な顔になった。


「ねえ、高坂さん……って、呼んでもいい?」


「“美咲”でいいよ。苗字、なんか堅苦しいし」


「じゃあ……美咲」


 初めて名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が、なぜか少しだけ痛んだ。


 その日の夕暮れ、結月と並んで歩いた帰り道。

 桜の花びらが風に舞い、彼女の髪にそっと触れた。


「ねえ、美咲。もし、わたしに秘密があったら……怖い?」


 不意にそう言った彼女の横顔は、まるで夢の中にいるみたいに、儚くて綺麗だった。


「……怖くないよ」


 気づけば、そう答えていた。


 それが、わたしと彼女の“はじまり”だった。

 あの春の日、教室で出会った瞬間から、何かが静かに動き出していた。


(つづく)


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