第5話
大河は一度冷蔵庫やらの確認のために自宅に帰還した以外はもうずっと陽菜の家に寝泊まりする日々が続いていた。
そんなある日の学食。陽菜の向かいに座った瑛子が対面の
「うわー、健可愛いー。てか、また大きくなった?」
「うん、健。成長期」
陽菜はさも鼻高くして言うが、その身長はすでに竹から生まれたときの倍近くまで伸びていた。片言で喋りもして、二歳児相当であって、瑛子はどこか奥歯に物が詰まったように続ける。
「うーん、久世くんがいたらな。なんて言ってたかな」
「いやいや伸びすぎだろ! おかしいだろ、まだ二週間なのに! とかか?」
瑛子の隣で返したのは彼氏の八咫郎であった。
鳥海 八咫郎は久世 大河と同じ教育学部の同回生だが、こじんまりとして優男然とした大河に対して、こちらはかなりスポーツマンであり体格もよかった。二人とも特別仲がいいと意識したことはなかったものの、高校が同じで、周囲にそのように思われるうち、本当によくいるようになった経緯がある。
最近はもうずっと、大河は日中バイトを詰め込んでいて大学には最低限しか来なくなったので、代わりとでもいうようにこの男がボディーガードのように二人に付き添うようになっている。
瑛子はしかし、からからと笑う。
「あはは、似てるー。けど、もっと鋭くくるよ久世くんなら」
「うーん、でも最近は静かなツッコミも覚えて、バリエーション豊かなんよなアヤツ」
「あいつも苦労したんだな……」
と八咫郎がしみじみ言い、瑛子が切り出した。
「……で、その久世くんは今日もバイト?」
「うん。夜には一緒にいたいからって、日中はほぼ全部の日入れてるみたい」
「それで大丈夫なわけ? 単位とか」
「それも計算してるみたい」
「アパートは? 家賃もったいなくね?」
「それも考えてはいるんだけど……まだ一応ね」
「ふーん。大変だぁ」
「うん。まー実は私自身はそこまで困ってるわけでもないんだけど、……最近格好いいから、好きにさせてる」
陽菜は補助席をつけた隣の健に、咀嚼したご飯を運びながら言った。その何気ない仕草の中にも、緩やかな表情と強かな母性が垣間見えて二人は驚いた。
(へぇ……久世くんのやつ……)
「おいちおいちおいち」
自分の頬を軽く叩きながら言う陽菜に健も「おいちん? おいちん?」とか言いながら返している。
(くっそー、久世くんいたらなー)
その様も含め瑛子が感銘を受けていると、陽菜は頭を捻りながら呟く。
「なんだっけな……ゴルフ……ゴルフのキャディ……」
「えー普通に仕事やん! そんなの」
「ゴルフのキャディのふりして、依頼人のおじさまが飛ばしたらわーって言って盛り上げるバイト」
「くっそー、久世くんがいたらなー! 調子狂うなー——あ、てか久世くんがやってんのか、そのバイト」
八咫郎はまだ先ほどの陽菜の表情に面食らいながら、ずっと気になっていたことを切り出した。
「……え、てか陽菜さんさ。竹なんでしょ?」
「ん?」と陽菜。
「いや、だから——え、二人、もしかして」
と、そこまで言って、瑛子がその腹を小突いた。眉根をひそめて続けて言う。
「——もう。それは野暮でしょ、八咫郎。ずっと二人で——あ、三人か——で暮らしてんだよ。気にはなるだろうが、察しろ」
「あー」
陽菜さんは二人の些細なやりとりを見受けて、腑に落ちたように言ったときだ。
食堂に構内アナウンスが流れた。
〈文学部二年、近江 陽菜さん。文学部二年、近江 陽菜さん。至急、D棟三階のサークル自治会室までお越しください。繰り返します——〉
瑛子が陽菜を見ると、陽菜はにやりと笑い、
「来たか……!」
満を辞したかのようにそう言って立ち上がった。
「大丈夫?」
「理論武装はしてきた。ちょっと緊張するけど、大河がいないなら私一人でもやるしかない……!」
「なぜ呼び出されたか、お分かりですね?」
陽菜が先日大河と訪れたばかりのサークル自治会会長室を尋ねると、やはりその一昔前の海外刑事ドラマであるような応接デスクの向こうで、手を組んだ会長が開口一番そう言った。
陽菜は抱っこ紐で胴体に健を結いたまま、毅然と言った。
「いよいよ私たちのSNS団に援助していただけるのですね」
「違います」
会長はにべもなく言った。
「近江さん、あなた休学したらどうですか」
陽菜は一歩退き、あたかも愕然としたかのように顔をこわばらせて言った。
「な、なんでやねん!」
「あなた方のことは伺っています。構内でもその話で持ちきりですからね。だから、私はあれほど計画性もなしにできたら云々と、口酸っぱくして言ったのに」
「何言ってんだー! この人はー」
「ですから、育児と学業の両立は大変でしょうから。ここは一度休学して、まずは育児に専念なさいと提案しているのです。悪くない判断かと思いますよ。大学側もそうした利用できる制度はありますから、僭越ながら私の方でまとめておきました。こちらが資料です」
「会員の人、誰か通訳お願いします!」
「安心なさい。全て日本語です」
「えーと、えーと……」
陽菜はこの場にいない大河の代わりに意気込んで突っ込んでいたのだが、如何せんレパートリーはすぐに尽きた。
他方、会長は……、
「まぁ私も鬼ではありません。軽率な性交渉や快楽だけを求めるような不純な関係こそ認め難いものですが、しかし……できてしまったなら、事実を貶しても仕方ありません。次を考えるべきで、本来喜ばしいことではありませんか」
会長はため息混じりにそう言って立ち上がると、陽菜と健に近づいて、一言陽菜に断りを入れたのち、健のまだ薄い頭を撫でた。
「こんなに可愛い子供に、罪はありませんから」
「…………」
その手つきは慈愛に満ちていた。
陽菜は立ち所におふざけのスイッチを切って、改めて会長を見直した。そもそも健も泣かないでいる。健にこんな風に接することのできる人間が悪い人なわけがないと判断したのだった。
「それで、今日は父親の方はどうしてるんです?」
「大河は今日もバイトです」
「養育費を稼いでいるのですか。これから大変ですよ」
「でも格好いいから」
「格好いいは歳と共になくなります。お金は大切ですよ」
「それは……そうです」
陽菜は本心から言った。
「けれど、それ以上にこの子に対する愛が大切です。私にはそれが分かります。金持ちで愛のない二人の元に生まれるよりも、例え貧乏だって両親が仲が良くて、恥ずかしいくらい愛しあってて、その間に生まれた子をパートナーと同じくらい……ううんそれ以上に愛せる方が、絶対にいい。私の世界ではビタ一文動かない真理です。大河はそれがあると思います」
会長はどこか気恥ずかしそうに顔を赤らめながら言った。
「……誰もそこまで聞いていません。まったく、夜の営みを公然と暴露するなんて、なんて破廉恥なの、あなたは」
「誰もそこまで言ってません」
予想外だった会長の温和な態度から、しばらく会長室では三人の会員共々健を中心としたかしましい雰囲気が続いた。
「健! おいでおいでー」
「お菓子は食べられる? まだダメなの?」
「そもそもなんで健? 健康的なイメージ?」
「ううん。大河は神様から頂いたって言ってた」
会長はただじっとデスクに座り、いつものように手を組んでその様子を慈しむように眺めたのち、ふと気づいたように言った。
「——ところで、まさかとは思いますが、近江さん。この子、出生届は出してあるんでしょうね」
「え」
「え、ってあなた。ええと、どこの産婦人科で出産したのです? 頂かなかったのですか?」
「あそこの墓地に見える竹の丘病院……だから、そんなのもらってない、です」
「……この子が産まれてから今日で何日目ですか」
「先々週の金曜日だから……十二日」
会長は絶句していた。日本の法務省において出生届は国内での出産の場合、十四日の提出期限が定められており、それを過ぎると罰金が課せられることになっている。
「今日は水曜日……産まれた当日もカウントされますから、明日までに出さないと罰金ですよ」
「あー……最初の頃、一瞬だけ話題に出てきて忘れてました」
「まったく。大体その竹の丘病院というのはどういうことなんです」
「健はあそこの竹林から出てきた理解のある彼だから」
「……なんですって?」
会長の勘繰った一言に陽菜は即座に訂正した。
「あ、間違えた。あそこの墓地に見える竹林病院で、私が出産……」
「久世さんを呼んでもらってもいいですか?」
「はい」
陽菜はそう言うや立ち上がり、間もなくiPhoneで大河に連絡した。長い呼び出し音の後で大河はようやく出た。
「あ、大河? 今ね、自治会室に来てて——うん。ううん、会長が色々してくれてて——うん」
「代わってもらっても?」
会長が陽菜の隣で手を差し出していた。
陽菜は大河に一言断りを入れてから、会長に手渡した。
「お電話変わりました。ええ、健くんの出生届と……そう、それがまず一つです。明日までの提出です。それから……それからですね。健くんが例の竹林から出てきた子だというのは本当なんですか?」
〈はい。白状すると、そうです——けど、ちょっと待ってください。今、僕もバイト中でして〉
陽菜のiPhone越しに大河が言い、会長は察して手短に返す。
「分かりました。後日、その辺りは改めて確認させて頂いても? ——はい、お待ちしております」
その時、やはりiPhone越しに小気味の良いぱこんといった音が聞こえた。
〈あ! 会長、ごめんなさい! ……わーーーー!〉
「あの……久世さん、失礼ですが、あなた今、何のバイトをしているんですか?」
〈えっと……ゴルフのキャディのふりして、おじさまがかっ飛ばしたら景気良くわーってやるバイトです〉
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