第8話
数時間後、僕らは近くの警察署の狭い取り調べ室にいた。もちろん、それぞれ別室で、聞けば健は婦警数人で面倒を看てもらっているという。
「本当のことを言え。どこで拾った? あの子は誰の子なんだ?」
「黙秘権を行使します」
ずっと、この繰り返しだった。目の前のデスクの上には弁護人宛のノートと鉛筆、それから向かいの警官の手元には数日前僕らが提出した出生届の写しがあった。
あの時は何とかなると安易に考えたものだったが、現実そんな適当なノリでうまくいくわけがなかったのだ。
「陽菜さんはどうしていますか?」
「無論。隣で同じように取り調べを受けている」
「手荒な真似してないですよね」
「あのな、君、自分の立場分かってる?」
黙秘にはいくつか理由があった。
一つは本当のことを言ったところで間に受けてもらえるわけがないだろうということ。それに先日僕があの竹林で感じたことが、もし本当だとしたら、そこに改めて人智を及ばすのはあまりにも無粋だと思われたこと。
冷たいように思われるかもしれないけれど、その他大勢の都合よく楽をしたいだけであそこの養分になっていく人たちはどうでもいいのだ。そうではなくて、再配分が神様の狙いだとしたら、その人たちのためにもあの地は密かに語り継がれていくべきだと思うから。だからこそ、あの孟宗竹も持ち帰ったのだ。
もう一つはそれこそ黙秘権の本来の意義。
つまり、不利益になる可能性を鑑みてのことだった。
この状況から事なきを得て、皆無事に平常な明日を迎えられる方法が一つある。外法だが、それしかない、という方法が。
けれど、陽菜さんがそれに気づき、そして気付いても素直に応じるとは思えない。だから、そこだけが心配だったのだ。
僕は黙り、そして待った。
彼らの到着を。
やがて——。
取調室のドアが開き、別の警官が入ってくると、僕の向かいの警官に耳打ちをして同時、こちらを見た。
(来い……来い……! 僕らは何も間違ったことはしてないんだ……助けてくれよ、神様!)
その数分後、僕らは警察署のロビーで集合していた。
僕の取調官は終始納得のいかないような仏頂面を浮かべていたものの、事実確認が取れたのだから、それ以上僕らを追求するわけにもいかなくなったのだ。
不当な拘束と自白の強要は記録できる。それはかえって彼らの不利益になるから。
「いやーすみませんでした。こちらの手違いで試しに書いた落書きと間違えて提出していたみたいで」
警官にそうして平謝りをかますのは常世さんの旦那さん……大吉さんだ。
「変な誤解をさせてしまったようですな」
「困りますよ。大切な書類なんですから、遊びじゃないんだから」
「いやはや面目ない」
その脇、僕らは疲れ切った表情で健を互いの身体で挟むように抱いて、佇んでいた。
常世さんと大吉さんも気付いてくれた——どうやら目論見はうまくいったようだ。そして、やはり、陽菜さんの顔色は優れなかった。
というのも、大吉さんが関係書類をでっちあげたのである。彼は産婦人科医だから、そうして健は少し前に正式に彼のクリニックで出産された子供ということになった。ただし、陽菜さんは当然、その変わらない姿を大学で何度も目撃されているから、嘘はつけない。
だから、健は、常世さんと大吉さんの子として、改めてこの国に認定されることになった。
嘘がバレないためにも、健は今日から常世さんと大吉さんの家で暮らしていくことになる。
これで良かったのだ、と思う僕もいる。
僕らはまだ学生で、会長の言った通り学業と育児の両立は難しい。それに完全に会えなくなるわけではないし、何ならいつだって会いに行けるし、通うことだってできる。
けれど、陽菜さんの顔色は優れなかった。
僕だってそれは理性の問題だ。
感情が全部、受け入れているわけではない。
その日僕らは大吉さんの車で陽菜さんのマンションまで送ってもらい、そこで解散することにした。二人には散々気を遣われ、たくさんの温かい声をかけられ、そのうち陽菜さんは次第に持ち前の適当さで元気を取り戻していった——かのように見えた。
「大丈夫!」
マンションに着く頃にはその言葉を繰り返すのは陽菜さんの方になっていた。ミニバンの助手席から顔を覗かせる健を抱きしめたり、撫で回したりしながら、何度も何度もそう言って、
「会えなくなるわけじゃなし、いつでも会いにいけるからさ」
「おいちん……?」
「そうそう。ねーねとにーには良いやつだぞー。何なら未熟な私たちといるよりよっぽど安心だし、ご飯も美味しい。だから、元気でいて。そうしたら、私も元気だから」
僕も手を伸ばして、健に触れた。
抱っこだと思ったのか。
健が手を伸ばしてきた。
僕は常世さんを伺い、その小さな脇に手を差し込んで抱き上げた。
たぶん、竹の成長速度に合わせているからだろう。
あの時よりもずっと、ずっと大きく、重たくなっている。
一度ぎゅっと胸に押し付けて、その感触を脳髄に刻み込んだ。
それから、腕に乗せるようにして、言った。
「ママは任せろ。元気でな」
「パーパー……?」
「健。ずっと大好きだよ。大丈夫。すーぐ迎えにいくからな」
「おいちん」
陽菜さんにも代わって、二、三簡単な言葉を交わすと、助手席の常世さんに返して、それで終わりだった。
大吉さんがアクセルを踏んで、ミニバンが発車する。その間際、
「ばいばーい、またねー……」
健を見送り、振られた陽菜さんの手先が強張るのを僕は見逃さなかった。
それが陽菜さんの。
車が遠くなり、角を曲がって見えなくなって、マンションの駐車場に残され、そうして周りに誰もいなくなったとき。
僕は陽菜さんをぎゅっと抱きしめていた。
こちらに顔を向けない陽菜さんの後ろから強く、全身で甘えられるように。
震えた指先が僕の腕を掴んだ。強く掴んだ。
爪を立てるくらいにぎゅっと掴んで、陽菜さんは押し殺すように言った。
「大河」
「ん?」
「私、強くなりたい……もう二度と……! こんな聞き分けのない社会に踏み躙られることがないように……強く!」
「うん、なろう。僕がついてる。陽菜」
「え……」
僕は陽菜さんの身体を一度離して、向き直ると、はっきりと言った。
「陽菜と健といられた時間は幸せだった。僕はずっと続けたかった。だから、大学卒業したら、僕と結婚してください」
「あ……大河!」
「まぁ、今すぐはできないから。指輪もないし。あと就職とかしないと。そうやって万全にしてさ、二人で今度こそ健を迎えに行こう?」
陽菜さんは子供のような無邪気さで、たちまち笑顔を取り戻していた。まだ涙を滲ませながら、
「私、その時には二人目がほしい!」
「お、おう。まじすか、いいの?」
「妹がいいかな、弟ほしがるかな。今回やってみて分かった。たくさんほしい。私、頑張るから、大河も頑張ろうぜ!」
「あー。うん、分かった」
二人でマンションに入りながら、
「だから、よろしくお願いします」
陽菜さんはそう言うのだった。
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