第6話

次の日の朝一番で、二人は役所に出頭した。

 婚姻届のように手触りのいい用紙を受け取ってロビーの記入ブースに立ち寄ると、間もなく二人、紙面を前に頭をひねった。

「名前……産まれたところ、僕らの名前、本籍地、同居を始めたとき……うまれた、ところ……?」

 大河は油の足りないアンドロイドか何かのようにそこで発言が覚束なくなって、隣の陽菜を見る。

「待って。Googleマップであの竹林調べてみる」

「待て。それでいいのか」

「良いも悪いも、実際そうなんだし。仕方なくない?」

 陽菜は抱っこ紐で結かれた健をゆすりながら、iPhoneの端末を操作していた。その格好、仕草も大分慣れたもので、まだ朝の九時過ぎ。健はすやすや夢の中だった。

「確かに……質問されたら正直に話せばいいか」

「あ、出た。言うよ?」

 そうして健の出生届を提出して市役所を出ると、どんよりと立ちこめた黒雲が重く三人の頭上にのしかかってくるようだった。

 六月に入って、少しした頃。梅雨は始まったばかりで、その日もまたいつぞやのように薄気味悪い天気。雨雲が空を覆い隠しているのに、切れ間から鋭い陽光がレーザーのように差し込んで不気味な明るさの午前である。

「じゃあ、陽菜さん。いつもごめんけど……」

 大河はその日もバイトのため、陽菜と健とは反対方向に歩き出そうとして、陽菜に呼び止められた。

「陽菜。大河、今日、夜、忘れてないよね? 公認サークルの飲み会の日だよ」

「あー。そんなんもあったっけ」

 大河は口惜しげに唇を曲げながらそう返した。

 というのも、この日は夜に公認サークル合同の飲み会があって、陽菜率いるSNS団の面子も出席することになっているのだ。健のことがあればこそ、尚更自分たちの行楽のための出費は削りたいという思惑もあった。

「一応、瑛子と八咫郎が付き添ってくれるんだけど……大河はやっぱ無理そう?」

 陽菜もまた心配そうに眉尻を下げて言い、大河は唸りながら歯切れ悪く返した。

「どうかなー。物の売れ行き次第かなー」

「今日は何のバイトだっけ?」

「テレビ通販の……今まさにお電話が殺到してるふうに電話を受けてるふりをするバイト」

「な、なんでやねん!」

「え」

「そっか……じゃーしょうがない。今日も私がツッコミ役をやらねば」

「……え、陽菜さんがツッコミ役やってんの?」

 大河が聞き捨てならないように言うと、陽菜は目ざとく返した。

「陽菜。だってそこに8万4789個のスンターボールがあるじゃろ?」

「ないけど。陽菜さんには難しいんじゃない? ホリ◯ンと宮◯の漫才みたいになるでしょ。八咫郎とかは?」

「ちょっと違うんだよ」

「そっかー。うーん」

 大河は考えた。最後の収録が午後五時過ぎに始まって、終わるのが六時前。ダッシュで行けば、全然間に合わないこともないのだが、帰宅後の健の世話云々に体力を残しておきたいところで、正直に言うと仕事終わりの飲み会自体がちょっと面倒くさい。

 けれど他ならない陽菜が困っている。というよりか、これは……。

(陽菜さんは他ならないこの僕に突っ込まれたがっている。イコール、つまりこれは……陽菜さんは僕に甘えている……)

 そう思えば選択肢は一つしかない。そもそも陽菜がこうした意思表示をすること自体がもう珍しいので、大河はできるかぎり安心感を与えられるように言葉を選ぶのだった。

「分かった。とは言っても終業時間は決まってるから、そこからできるだけ急いで行くから」

「本当?」

「本当。普通に僕も陽菜さんと飲みたいし。——あ! 閃いた」

 大河はそう言うと、健の肩を軽く叩いた。

 少し前から健は目を覚ましていた。

 あの時と同じような底知れない瞳が、その時は寝起きなのにぐずりもしないで大河をじっと見つめていた。

「健。パパがいない間は、陽菜さんを頼むよ。時間を稼いでくれ。大丈夫。すぐに僕も行くから」

「おいちん?」

「おいち。おいちね。それ以上いくとヤバいからね、保護者の僕らが」

「陽菜だって。でも、ママもいいなぁ」

 陽菜は呟くように言うと、続けて健の手を取り、その場を後にする大河を見送らせた。

「じゃーパパはしばしのお別れじゃ。健、ばいばーいってして」

「おいちん?」

「行ってきます。健、陽菜さん」

 大河はそう言って、陽菜と健はその背を見送り、それぞれその場を後にした。



 飲み会は七時から始まった。

 上座から公認サークルのいわゆる代表者らしき面々が座り、SNS団……つまり、陽菜たちはその末席だった。

 各々アルコールの入ったグラスを持ち上げ、いざ飲み会が始まっても、SNS団を盛り上げるのは瑛子と八咫郎の二人が主で、陽菜は健の面倒を見ながらiPhoneを弄っていた。

 そもそもがこんなところに連れてくるべきではない、という自負があり、持ち前の内気さも手伝って面々の話に積極的に加われなかったのである。

 健も頻繁にぐずった。その度に陽菜は席を立ち、体良く店の外に出て健をあやしながら、大河の到着を待っていた。

 それが三度ほど続いた頃、突然公認の軽音サークルの若きリーダーが陽菜の隣に腰掛けてきた。

 この男もまた遅刻組。三十分ほど遅れて場に現れ、メンバーから熱烈な歓迎を受けた人物であった。

 が、陽菜はまるで認知していなかった人物で、にも関わらず、やたらとスター気取りなのが鼻につく男だ。

 優男という点では大河もそうだが、その男の"優しい"にはぬめっとした気持ち悪さを感じていた。

「ごめんなー。"オカ研"って初参加でしょ? それなのにこんな端っこの席でさ」

「いえ、おかまいなく」

「なんか俺も思うんだけど、公認の連中って年功序列的なとこもあるから。先に入ってた方が偉いみたいな? 馴れ合い的な。俺も良くないとは言ってるんだけど」

「いえ、おかまいなく」

「俺、最初オカルトって聞いたから勝手なイメージでさ、どんな人が来るんだろうって思ってたら、陽菜さん普通に可愛いからびっくりした。やっぱ噂の久世くん? と付き合ってんの」

 陽菜は健を抱き上げて、その男に見せつけるようにいう。

「愛の結晶です」

「……はは、それマジなんだ。オカ研って君と久世くんで変なとこ行っては変なことしてるって、あれ本当にそういう意味だったんだ」

「想像の通りです」

 その言葉の通り、陽菜はこういう社交的な人間が苦手だった。というより基本的には人間が苦手なのである。けれどもSNS団のため、ひいては大河と健のため、避けては通れない。そのジレンマから極めて機械的に接していたのだが、

「結婚すんの?」

 その一言で揺さぶられた。

「ちょ、先輩。あんまり、その奥まった話とか……いいじゃないっすか」

「そうそう。楽しく飲みたいなー?」

 成り行きを見守っていた瑛子と八咫郎もここで身を乗り出した。

「えー……なんで? 聞いちゃだめなの? ていうか、オカ研って何気に女子のレベル高いよね。全然ひいきして援助してもいいと思ってんだけどな」

 軽音の優男はそう言うと陽菜の肩に腕を回して、尚も続けた。

「結婚する前にさ……遊んどいた方がよくない? もうできちゃったのはしょうがないとしてさー。人生一回しかないんだし、楽しんどいたほうが得っていうか」

「ちょ、先輩!」

 と、八咫郎が間に割って入るより早く、健の幼い声が響いた。

「おいちん? これ、おいちん?」

「あ、なに? ごめん。俺、正直ガキって苦手なんだけど……」

「これ、おいちん? おいちん?」

「健……」

 瑛子や八咫郎は元より、その意図するところをいち早く汲み取って、陽菜はその場の誰よりも驚き、健の瞳を見つめ返していた。

 健は陽菜の胸元に抱かれたまま、そうして優男の腕を指さして繰り返すと……突然、かぶりついた。

「いってぇーーーっ!」

 優男は軽い悲鳴をあげて、陽菜から腕を離していた。

 それとほぼ同時に辺りで見て見ぬ振りをしていた公認サークルの連中もいよいよ気づかないわけにはいかなくなって、場が騒然とする。必死に優男を庇う面々を前に、陽菜は健を抱き上げると、

「通訳やります! 『お前はイカくせえ毒キノコだ。そっちの女はドブくせえラフレシアだ。てめえらの薄汚ねえ手で俺のママに指一本触れてみろ。末代まで呪い殺してやる、うちのパパが』と言ってます」

「な——ちょ、見て! めっちゃ痕残ってる! ギター弾けなくなったらどうすんだよ!」

「『十三日歳児にコケにされる方が悪い。初めて噛まれたと言って喜ぶところだ、うちのパパなら』と言ってます」

「おい、鳥海! 鷹見!」

 二人も場の流れに従って、立ち上がっていたが、もはや冷めた顔つきをしていた。八咫郎とて、瑛子に穢らわしい台詞を吐かれているのである。

「赤ちゃん相手にそりゃないっすわー。せんぱーい、勘弁してくださいよー」

「つか、悪い。アンタの発言、全部録音してっから。元業界人の警戒心なめんなよ。所詮は内輪受けのパンピーが」

 二人して言い放ったその時だ。

 陽菜の目が、そして健の目も、居酒屋のロビーの方を見て輝いた。

「『パパが来た!』」

「あれ? 皆さん、立ち上がって……もしかして、もう終わるところっすか?」

 大河の姿を認めると、公認サークル代表の一人がすかさず詰め寄って説明した。

「は? うちの健が?」

「そうなんですよ! なんてことを。彼は軽音サークルのリーダーでライブだってこなして——」

「あーそう。誰か、鏡持ってない? 鏡」

 大河がこう言うと、瑛子が自前のポーチから手鏡を取り出して渡した。「ありがとう」と断りを入れて、大河は鏡を見る。

 すると、珍しくそこには大河の顔が映っていた。

 珍しく、というのも大河は一年の時のある経験から鏡に自分の姿が映らない特殊な性癖を持っているのである。それは鏡の中の反転した自分が向こうの世界で好き勝手にやっているからなのだが、この時は、それを予期していたかのように待ち構えていた。

「よぉ、久しぶりー。やっときたか、俺の出番」

「あーもう、今日はいいよ。好きに暴れちゃって」

「任せとけ。めちゃくちゃにしてやんよ。だってよ、鏡の中のアイツは、俺のパシリだぜ」

 大河は短く告げると、改めてお座敷の方に向き直り、つかつかと歩み寄って優男に声をかけた。

「あれ、先輩、今日は彼女と一緒じゃないんですか。ここにはいないみたいですけど」

 その一言はたちまちお座敷の上に並んだ女性メンバーたちの耳元を駆け巡った。誰もが暗に付き合っているのは自分だと思っていたのである。

「は——は? いきなり現れて何言ってんだてめ」

「あーじゃあ、彼女が側室で、この中に本命がいるんですか?」

「て、てめ。それ以上何か言ったら」

「それとも、皆飽きてたところで、だから瑛子さんや俺の陽菜さんに手つけようとしたのかテメェ」

 言いながら大河は座敷に腰をついていた優男の胸ぐらを掴みかかっていた。

 鏡は映る全てを反転する。鏡の中と入れ替わった大河は性格が逆転するのである。その事情を知るのはSNS団の三人だけであった。

「どうなんだよ。男だろ? ここで、男らしくはっきり言ってみせろや! ふにゃちんじゃあ、言えねーだろうけどな。ひゃははは」

「……それにしたって、変わりすぎじゃね?」

 取り巻きからもう数メートル距離を置きながら、八咫郎が言い、瑛子が返した。

「最近、変わってなかったから。反動みたいなのもあるんじゃない? あと突っ込んでなかったとか」

「健。あれがパパだよ」と陽菜。

 お座敷ではなおも大河の高笑いが響いていた。

「おい、泣いてんのかよお前! ウソだろ! 大人だろ? だが、人の女に手出すってな、二度とそんな気が起こらねえようにここでトラウマ植えて矯正しとかなきゃなあ! ひゃははは」

「ふにゃちん? これ」

「ううん、パパはパパ」

 健が大河を指差す傍ら、陽菜は器用にワンクッション入れて健を抱え直しながら言った。

「パパの可哀想なもう一つの人格。いつもは突っ込むことで発散しているんだよ。……という設定、今、考えたんだけど、どう? 健」

「マーマー」

 健は興味を失ったように陽菜の肩にしがみつくと、指を口に入れて遊び始めた。

 それからはほぼ豹変した大河の独壇場になった。好奇心旺盛だったり、怖い話が好きな一部の人たちも彼らの実しやかな体験談を聞くうち次第に夢中になり、飲み会の空気は完全にSNS団が支配していた。

「二次会行く人ー?」

 しょんぼりした軽音サークルの面々はさておき、そうした支配者のいなくなった他の面々は久方ぶりに羽根を伸ばすように悠々とアルコールと浮かれた空気を楽しみ、そんな風に店先で一層和気藹々とする中、

「ま、盛り上がったからそれは結果オーライだけどさ、政治としてはもう終わりよね」

 瑛子がふとつぶやいた。

 大河が来て以降の雰囲気は楽しかったのか、陽菜もまたその二次会のグループに加わろうとして、八咫郎に静かに引き戻されている景色を眺めながら、瑛子は呆れたように続けた。

「久世くんも、明日からもっと大変だと思うよ。裏団長とか本当にヤバいのは久世くんの方とか好き勝手言われるよ絶対」

 大河は健を抱えて、いつも陽菜がするようにゆすりながら言った。

「ははっ、箔が付いていいじゃねーか。なぁ? 健」

「つか、まだ入れ替わったままなの。つか、なんなのそれ。躁うつ?」

「病気みたいに言うな。てか、まぁ病気みたいなもんだけどさ、人間ってそういうもんだろ。車走らせて環境を破壊する一方でエコとかってポリ袋は無駄に大事にしてみたり、犬や猫を可愛がる一方で羊や牛を殺して食うために飼ってたりする。腐ったら食うこともなく捨ててたりする。矛盾がデフォ。他の生物からしたら、人間が一番奇妙だ。——ヤバくない人間なんている?」

「————」

「そんな中でさらにヤバいってのはさ、そりゃお前、誰よりずっと人間らしいってことじゃねーか。何を恥じることがある? だろうが」

 当たり前のように笑い、当たり前のようにそう言ってのける大河の少年みたいな表情に、瑛子はシンプルに見惚れていた。

 言ったばかりの自分の言葉が決して誤解や妄想の類ではないと芯の髄まで染み渡るように。

 陽菜もそうだが、この男も十分に奇妙だ。

 そしてそこに少なからず魅力を感じている自分がいる。

(そういえば後から聞いた話だったけど、鏡の中では……私は……)

「人生ってそもそも無駄と厄介から成り立ってるんだよ。そうじゃないって人はたぶん自分が木の股から産まれてきたとでも思ってんでしょう」

 その落ち着いた言い様からは、先ほどまでの狂気が消え失せている。けれど、根本のところはまるで変わらないと瑛子は思った。

「陽菜さんはそれを分かってる。だから普通だったら見て見ぬ振りして通り過ぎる無駄や厄介や面倒事さえめっちゃ楽しめるんだ。だから、陽菜さんは最強なんです」

「結局ノロケか……」

 瑛子は呟くと、背伸びをするように腕をぐーっと伸ばした。

「あー! なんかさー私みたいな根が真面目にしかやれない、つまり普通の奴からすると、ほんと、陽菜みたいな天才肌っての? くっそ羨ましいわー」

「反対のことを陽菜さんも思ってる」

 大河は腕に乗った健と向かい合うようにして鼻を拭ったり、目ヤニをとったり、弄りながら言う。そのさりげなさにどこかしら意匠を汲み取って、瑛子は丸ごとは飲み込めない、全部は納得し難いまでも、肯定して返した。

「そういうもんか」

「そういうもんだよ。だから、自分とは違う誰かに焦がれ、羨むんだよ」

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