第7話
その帰りのことだった。
僕は一度トイレに寄って、洗面台で顔をすすいでいた。
その時、鏡の中の僕が声をかけてきたのだ。
「やーすっきりしたわ。久々によぉ」
「あーありがとう。僕もだよ。最近ずっと働き詰めだったしね、良い発散になった」
「……お前もなかなか良い男になってきたじゃねえか」
「そう? 自覚ないけどな」
「俺はお前の反転だからな。すぐに分かる。あまりそっちで強くなられると、俺が弱くなるからやめてほしいもんだが、まぁ宿主の選ぶことにゃ逆らえねえわな」
なんとなく気味が悪い。というのも、鏡の中の僕がこうも僕に話しかけてくること自体が稀有なことであり、それもこんなに長く続けている……。
「何か用?」
僕は単刀直入に尋ねた。
鏡の向こうで僕の顔が気まずそうに一度目を逸らした。
「そういう思い切りの良さもよ……考えものだぜ」
「そっちこそ。弱くなってるってのは本当みたいだな。はっきりしろよ」
「お前、考えてみたことはないのか」
「なにを」
鏡の中の僕はあからさまに顔を逸らして言った。
「俺は、瑛子を選んでんだぜ?」
そう。まだ一年の時、突然動き始めたコイツが付き合いだしたのは鏡の中の瑛子さんの方だった。そしてそれに釣られる形で僕も実際の瑛子さんに言い寄ったことがある。
陽菜さんではなく。
「言っとくが、こっちの世界にも彼女はいるんだぜ。なのに、なんで俺とお前は違うかって」
「それはお前と俺が違うものだからだろ。お前があの時そう言ったじゃないか。そう考えれば好みも違うし、実際に出会う彼女らも——」
「——そうだ。反転する」
鏡の中の僕が引き取るように言ったのは、僕自身が思い当たる節があって、最後の一言をためらったからだ。
これまで出会ってきた奇妙な出来事の中で、様々な怪奇現象の主が彼女に関して何か仄めかしていたことを。
「しかしな、性格が反転するっつーのはそりゃいわば中身だろ。裏表のない人間がいるか? それが反転する、つまりそれは、そいつの本性だろ。本音だろ」
「何が言いたい……」
「やめとけ、宿主。悪いことは言わない。お前は今からでも八咫郎と瑛子を取り合うべきなんだよ。そして人並みだけれど順風満帆な一青春として、この大学生活を終えるべきなんだ。これ以上この奇妙なことには首突っ込むな」
鏡の中の僕は真顔だった。
真摯に伝えようとしているように見えた。
「近江 陽菜。アイツには——」
「大変! 大河!」
家についてお風呂上がり。
そんなことを考えながらリビングに入ると、ふいに陽菜さんの声が大ボリュームで耳に入ってきて、僕はことさら驚いた。
「ど、どうしたの」
「健が……元気ない」
「健……?」
僕が駆けつけると、いつものテレビ前のソファ、そこに健が寝かされていた。
いつもと違うのは息の仕方だったり、動きが鈍いというところ。ぐったりしている。
大河はたちまちおでこに手を当てて、熱を測った。
確かめるように今度は手の甲を頬や首筋に当ててみる。けれどもやはり、変わらない。……じんわりとこもる熱気が伝わってくる。
「大河……」
「夜間でやってる病院調べよう——あ! 車が」
こんな事態があったらまずいと思って取ろう取ろうと思っているうちに、事態の方が早くきてしまった。僕は免許を持っていなかった。
「ねーねに電話してみる!」
「あ——うん。僕は病院調べとく」
数分後、インターフォンが鳴って出る頃には二人とも身支度を整えて万全の態勢だった。
常世さんと共に駐車場に行くとそこにミニバンが止めてあって、運転席には常世さんの旦那さん——三鴨 大吉さんが座っている。髭面で一見強面な四角い顔だが、中身はいたって子煩悩なまだ中年の男性だった。
「お久しぶりです」
「うん。でも挨拶はいい。早く行こう」
僕と健、陽菜さんが後部座席。常世さんが助手席に乗ると間もなくミニバンは走り出した。
間もなく大吉さんが言った。
「どこ?」
病院のことである。僕は身を乗り出して、名前をあげると、大吉さんは二つ返事で折り返して少しアクセルを強く踏み込んだ。
隣では見たこともないような蒼白した顔で、陽菜さんが健を抱えながら、声をかけていた。僕も健の額を撫でながら、何度となくその名を呼んだ。
病院につくと真っ暗な路地の中に、院内の最低限の電灯だけが怪しい光を返していた。避難経路を示す緑の電灯まで混ざって、まるでホラーゲームのような雰囲気だったが、そんなこと気にもならなかった。
僕らは出迎えた看護師に招かれるまま、診察室に入り、聴診を受けさせたのち、ベッドに寝かせて触診を続けた。
けれども白衣を着た医師はしきりに首を傾げるだけだ。まさか、元々竹から生まれたことが何か問題を引き起こしているのだろうかと考えていると、
「……原因は不明ですが、全身のあらゆる臓器が弱っています。それで抵抗力が落ちたところで何らかの細菌に感染してしまったのでしょうが、なにぶん抵抗力がないので様々な合併症を引き起こしつつあります」
「健は……どうなるんですか」
「……今は何とも言えません。私からの紹介で◯◯大病院へ移送を提案します。こちらの設備では、心許なく……」
その日のうちに健は県内の小児集中医療室のある大きな病院へと移された。隠している意味もないので明かすと、実は常世さんの旦那さん、大吉さん自体が産婦人科医である。そのコネクションもあって、それなりに良い部屋を用意してもらえたのだった。
僕らはその日、健の病室で一晩を明かしたが、一睡もできなかった。
翌日も健の調子は良くならず、大学病院に勤める専門医たちですら首を傾げる始末。
時々陽菜さんを慮って、代わりばんこの仮眠を申し出てみたけれど、陽菜さんが首を縦に振ることはなかった。
新鮮な空気を求めて中庭に出てみても、鬱蒼とした雨雲が立ちこめ、雨こそ降っていないものの、辺りは薄暗く、やはり雲間から不気味な陽光がさす気持ちの悪い天気だった。
そう。健を見つける数日前も、その当日も。
梅雨時期だから仕方ないとは言え、低気圧は人の精神を阻害するに十分な威力を持っている。気圧が下がれば、体内と外との空気圧のバランスが崩れ、体調が悪くなるのは、そのためだ。たったそれだけで、人はバランスを失う。
と、その時だった。
もしかしたら——と頭をよぎる単語があった。
健は雨後の筍のごとく、あの雨が過ぎた翌日に竹林で見つけた生えてきた子だ。そして僕らが探検したあの竹林には何があったか?
毒キノコに毒の花たち。
まさか——。
僕が一足飛びで病室に戻ると、まさしく同じことを思い当たったのかもしれない、ちょうど陽菜さんが飛び出してくるところで僕らはぶつかりそうになった。
「ひ、陽菜さん……」
「分かった。大河。健は竹の子だから」
「あそこの土に毒が蔓延してたのはいい。でも、確証なくない?」
「大河。竹ってのはね、たくさん生えてるように見えて、実は根っこは一つなんだ。地下茎っていうの、それが本体。だから、一つの竹が汚染されると地下茎を通じて他の全部もダメになる。けれど! 健が出てきたのは、真竹だったでしょう。周りに生えてたのは孟宗竹。病気になったのが孟宗竹の方なら……まだなんとかなるかもしれない!」
僕らはすぐさま院内ロビーからタクシーを呼び出して、あの日健を見つけた竹林に向かった。その間、健のことは常世さんに任せた。
竹林は様変わりしていた。
多くの竹が生い茂り、そこへ女性たちが群がる構図自体は変わらない。けれど、僕らはその入り口ですでにむせ返るような異臭を覚えて、口元を覆った。
「すごいね……」
「どうなって……彼女らは気づいていないのか?」
すると、陽菜さんはバッグから新品の使い捨てマスクの袋を取り出して言った。
「こんなこともあろうかと。はい、大河」
「いったい何を想定していたら、こんな事態に用意できんでしょうねぇ。でも、流石だぜ、陽菜さん」
「陽菜だって」
陽菜さんは少し元気を取り戻したかのように言った。
僕らはマスクを着けると、まるで魔界の洞窟に踏み入るようにして竹林内を進んでいった。
気のせいではないだろう。そこで今も理解のある彼を求めて竹に群がる女性たちの顔は見るからに不健康そのものでひどくやつれて見えた。
けれど、もし——と考える。
もし僕が陽菜さんや瑛子さんといった異性に恵まれていなかったら。
その承認を得られていなかったら。
そして理解のある彼女が生えてくると実しやかに噂が流れたら、嘘で元々。試しにと訪れてみるくらいはしたんじゃないだろうか。さらにそこで、本当に成功例のような状況を目撃してしまえば、そこに人生を賭けても惜しくないと考えてしまっていたかもしれない。
特別なことではない。誰だって起こりうる。だから、彼女らはこんなになっても、この竹林を訪れることをやめられないでいる。
けれど……なんでだろう。
僕は憤る。
腹が立った。
理解のある、とはなんだ。
初めから全肯定、全承認の仲睦まじい人間関係などあるだろうか。
分からないけど、考える。間違ったから修正していく。喜ばれたから繰り返す。傷つけてしまったから謝る。この地道な時間を積み重ねていくから、そこに信頼と相互理解が産まれていくのではないのか。
分かりやすい優しさやさも理解したかのように見える薄っぺらい美辞麗句に身を委ねて、初めから承認や理解を拒んでいるのはどちらだ?
内気な奴だっている。言葉にし難い思いだってある。
言葉にしなければ分からないと言う一方で、言葉にしなくても分かって、とも思うのが人間だ。
何千何百と言葉を重ねようが、たった一つの想いも伝わらなくて、だから、考えて、相手の気持ちを察したり、慮ったり、そういう共感能力を得たのではなかったのか。
100%の相互理解なんて初めから無理だ。けれど、そうして分かり合いたいと思い、苦悩しながら言葉を紡ぎ、伝わらないことに苛立ちもして、だからその苦悩の果て、分かち合えたときが尊いのではないのか。
人の本当の言葉は形にならない。削除したその一文こそが、その人の涙を秘めた真心なんだ。
懊悩の果てに消したほうがいいと判断した、言葉にならなかったその
それを理解して、黙って抱きしめてあげられたとき、初めてその行動を肯定って言うんだ。
分かってもないくせに、分かろうともしてないくせに、簡単に理解のあるとかいうなよ。それは都合よく手に入るもんじゃない。
分かり合えない人間同士が幾年月の絶え間ない哀しみと葛藤の末にようやく見つけ出した結晶なんだ。
だから、子供が可愛いんだ。
ちょっと考えているとイライラしてしまった。
(墓地に見える……気づいたら竹林で……まさかね)
ここは墓場だ。そんな人々の、街の、感情の墓場。
決して命の産まれ出るに相応しいところではない気がした。ところが、そこで産まれてくる命がある、としたら、それはきっと……死から齎されるいのち。まさしく転生なのではないか。
そうした苦悶を経てもなお報われなかった人たちに、"恵まれなかった命"を再配分するための、神の悪戯。
噂が立つ前なら——いや、考えたところで、それはもう詮無いと思えた。
僕はけれど、ここにいる彼女ら一人一人の幸福を祈り、奥地へと進んだ。
そうして中程まで進んだ頃、ちょっとした悲鳴と逃げ惑う人たちが行手に現れて、僕らは警戒を強めた。
同時に……なんだろう。少ししめぼったい霧のようなものとその消毒液のような匂いが鼻を刺した。というか、完璧に消毒液だこれ。何なら周りの空気よりもずっと芳しくて、新鮮なように思える。
「んー? 誰かいる」
陽菜さんが奥を見つめて言うと、次第にその人の群れが大きくなって、僕らの元までもやってきた。
異様な姿をしている。全員頭の先から足のつま先まで白い防護服で覆い、背中にはタンク、手にはそこから伸びたホースの先が握られている。目元の透明な窓から中の人の顔が見えた。
「あなたたちは……」
その顔が僕らを捉えて驚愕に目が見開かれた。
一方、僕は肩の力が抜けた。
呆れるように言った。
「会長……?」
それは僕らもよく知る自治会会長だった。
「なぜこのような場所にあなた方がいるのです!」
「それはこちらのセリフです」
会長は白いぶかぶかの防護服越しのくぐもった声で言い、僕らはしれっとしていると、
「いえ、違います! 断じて!」
「まだ何も言ってません」
「決して理解のある彼の噂を聞いてやってきたら、あまりの異臭に驚いて、ならばこの私がと自治会メンバーを率い、じきじきに清掃に赴いていたなどとは一言も」
「はい、言質ー。てか僕ら何も言ってない」
僕のツッコミにも荒さと単調さが目につくほどのベタな白状だった。
「くっ、なんて卑劣なの……それで私をどうするおつもりなのです、この変態」
「おまわりさん、絶対違いますから」
そこで陽菜さんが僕の袖を引っ張った。
「大河。今は会長に構ってる場合じゃない」
「そうだった」
「……何の話ですか」
と会長が差し挟んでくる。どうやらこの人もなかなかのかまって性のようだ。
「健の命がかかってるから」
陽菜さんがそう言うとさしもの会長も目の色を変えた。
「健くんが……なぜそれを——とにかく一分一秒を争うのですね? 何か入用になるかもしれません。私も同行いたします」
「そこまでは言ってないけど、分からんけど、こんなことしてる場合ではないな」
会長は手早く周りの会員たちに清掃を任せると、僕らについてきた。
白く暑苦しい防護服が二人の後ろでがぽがぽ行ってついてくるのは異様ですらあり、僕の頭の中でなぜだか二人きりにはなってはいけない気もした。
さておき、僕は少し救われていた。
昨晩から続いた張り詰めた緊張感が会長の登場で少しだけ和らいだように思えたからだ。
大分進んだところで、突然陽菜さんが立ち止まり、鋭く辺りを見回し始めた。
「ここら辺だっけ?」
陽菜さんは僕の発言に、指だけ刺して答えた。その先にはあの日、先に彼を見つけた女性が放り投げ、陽菜さんが拾い、健の眠っていた竹を割ったのに使ったスコップが野晒しにされて捨てられていた。
泥や埃をかぶっている。おそらくあの日から誰も手をつけていない証拠だ。
そして陽菜さんは一点を見定めると走った。
健が寝ていた一本の真竹。その割れた竹が奥まった空間にぽつんと伸びていた。
こういうときの女性の嗅覚の鋭さというのは男性では到底追いつけない感性を持っている。座敷童子の乃子ちゃんが言っていた感覚——男にはない感覚器官か、あるいはそんなアンテナが女性にはあるのかもしれない。特に母親には。
迷子になった飼い猫の鳴き声を聴き分けて、見事に探し当てた女性もいる。世界とはそんなものだ。見えるものも、聞けているものも違う、一人一人の脳の中にそれぞれ違った世界がある。
「あった……」
陽菜さんは途中で割られた竹に近づくや、すぐさまその場に屈んで、
そして土を見る。
奇妙に薄汚れた土がもう近くまで迫ってきていた。
「スコップ! 大河!」
「ダメです」
僕が拾っておいたスコップを渡そうとするや会長が切り込んだ。
見たこともない必死な形相で陽菜さんが言う。
「なんで?」
「竹には地下茎があります。スコップなどで掘り上げられるとお思いですか。通常はユンボなどの重機を使用する工程ですよ」
陽菜さんは分かりやすく肩を落とした。けれども、僕の手からスコップを奪うようにとって、
「でもやるしかない。何時間かかっても……」
「竹の根の強さを甘く見ては……」
会長が尚もその肩を叩いて言うなり、陽菜さんは叫ぶように言った。
「でもやらなきゃ健が死ぬんだ!」
泣いていた。
咆哮のような一声と共に、それが周囲に飛び散って、僕らは……いや僕だけかもしれないが、ようやく彼女がどれほど思い詰めているのかを知った。
会長はけれど、今度はゆっくりと陽菜さんの肩を叩いて、
「方法がないとは言っていません。焦る気持ちは分かりますが、話をちゃんと最後まで聞きなさい。私——」
「……うん」
陽菜さんは腕で目元を擦りながら言うと、会長は白い防護服の中から突然、オレンジと黒色の四角い重機を取り出した。
「こんなこともあろうかと、ここにチェーンソーを持っているのですから」
「いったい何を想定したらこんな用意周到になれんの?! もう怖いわこの人!」
「もちろん。竹を清掃するのですから、チェーンソーくらい持っていかねば主だった作業は何もできません」
「だからって当たり前のようにチェーンソー持ってる奴いる?」
けれども下手にやって地下茎を傷つけたら、それこそ一貫の終わりである。まずは周囲の土は掘り返さなければならない。どっちみちそれはやらなければならないので、僕が一時間かけて掘り返すのだった。
真竹の周囲を丁寧に掘り返していくうち、一本の硬く、長い地下茎が見えてきた。根っこというよりは、色褪せた竹がそのまま横になって、しかもどことなくグロテスクに伸びた代物だ。
僕は肩で息をつき、腕で額の汗を拭いながら言った。
「これ地下茎?」
「……そのようですね」
陽菜さんにはその時に備えて、常世さんに連絡を取ってもらっていた。
この真竹を常世さん宅の庭地に移植するのである。
「つまりこれが、この真竹の本体です。私たちが通常見ている上の部分は、いわば触手のようなものに過ぎません」
「はぇー。ってか、会長ってなんかそういう願望でもあるの?」
会長は掘り返された地面に膝をかがめて、地下茎の周りの土を払った。
「これが健くんの……あんなにちっちゃな身体なのに、なんて雄々しいの……!」
「あの、うちの子にそういう言い方、やめてもらっていいですか。どう考えても言葉選びおかしいでしょ」
「大丈夫。まだこの地下茎は汚染などされておりません。今ならまだ移植しても平気でしょう。陽菜さん!」
会長が言うと、背後でぶるるんと車のエンジンでもかかるような音がして、腰にチェーンソーを据えた陽菜さんが構えていた。
腰にというが、これは根切りチェーンソーという種類で従来のチェーンソーと比べるとだいぶ小型、女性でも担げるものである。けれど、危険な重機であることに変わりはなく、僕は心配だった。
「だ、大丈夫? 陽菜さん? 何なら普通に僕が……」
「大丈夫! 見てて、大河。それから健! 母ちゃんつええって思わせてやっからなー!」
陽菜さんはそうして意気込むと真竹に繋がった、成人男性が軽く指を曲げるくらいの太さの地下茎、その周りの根を剥ぐようにして、チェーンソーの刃を入れていった。
「私が切って、健が回復……」
「やりたいのは重々分かるけど、手元集中して」
「はい」
太陽がちょうど天井に昇った頃、僕らは竹林を出て、常世さんの運転するミニバンと合流した。竹は嵩張るので後部座席に横に刺すようにして、積んだ。
そして、二本あった。
一本は帰りに見つけた孟宗竹だ。例の女性が先に見つけた場所に生えていたものである。
その足で常世さんの家に行き、裏庭にきちんと距離を空けて植えた。
「けれど、今更ですけど、いいんですか? 竹って成長速度とか繁殖力ハンパないらしいですよ。竹害とかって言葉も……」
「ちょうど何か寂しくて、ガーデニングしたいって言ってたから平気よ」
「竹ってガーデニングの範疇になるのかなー」と陽菜さん。
「庭に植えれば何でもガーデニングよ。例えラフレシアだろうと、ドブみたいな匂いがするだけで花は花だわ」
僕はそんな会話を聞きながら、ああ、この姉譲りなのだと完全に認知した。
移植した竹の残った節には念のため、穴を空けて水を差し込んだ。庭師のトピックで調べたところ、こうしておくと葉や地下茎に水が行き届き、また竹がつきやすいのだとか。
そして病院へ行き、僕らはまた健の病室で一晩を過ごした。
けれど昨夜とは違い、僕らはそれぞれ健のベッドに頭を乗せるとすぐに眠りに落ちたのだった。
この地下茎救出が功を奏したのか、健の体調は瞬く間に良くなり、次の日の昼には快復。退院できた。
「……ぜんぜん知らんかった。マジで大奮闘じゃん、二人」
大学の食堂にて、瑛子が元気になった健の頬をくすぐりながら言った。健は若い女の子が好きだ。殊に大学に来て、女性にちやほやされると得意になってよく笑う。
「うん。大河も頑張った。皆、頑張った」
「陽菜さんの真剣さに引っ張られた感じだよ」
「大河はいつになったら陽菜って呼んでくれるのか……」
「ふーん……」
瑛子さんが意味深な笑みを浮かべていると、ふとテーブルに影がさした。
三人で見上げるとそこにいたのは自治会会長だった。
「皆様、ごきげんよう」
「あ、おはようございます」
けれど、僕らの中でもはやその人に対する外連味のようなものはなく、何だったらお礼に伺わなければと思ってもいたのでちょうどよかった。
「会長、あの昨日はあり——」
「さて、何のことですか。私は昨日もずっと自治会室で事務をしていましたが」
「あー……」
僕が口淀んでいると、会長は一切を気にしないように健の頭を撫でる。
「健くんも、今日も元気なようで何よりです」
僕はとたんに察していた。会長の普段の立場から言っても、例の理解のある彼が生えてくる竹林にいたことなぞ知られれば面子が立たなくなるのだろう。
「でも、なんとなく、ありがとう」
「よくわからない人ですね。まぁ、いいでしょう。つきましては皆様にお話があります。オカルト研究会なるサークルのことで」
「お……?」
陽菜さんがそれで耳をそばだて、会長は続けた。
「では、皆様のサークル部室に案内していただけますか」
「ぶ……しつ?」
陽菜さんが初めて聞いた単語のように返して、僕らはそれぞれ顔を見合わせる。
「どうしたのです」
「……ここでいいか、ここで」
「だね。いつも大体この辺で話して、始まってるし」
瑛子さんもやや呆れたように口元を曲げながら頷くと、陽菜さんは真正面から会長を見上げて言った。
「ここです」
「…………」
会長は硬く目を閉じ、しばらく絶句しているようだった。きっとおそらく、今、会長の頭の中では過呼吸なり深呼吸が行われているだろうことが、僕には分かる。
ああ、やっと理解者が現れたとさえ思って、僕は優雅にコーヒーを一口飲んだ。
「……そういうこともあるでしょう。分かりました。では、単刀直入に申し上げます。団長、近江 陽菜さん」
「はい、何でしょう」
「私をオカルト研究会なるサークルに入れてください」
「いえ、オカルト研究会などではなく、オカルト研究活動家SNS団です」
「……オカルト研究活動家SNS団に入れてください」
「でも、五人だと一人あぶれるよ?」
「ご心配には及びません。正式に入部というわけには参りませんが、ここにはもう一人、立派な殿方がいらっしゃるではありませんか」
「認めません」
「そこをなんとか。私、先日、彼の勇ましさに触れて以来ずっと胸の鼓動が止まらなくて」
「地下茎と十四日歳児相手に何言ってんだ、この人」
僕はたまらず突っ込んでしまった。
「大体自治会はどうするんです?」
「掛け持ちは認められていますし、問題ありません」
僕は陽菜さんを伺った。
ボスは陽菜さんだ。そして、先日の奇妙な縁について、少し思い返した。
竹林で地下茎を掘り返したあと、出口に停めてあるミニバンまで主に僕と大吉さんで竹を運んだのだが、その最中、そこでは思いがけない再会があったのだ。
到着し、奥地までやってきた常世さんに対し、当初よそよそしかった会長だったのだが、常世さんがその白い防護服の目元を覗き込んで発覚した。
「——智華ちゃん?」
「……智華ちゃん?」
僕と陽菜さんが揃って首を傾げる一方、会長は常世さんにそっぽを向いて顔を隠した。
「はい? 誰ですか、その
「前頭葉大丈夫なのかな、この人」
僕が呟く傍ら、常世さんはそっぽを向いた会長の先回りをして尚も続けた。
「やっぱり! 智華ちゃんじゃない!」
「お、近江先輩……」
常世さんは白い防護服に包まれた宇宙飛行士さながらの会長に腕を広げて言った。
「まぁまぁこんなに大きくなって!」
「いえ、常世さん、多分それ防護服のせい……」
「ち、違います……! だ、断じて、私、近江先輩……これは!」
会長は見たこともないほどに動揺して身振り手振りで訴えかけた——が、次に何か言うよりも先に、常世さんがぽんっ——と、胸の前で手のひらを叩いて言ったのだ。
「あーそっかそっか。智華ちゃんがうちの陽菜を手助けしてくれてたのねー」
「え……」
「それなら私も安心だわ。これからも陽菜と久世くんたちをよろしくね」
「あ……」
会長はしばらく言い淀んだのち、
「さ、左様です! 近江という苗字からもしや? と思ってずっと二人のあとをつけていたら、気がつけばこんなところに! ……あ、ここは竹林でしたか! 筍がいっぱい取れそうですね! 尾行に夢中になって気づきませんでした!」
「あらあら……」
「それはそれでいいのか、アンタ……」
常世・大吉さん宅の裏手に二本の竹を植え終え、病院への道中で話を伺うと、全て嘘ということでもなく陽菜さんのことは前々から気づいていて、大切な先輩の妹と意識するあまり過剰に世話を焼こうとしてしまったと白状したのだった。
「会長が我々の傘下に……大河、これは始まったな? 流れ変わったな? 白き一角獣のテーマをここに」
「流さないけど」
「……どういうことなのです?」
僕はゆるく手のひらを返して言った。
「つまり、陽菜さん語で、オーケーってことです。これからよろしくお願いします……ええと」
「見月でも智華でも会長でも構いません。性は見月、名は智華。自治会会長、見月 智華。これから、あなた方の力になりましょう」
「Cだな、C」
陽菜さんは呟いた。
こうして僕らのSNS団に新たな変人が増えたのだった。
だが一難去ってまた一難というように、このとき僕らには既に次なる困難の波が押し寄せていたのだ。
数日後、珍しく僕が陽菜さんと健を連れて大学へ通い、代わりばんこに講義を受けたその昼のことだった。
食堂の入り口がにわかに慌ただしくなり、青い制服を着た如何にもと言うような強面の男たちと一人の女性がまっすぐに僕らの席にやってきた。
即座に黒い手帳を見せて言った。
まさしくドラマのワンシーンのようだった。
「近江 陽菜。それから、君が久世 大河だな」
「……そうですけど」
「君らに未成年者略取及び拉致、そして虐待の容疑がかかっている。ご同行願えるかな」
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