第9話

その夜。僕はそのまま陽菜さんの部屋に泊まり、いよいよ僕らは初夜を迎えようとしていた。

 健の時には結局、断っていた。そもそもあんな小さな子の傍らで何をするというのだ、まったく破廉恥な。

 けれど、今はもうそんな気兼ねはない。

 僕らはそれを初めから意識して、早めにご飯を食べ、風呂に入り、リラックスタイムを過ごして、あの日のようにベッドの上で向かい合っていた。

 消灯された焦茶色の空間に、時計の針の音だけが響いて、僕にまたあの時とまるで同じような感傷を抱かせた。

 今夜こそ。

 呟き、囁くような言葉を交わしながら、そうして僕から陽菜さんの髪に触れ、耳に触り、頬をくすぐって、首筋をなぞり、肩を抱き寄せ、いざ唇を——近づけたその時、なぜだろう。

 蛙の鳴き声が聞こえた気がした。

 ぬめっとした不協和音。

 およそ知っていなければそれとわからないようなぶうううっという唸り声。

 陽菜さんの瞼が小刻みに震えた。

 けれど、錯覚だ。気にしない。

 ——と思おうとして、ふいにあの言葉が呼び起こされた。

 鏡の中の僕が言っていたこと。

『やめとけ』

 嘘だ。嫌だ。

 僕は陽菜さんを愛している。

 そんなことには惑わされない。

 そしてやっと、結ばれるんだから。

 しかし、彼はこう言ったのだ。

『近江 陽菜。アイツには——』



 アイツには、疫病神がついている。



 僕は具に感じていた違和感を押し除けるようにして、陽菜さんを抱きしめると、囁き、呟き、その間に耳をはんだりしつつ、見つめ合い、いよいよ唇を重ねた——。

 やわらかで芯のあるグミのような甘い弾力を味わうように食みながら、舌を伸ばし……というところで、異常事態に気付いた。

 身体が離れていく。

 陽菜さんの顔が離れて、重ねていたはずの唇が遠のいていく。

 なんで?

 僕は一層彼女に近づこうとするも、そうすればするほどに、二人の距離は離れていった。

 気がつくと、彼女は大仏のように巨大になって、僕を見下ろしていた——違う、僕の方が、小さくなったのだ。

 陽菜さん!

 そう言おうとして、口から出てくるのは鳴き声だった。

 唸り声だった。

 およそ知っていなければ、それと分からないような……。

「大河……?」

 手を見る。

 粒状の緑と黄色の混ざった指が、こっちを睨んでいた。

 僕は、蛙になってしまったようだった。



『始まりと終わりの蛙姫』へ、続く。

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理解のあるかぐや姫と互助会荒らし 白河雛千代 @Shirohinagic

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