第4話

しかし、それ以上の成果はなかった。

 竹林に入ってから、すでに一時間以上は経過している。そして確かに毒キノコや毒の花やラフレシアなんて異常現象も見て取れた……が、なかなか本丸に当たらなかったのである。

 つまり、理解のある彼の現生だ。

 一度それらしい光景を目にした。

 その女性は手当たり次第に竹の足元にスコップを突き立て、掘り返してはまた丁寧に土を戻していくという奇行をもはや奇行とも思わぬように、慣れた手つきで繰り返していた猛者だったが、それがふと、一本の竹の元に立ち止まると、

「いやぁぁあああ、でたああああ!」

 と竹林全域に聞こえ渡るような大きな悲鳴をあげて、スコップも放り投げるようにすると、そこから何かを拾い上げ、胸に抱えるようにして来た道を狂喜乱舞して駆け戻って行ったのだった。

 周囲の人たちは落胆だったり、そんなため息をついては、再び竹巡りに戻っていった。

 それきり、少なくとも僕らの近くでは目ぼしいことは起きていない。

「うーん。条件があるのかな?」

「ゲームじゃあるまいし」

「例えば最初は1%くらいの確率が、掘り返した数に応じて徐々に上がっていくシステムとか」

「ゲームじゃあるまいし」

「あとは十万くらい使ったら、もうチケットが手に入ったり」

「ゲームじゃあるまいし」

「それか、イベントのキーアイテム集めて交換するとか」

「ゲームじゃ——って何回言わせんねん!」

 そう、もはや僕らは飽きていたのである。だから、コントに精を出していたのだが、そうして突っ込んだまさにその時だった。

 視界の端にある竹の真ん中辺りがきらっと光った気がしたのだ。

 僕らは即座にコントをやめ、互いに目を見合わせた。

「今の。陽菜さんにも見えた?」

「じゃあ、大河も」

 そう言い合うと互いに一つ頷き、警戒しながら二人、問題の竹を囲むように近づいていく。

 その竹は一見しただけで分かるくらいに青々としていた。それに周りの黄土と黄緑のマーブルに混ざった色した竹と比べると、白い粉がほとんど付着しておらず、また鋭く細い。

 触診するみたいに軽く手をつきながら陽菜さんが言った。

「これ真竹だね」

「真竹?」

「日本の古来の種。細くて、如何にも竹! って濃い翠色してるでしょ? で、艶もあって、節のとこの数とか、粉が吹いてなかったり」

「周りのとは種類が違うってこと?」

「そう。周りでたくさん生えてるのは孟宗竹だよ」

「もうそうちく……ん? 妄想……竹?」

 僕が考え込んでいると、突然陽菜さんが「あっ」と言って、僕は肝を潰した。

「ど、どうしたの? 陽菜さん。なにか分かった?」

「ちょっと待って。今気づいたんだけどさ、大河——」

 陽菜さんは竹を挟んで大きく目を見開き、僕を見ていた。

 僕はともかく陽菜さんがこうまで驚くなんてただごとではない……僕が固唾を呑んで次を待っていると、陽菜さんは言った。

「大河は、まだ私のこと"さん付け"で呼んでない?」

「——は?」

「いや、私はこの前のねーねが来たときの練習でさ、もう大河って呼んでるし、慣れるとなんで今までタイガーとか伸ばしてたんだろ? アホなん、私? ってくらい呼びやすいけど、大河はいまだに"陽菜さん"じゃん」

「いや、うん……そうだけど」

「なんか納得がいかない」

「気づいたのってそれ?」

「そう。大河も陽菜って呼べ」

 僕は深呼吸して、

「なんのこっちゃねーーーーーーーーんっ!」

 ツルツル頭の友達が敵の大将にやられたときの金髪になる宇宙人のごとく力の限り、拳を握って空に叫んだのだった。

 次いで吹き出すような音がした。

 僕らは再度顔を見合わせる。

 ぷっくく……くすくすと堪えきれずに笑い出すかのような、それでいて異様に幼い……声だ。

 それが二人の間の竹の中から、聞こえてくる。

 陽菜さんは節間に耳を当てるようにして位置を確かめると、先ほど拾ったスコップを掲げて、

「——大河。もし変なとこで切っちゃったら、黙って一緒に埋めてくれるよね」

「怖いこと言うなよ!」

「だってほら、分かんないじゃん。竹取物語だってワンチャン、初手で完結してるよね、あれ。ギリギリかぐや姫のさ、上を切れるとかそんな上手くいくか分かんないじゃん——」

「いやいや、だから、光ったんだよ。目印がなかったわけじゃない。光ったから、翁はその上を切ったんだ」

「あー。そっかそっか。でも、これ光ってないしな——事件に発展する可能性も十分にあるよな——」

 すると、僕らの会話を聞いているかのように。

 間もなく真竹の一点が光り輝きだすではないか。

「あら?」

 陽菜さんは意地悪そうに笑うと、真竹のその光を指さして言った。

「聞いてる聞いてる!」

「まぁそりゃ聞こえてたら光らざるを得ないよね……そして煽るなや」

「だって、なんかもう、すでに可愛いんだけど。あーこりゃ確かに理解あるわー。中でめっちゃびびってそう」

「やめてさしあげろ」

「はーい」

 陽菜さんはそう言うや、ようやくスコップをその光の上、節の部分に突き立てた。

 スコップを境に新緑の節がみしみしと音を立ててしなり、天を仰ぐように竹が奥に倒れていく。

 すると、どうしたことか。

 切断面から金銀財宝が中から溢れ出して止まらなくなるかのように、とたんに光の洪水が溢れ出して、僕らは目をくらませた。

「この演出はSSR! 十二時の鐘の音が聞こえる! 担当のサインきちゃらああ!」

「急なハイテンションやめろ! バレる! プロデューサーなのバレるから!」

 やがてその光線の中を陽菜さんは遮るようにして、身体で覆い、両の手のひらで節の周りを囲うと、そっと——掬い上げたのだった。

 節間の中で眠る、小さな赤ん坊を。

「ねぇ、見て! 大河!」

「マジかよ……マジで、マジかこれ」

 僕は今更だけど、驚愕を禁じ得なくて、目頭をこすった。

 陽菜さんはまだ光の残滓をまとう裸の赤ん坊を頭上に掲げると、威勢よく言い放った。

「理解のある赤さん、とったどーーーーっ!」

 と感動したのもそこまでで、赤ん坊はすぐに大きな声で泣き出した。



 以降竹林をこっそりと抜け出て、タクシーに乗ってもずっと泣き続けていて、僕らは代わりばんこに必死にあやしたけれど、やっぱり泣き声は止まなかった。

 一応、すっぽんぽんだったので僕のコートで包んでいる。

「ちゃぁーっぷるっちゃぁーっぷるっ!」

「おおーよしよーし。怖くない怖くないよー」

「いや僕はもう怖いよ。なんだよその泣き声、おかしいだろ。どっかの病院で説明してさ、預かってもらおう。たぶんすぐマッチングするよ。良い里親と知り合えるよ」

「なんてことをいうの、大河。私たちの子に」

「いやうれしいけど——え、陽菜さん、それガチで言ってんの?」

 僕が内心の獣をないまぜにしながらそう言うと、陽菜さんは念を押すようにして返した。

「陽菜。本当にスケベでちゅねーパパは」

「え、え? そ、それでいいの? 曲がりなりとは言え……陽菜さん、え、マジで?」

「陽菜」

 陽菜さんの念押しに続いて、小粋なサングラスをかけたおっちゃんドライバーが言った。

「お客さーん、そんな立派な既成事実授かっといて、今更そりゃねえんじゃねえの」

「既成も事実もマジでないから言ってんだよ。いいからお前は黙って運転してろ。当たり前のように入ってくるな」

「あんなにそそり立った竹の中から出てきた子ですもの。きっと立派な理解ある彼になるわ。ねー? 大河マックス三世」

「よし分かった。僕が名づけるから。竹から出てきたからタケルにしよう。漢字は後で考える。あと言い方。このままいくと、何も間違ってないのに、そのうち僕逮捕されそう。え、てか理解ある彼ってそういうことなの? あとどこ突っ込めばいい?」

「近江 タケル? 久世 タケル?」

「それも後で考える。まずは色々買って帰らないとでしょ。この辺、西松屋とかあったっけ?」

 こういうときタクシーの運転手はめちゃくちゃ心強い。その知見はGoogleマップなんて足元にも及ばず「伊達にこの街を庭に客運んできてないんですよ」とばかり得意げになって僕らを案内してくれたのだった。

 タクシーの運転手には駐車場で待っていてもらって、僕らはとりあえず必要なものだけを揃えることにした。

 哺乳瓶セットに粉ミルク、もしかしたらと離乳食。おむつにおくるみ等の衣類。それから少量の玩具である。

 更にこういうとき、若い人であっても出会う人々はやたらと親切になる。むしろ、未熟な二人に世話を焼きたくてしょうがないおばさんもいて、僕らを見とめるや付き添って、色々教えてもくれるのだった。

「あらあら、可愛いわねえ。なんていうの?」

「大河マックス三……」

「これタケル、食べられるかなー。三〜九ヶ月だって」

 僕が適当な品を持ってこれ見よがしに割って入ると、おばさんは頬に手を当てながら言った。

「まぁタケルちゃんっていうの? おいくつ?」

「生後一時間ってとこですかね?」と陽菜さん。

 僕は何も言わないけど深呼吸する。

「あらあら! すごいわねー最近の子は。どこの産婦人科なの? ここら辺なら、あそこの産婦人科さんがベテランで私の時も……」

「あそこの墓地に見える竹の丘病院です」

 この時、しかしながら、僕は幸せな優越感に満ち溢れていた。

 曲がりなりにも陽菜さんと並んで、赤ん坊をあやしながらベビー用品を買い集める日が来るなんて。そんなお店をカートを押しつつ、見て回っているなんて。

 僕は歓喜なる震えを堪えられない。

 この世にこんな誇り高い仕事があるだろうか。

 男冥利に尽きる。この時ばかりは僕だって目の前で繰り広げられるありとあらゆる理不尽がどうでもよくなって、自然と受け入れられていた。

 けれどレジに並んだ0の数を見て、現実にかえる。

 僕にはもう天文学的数字だった。

「全部出せる?」

「全部出して半分くらい」

 陽菜さんはタケルをゆすりながら、器用にカートに積んでいた自分のバッグを指した。

「私の財布出して。カード使っていいから」

 けれど、その仕草でさえ今一瞬の自分の情けなさを棚におけるほどに、甘美だった。

 僕らは再びサングラスのおっちゃんドライバーの元に戻り、しかし陽菜さんは先に僕の家の方面を指示した。

「大河も着替えとか持ってきて」

「え……」

「さすがに夜一人なのは不安だから」

 泊まっていいのか……なんて僕の浅はかな杞憂を、その少し強張った顔は、ギャグではなく、もう二、三段すっ飛ばして先を見据えているようだった。

 これが母性本能とやらの為せる業か。

 陽菜さんの急速な大人らしい変容ぶりに驚きながら、また自分の動揺ぶりに未熟さを噛み締めながら、本気で身体でも鍛えようと考えながら、今は少しでもその不安から君を遠ざけられたらいい。

 少しでも頼もしく見せねばと、その一心で、僕は二つ返事で従うのだった。

「おっす。任された」

 運転席のドライバーがタバコ……の代わりにシガレットチョコを吹かして言った。

「そういうもんだよ。気負うな、青年。一足先に母親になった嫁さんに引っ張られて、男も父親になろうともがくうち研磨されて貫禄が出てくんだよ。そうやって一緒に成長していけばいいのさ。夫婦ってのは」

「だから、だま……」

 僕は突っ込もうとして……言い直した。

「いえ、ありがとうございます。頑張ります」

 とは言ったものの、その日は一日てんてこまいだった。



 僕の家を経由して、陽菜さん宅に戻ると手早く荷解きを済ませ、まず哺乳瓶の準備に取り掛かる。

 タケルをソファに寝かせながら、その傍ら説明書やらスマホのトピックを検索するやらで二人、記事を読み込んだ。

「飲ませる前に腕に垂らすの見たことある」

「緩いくらいがいいのかな」

 お湯を沸かして、粉と適量を哺乳瓶で合わせてから、お互いの腕に垂らしあって、タケルの口に運ぶと、不思議なくらいにぴたっと泣き止んで、静かに乳首を咥え出した。

 どこか必死なまでに見えるその様を見て、僕らもようやくどこか力が抜けて、二人長い息をついた。

 僕はその間に荷解きの続きをして、差し当たって必要になりそうな着替えとおむつを取り出し、他を適度にテーブルに並べて片付けておいた。

 着替えを受け取った陽菜さんがさっそくタケルに装着を試みようとしたところで、軽く悲鳴を上げた。

 僕が慌てて駆けつけると、蛙をひっくり返したような体勢でソファに寝かされたタケルを前に、陽菜さんが額を抱えている。

「Oh……Very……very tinnyね……」

「慣れだ——」

 と軽く言おうとして、僕も深いショックを受けた。

 ちょっと待て。おい、ちょっと待てよ。

 これで、陽菜さんが初めて見た家族以外のTintinはタケルのものということになってしまったのではないか。まだ僕のだって見せたことないのに! いや、大学からの付き合いだから、正直そこんとこはわからんけど。

 訳も分からず蛙のような体勢にされて恥部を我々の前にさらけ出しているタケルのつぶらな瞳。それを前にして、二人、悶えるのだった。

「やっと寝た……」

 と陽菜さんが言った頃にはもう陽が沈んでいた。

 ぐったりとした陽菜さんはそのままソファで休ませて、その日の夕飯は僕が作ることにした。

 断りを入れて冷蔵庫を見ると、適当な野菜と、近くの棚にパスタを見つけたのでナポリタンにする。

 再度大きめのフライパンに湯を沸かしてパスタを折り、入れたところで、またしても悲鳴があがった。

「パスタ警察だ。オーマイガ。これはオーマイガだよ。大河市民。イタリア人ならここで気絶している」

「僕はイタリア人じゃないし、実のところ君もそうなんだ。ちなみに君が今口にしたオーマイガも英語なんだよ、イタリア語じゃないんだ、陽菜」

「なんだって?」

「知らなかったのか。イタリア人なんて、この家のどこにもいやしないんだよ。それが真実だ」

「……知らなかった。パスタを食べれば皆、イタリア人になれると……ちくしょうっ! じゃあ、あたいの……あたいの今までの、パスタを鍋に入れるときのぱさぁって綺麗に広げる練習はなんだったんだ……!」

「それは実はイタリア人もしない」

 ざるに茹で上がったパスタをあけたら、今度はオリーブオイルをしき、玉ねぎ等々の具材を炒めていく。

 ある程度火が通ったところでフライパンの端に具材を寄せ、反対にケチャップを出して酸味を飛ばしてから、具材と合わせたら、パスタを投入してフライパン返し、一気にソースを馴染ませたところで、僕は言った。

「ちゃんちゃん。これやってみると手軽で便利なんよ。味自体は変わらないしね」

「ん」

 僕が言いながらフライパンを向けると、そこから直接パスタを一本取り出して陽菜さんが味見。陽菜さんは間もなく「んー!」と唸りながら、人差し指と親指を合わせて見せるのだった。幸せだと思った。

 いつもはリビングのテーブルで食べるところ、今晩はテレビに近いソファのところで食べることにした。もちろんタケルの様子を見つつ……と思ったのだが、この匂いでタケルが起きてしまい、食事の途中に一回タケルのご飯が入った。

 今度は僕の番。陽菜さんが泣いているタケルをあやしているうちに再び湯を沸かしてミルクを用意すると、ソファのところに戻って、陽菜さんからタケルを預かり受け、ミルクを飲ませていく。

「しまった——忘れてた!」

 陽菜さんが突然言って、僕も思い当たった。

 僕らは今度こそと、ストップウォッチで計測するかのごとく二人してタケルの食事を注意深く眺め、終わるや僕はタケルを抱え上げてソファを立った。

「首すわってないから、そっとね? そっと」

「う、うん」

 そうして少し姿勢を上向きに抱っこしながら、その小さな背を軽く叩いた。

 ゲップをさせていなかったのだ。

 赤ちゃんというのは何もかも未熟で当然飲み込むことさえぎこちない。それでミルクや母乳と共に空気まで飲み込んでしまって、胃にそれが溜まると苦しいし、場合によっては飲んだミルクごと吐き出してしまうこともあるのだ。そこで背を叩いて、空気を吐き出させるのだと昼間に読んだ記事に載っていたのを思い出したのである。

 実はそこまでこだわる必要がないと知ったのは後のことで、この時僕らは生命に関わる大事のごとく必死だった。

 しばらく叩いていると、タケルが「ぶふっ」とそれらしい動きをして、

「今のそう?」

「そうかな? ……分からん。もっと出せ、タケル」

 どちらからともなくタケルにそう言い、続けて「けふぅ」と再度それらしい息の仕方をして、僕らはやはりどちらからともなく、安堵の息をついた。

 そんな騒動のあとで食事を再開すると、ナポリタンはすでに冷めていた。



 まだぎこちなく、そして誇り高くもあるが、そのうちこれらのことも慣れて、すぐに面倒くさくもなってくるのだろう。すでに大変ではある。

 しかしそう思うと、僕はふと、竹林で先に理解のある彼を見つけたあの女性のことを考えた。

 勝手な想像だけれど、彼女にパートナーがいるようには見えなかった。

 今、一人で、これを? と考えると、その苦労は想像を絶するように思われたのだ。

 僕だって愛する陽菜さんと一緒だからこそ、そんな苦労も誇り高かったり、幸せを感じられたり、楽しめるのに。

 一人は、どこまでいっても、一人だ。

 それはなんて、孤独な作業に変じるのだろうと思う。

 例え成長して理解のある彼になったとして、それで、彼女は突然二人になれるのだろうか、と。

 お風呂は交代で入った。当然タケルを一人にして置けないので、つまらない下ネタが入る余地もなく、気付いたら恋人を通り越したやり取りで、昨日までそうしていたかのような自然さでそうなっていた。とはいえ、そこは僕が先に入ることにした。

 とはいえ、である。

 僕らは不思議なことに、まだ恋人らしいことは一切と言っていいくらいにしていないのだから。彼女の脱いだ下着でさえ目に毒だと思ったのだ。

「ふあータケルー良い匂いー」

 お風呂からあがると、陽菜さんはそうしてタケルの顔に頬擦りしているところだった。赤ちゃん特有の甘い匂いのことを言っているのだろうが、微笑ましくある。

 欲を言えば、僕だってそんなことをしてもらったことがないのに、という感情もあったけれど、なんでだろう。陽菜さんが可愛いからいいか、で済んでしまう。

「あがったよー。陽菜さん、どうぞ」

「陽菜。……うし。ママはお風呂入ってくるぞよ、タケルー。しばしのお別れじゃー」

 陽菜さんはそう言っててきぱきとお風呂場に。

 僕はタケルと二人、リビングに残される。

 しばらくなんとも言えない沈黙が漂った。

(そういえば名前……"タケル"だから、漢字は何がいいか……)

 なんて考えていると、ふと腰のそばで寝転がされた本人と目が合う。

 そのつぶらな瞳は何を考えてのことかまるで計り知れない奥深い煌めきをしながら、じっと僕を見ていて、正直、気圧されそうになった。

 僕は試しに指を出して、その目の動きを追ってみたり、頬をくすぐったりしてみる。もちろん反応がある。目で指を追ったり、追わなかったり、頬のくすぐりに応じてしきりに瞬きしたり。それから、僕の指先二本ほどしかないようなその小さな手に触れた時、ぎゅっと握りしめられて、驚いた。

 力がある。

 当たり前のことなんだけど、タケルにも筋肉が備わっていて、思考があって、幼いながらも懸命に僕の指を握り返してくる。何かを訴えかけてくるように。

 僕は息を漏らしていた。

「すげぇ……」

 僕はしらず震え。しらず呟いていた。

「命ってすげぇ……」

 同時に笑った。楽しくなってきた。

 陽菜さんは去り際自分のことをママと言っていた。

 そんなことを気にするなんて、たぶんもう陽菜さんだって怒りかねないことかもしれないくらい当たり前に、ならば、パパは僕なのだ。

 タケルが最も頼りにしたい人の一人なのだ。

「こっちくる?」

 あくまで対人だと思った。

 それまでの僕はきっとどこか、赤ちゃんというものを自分と同じものとしては見ていなかったように思えた。

 だから、そう尋ねて、タケルの反応を待ってから、

「よし。おいで……おいで、タケル」

 そう言いながら、伝えながら、ソファに座りながらタケルを抱き上げるのだった。

「僕が……僕がパパだよ」



 けれども、そんなタケルでも看過できないことが夜中に突然起きた。

 タケルのぐずり声で目を覚まして目頭をこすっていると、陽菜さんがもぞもぞと上着をめくり出したのだ。

「ちょ——ちょっと待ったー!」

「んぁ……?」

 当の陽菜さんは寝ぼけ眼だったが、僕はもうそれどころではなく、完全に目が冴えている。

「陽菜さん、そ、それはどうかなぁ」

「陽菜だっつーの。……ええー、なんかミルク用意するのめんどくて、もうこれでいっかー。今なら出るよ、出そうな気がするって思ったんだけど……」

「オーケー。分かった。僕がやる。やるから、それは……」

 大人気ないとか狭量だとか束縛だとか思われてもいい。

「それは……ごめん。お願い」

 陽菜さんはまだ眠たそうな目つきを浮かべながらも、

「……うん。じゃあ、あやしてるから」

 僕の熱意が伝わったのか、そう言って上着を戻した。

 僕はすぐさま起き上がり、キッチンへ向かうと足早にミルクを用意した。

 寝室に戻ってタケルにやりながら、

(ああああ……でも、さっきはあんなこと言っといて。でもなーやっぱさ、まだ僕もしたことないのに……それはさすがにきつい……でも、ガキかよ僕は……)

 なんて落ち込みながら、

「すまねぇ、タケル……」

 と呟いていた、

「大河」

 ——ところ、返答が後ろのベッドから返ってきた。

 僕は目が慣れて焦茶色に染まった部屋の中を振り返った。

 めくれた布団の中で、寝ている陽菜さんと目が合う。

「ん? 陽菜さんは休んでて大丈夫だよ。僕もすぐ——」

「——してみる?」

 妙に時間を意識した。

 時計は夜中の二時過ぎを示している。

 人々は寝につき、そしていつもなら僕もiPhoneを弄っているか、あるいはもう寝ようかとか考えているその時間。

 一見同じに見える時間に、僕はまだ陽菜さんといた。

 彼女の部屋。

 彼女のベッドの上。

 一緒の布団の中に。

 今度は陽菜さんのつぶらな瞳が、その焦茶色の景色の中、僕をまっすぐに見ていた。

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