第3話

僕は膝を拭くと改めて陽菜さんの隣に並んで座る。どっちみち僕らのお尻はもう湿気でべちょべちょだった。

 陽菜さんは冷静に話した。けれどさっきみたいな落ち込んでる感じはもうなかった。淡々と分析するように言う。

「……だけどなー、確かにさー、お金とか色々必要は必要でしょ? 後ろ盾があったほうがやりやすいはやりやすい……それは確かにそうなんだ。私も、分かってる」

 陽菜さんはそう言うと、夜空を見上げた。

 一拍おくようにため息をついて、続けた。

「瑛子の言う通りだ。……瑛子見ててさ、思った。私、子供なんだ。感情しかない。コントロールもできない。夢しか見てない。楽しいことしか考えてない。その代わりに足元とか中身とか、空っぽなんだって。だから……うーん、その……大河くんには、いつも振り回しててごめん。それから! いつも、ありがとうね。こんな私に付き合ってくれてさ」

「陽菜さん……」

 僕の耳に衝撃が走る。

 陽菜さんがこちらを向く。

「ん?」

「そういえば初めて僕の名前……ちゃんと言えてる」

 しばらく呆然としたのち、陽菜さんは凄むように言う。

「……なんだと」

「え?」

「そっか。覚えてないのか」

 陽菜さんはすぐに一人、納得するように再び前を向くが、僕としては聞き捨てならない。今度は僕が眉根を潜める番だった。

「——なに? 前にもあったっけ?」

「あった。言った」

「うそ。いつ?」

「まぁ、あの時、タイガーすぐに寝ちゃってたからな」

 僕は記憶を巡らすけれど、陽菜さんの言うことにはどうやら自分では思い出せそうにないようで、何だかこう、非常に惜しい気が膨らんできた。

「あの、もう一回、呼んでもらっても?」

「いいけど……」

 陽菜さんはそう言うと、僕に向き直り、すうっと息を吐いて。

「大河くん」

「もう一回」

「大河……くん」

「もう一回」

「た、たい……」

 しかしすぐに俯いて、あらぬ方を向いてしまう。

「や、やめよう……なんか恥ずかしくなってきた」

「大丈夫。練習練習」

「タイガー、なんかちょっとSっぽい。目がギラついてるよ? 落ち着いて」

「練習しよう」

「……そんなに名前、呼ばれるの嬉しいんかね」

「嬉しい。次は呼び捨てにしてみよう」

 陽菜さんは観念したように一度目を閉じて、深くため息をついた。

「大河」

「もう一回」

「大河……」

「もう一度」

「たい……うあーいつまで続けるのこれ。私ゃもう茹で上がりそうだよ」

「もう一度……」

 それから数分くらい、僕は鼓膜の振動を堪能してからマンションのエントランスまで見送る。

 白く生える棟の反面、夜の帷は深く下りて、雨に湿ったコンクリートの鼻を刺すような生臭い匂いがする。

 その中。

 そこに人影があった。

 僕は驚く。

 その人影はこちらを見つけると間もなく、手を振って——陽菜さんはいつになく明るい声で言った。

「——あ、ねーね!」

「陽菜ー!」

 お姉さんもまた同じトーンで言い、一目散に駆け寄ってくるや、陽菜さんを両腕で強く抱きしめ、さらにその場でジャイアントスイングのごとく回転し始めた。

「ねーね!」

「陽菜!」

「ねーね!」

「陽菜!」

「ねーね!」

「陽菜!」

「ねーね!」

「陽菜!」

「ねーね!」

「陽菜ー!」

「ねーねー!」

 そんなやりとりが数分続いた。


 

 陽菜さんのお姉さん——常世とこよさんは、陽菜さんをベースに全体的にさらにふくよかにしてふんわりさせたような、けれど雰囲気からして包容力の圧がすごい包容力のミルフィーユ構造みたいな、包容力が服着て歩いているかのような四歳上の女性で、この近くで暮らしている。

 そして僕とも面識があった。

「久世くんもお久しぶり」

「はい。ご無沙汰してます」

「二人、いつもこんな遅くまで遊んでるの? 陽菜と仲良くしてくれるのは嬉しいけど、ちょっと感心しないなー」

「今日は……あの、たまたまです」

 僕が気後れしていると、陽菜さんがすかさずフォローするように言った。

「そうそう。ちょっとそこの公園に呼び出されて、しけこんでただけ」

「言い方やめろ!」

「あらあら」

 常世さんは朗らかに相槌しながら、続けて嬉しそうに呟いた。

「本当に打ち解けてるのね……」

「んー……ん?」

 陽菜さんも常世さんの前だといつにも増して甘えているのが分かる。陽菜さんは常世さんの腕にすがるようにして言う。

「ねぇねぇ。今日は? 泊まっていくのだろうか?」

「うん。待ってたらこんな時間になっちゃったし。久しぶりに二人でたくさんお話もしたいしね」

「よし。そろそろ大河も混ぜてやろうか。こちらが花園への招待券です。サインを」

「非常に有難いお誘いだけど、今日はもうお暇するかな。水差しちゃ悪いよ」

 見えない招待状とサインペンを取り出す陽菜さんに、僕が緩く手を振って返していると、常世さんが言った。

「あら、気にしなくていいのに。それとも、私の方が——あ、そうか。三人で——なんて、はしたないわ久世くん」

「ちょっと待て」

 僕は短く突っ込むとともに眉間に皺を寄せて、記憶を探った。

 最近どこかで似たようなフレーズを聞いたような。

 けれど、僕はすぐに例の座敷童子のときのことを思い返して自分をいさめることにして、朗らかに返した。

「もう、常世さんまでつっこませないでください」

「あらあら! つっこむなんて久世くん! やだぁ」

「ねーね。こう見えてタイガーのつっこみ、マジすごいからね。一回だけじゃなくて、連続で何回もテンポよく入れてくるの。正直病みつきになる」

「あらあら」

「いいから頼むから人の話まじめに聞けよ。お前らの耳の奥で何が起きてんだよ。そっちのが"あらあら"だよ」

「まぁ、さっそく?」

「ね? 面白い」

 僕は(なんで僕の周りにはこんな人しかいないんだろう。特に大学に入ってから)と遠い星空を見上げて思い耽るのだった。



 一方で自らの活動をおろそかにしているわけにもいかない。後日、陽菜さんの元には新たなネタが舞い込んできているのだった

 いつもの学内食堂にて。陽菜さんはスパイにネタを売り込む情報屋のようにぽつりと呟いた。

「理解のある彼が生えてくる竹林があるらしい」

 僕も僕でだんだんと慣れつつあって、そんな程度のことではびくともしない精神が身についている。

 僕は朝刊を読みながら娘におはようを言うお父さんのごとく、冷静に返した。

「理解のある彼まではいい。生えてくるとは?」

「町はずれに古い竹林があるの知ってる? 実は街からも見えるやつ」

「あーあれ墓地じゃなかったんだ」

「そうそう。最近ね、雨とか多かったじゃん」

「そういう時期だしね」

「うん。それでその雨の後にね、たまたまその竹林の近くを通りがかった夢女子が……」

「たまたま夢女子がね」

「そう、たまたま夢女子が。なんか気になったらしくて、ちょっと道を外れて入ってみたらしいの。したら、なんと……その竹の足元から、ぽこぽこ生えてくるではありませんか。自分が夢にまで見たような、サッカー大好きな感じのハンサムガイが」

「今サッカーとかやめろ! 君、全方位敵に回そうとしてんの? そして、そんな筍みたいな……ほら、本題が薄くなった!」

「それがもう界隈ではけっこう話題になっててさ、知る人ぞ知るって感じではあるんだけど……しかもその彼、非常に理解があって優しくしてくれるんだって」

 というわけで、僕らはその日のうちに現地に訪れていた。

 が、すでに千客万来。僕らもそうであったようにタクシーで近くの道路まで訪れ、車を降りるやスマホを片手に周囲を確認しながら、次第に小走りになって林に分け行っていく女性たちでひしめいていた。

 見渡す限りの竹の一つ一つに見た目の上ではありとあらゆるタイプの女性が群がっては何か祈りを捧げていて、僕はとたんに裸足で逃げ出したくなる。

 女性と言ってイメージ的には華やかなムードを想像なさる読者の方々もいるかもしれないが、その実その様相は悪魔召喚のそれである。

 祈るというよりは拝むに近く、中には竹に泣いてすがる人もいて、鬱蒼とした竹林内には阿鼻叫喚が絶えず呪詛のように木霊していた。

「あのさ、陽菜さん。来たばかりであれなんだけどさ」

「ん? どうした? 大河特派員。顔色が悪いね」

「うん、僕もう帰りたい」

「なにをおっしゃるうさぎさん。なんか探検してるみたいで楽しいじゃん!」

「陽菜さん。周りをよく見てごらんよ」

 そんな中に僕ら……否、僕。そう、眉目秀麗ではないとしてもうら若き大学生の男が一人、しかも女連れで入ってきたのである。

 通りすがる女性たちの殺意やら何やらのこもった目線は合わせようとも思わないくらい鋭く恐ろしく、四方から突き刺さりっぱなしであった。

「正直これ、命の危険さえ覚えるんだけど……」

「大丈夫大丈夫。私もそうだったから分かるけど、彼女らは根は臆病だから。徒党を組まれるとちょっと怖いけど、一人じゃ基本何にもできやしないよ」

「さっそく煽るなや! しかも徒党を組まれると……って周り、そんな彼女らだらけなんだけど!」

 しかし、一方の陽菜さんは僕の言い分や彼女らの視線なんてものともせず、大手を振りながらずんずん奥へと進んでいく。

「平気平気。大河は心配性だなー——あっ!」

 その矢先、数歩先を進む彼女がふいにその場に屈んだもので、僕は最悪の事態まで想定しながら、とっさに駆け寄った。

「陽菜さん!?」

 彼女は一本の竹の根元を前に膝を折って、そこに生えているものを指していた。

 キノコだ。

 しかも、なんかこう、毒々しい色をしている。

 陽菜さんが歓喜して言った。

「毒キノコやん! これ!」

「え、マジで?」

「マジマジ。図鑑で見たことがある。普通は竹林なんかには生えないよ、こんなの」

「いったいなんでそんなものが……——蔓延してる、ってこと?」

 と僕が言う間にも陽菜さんは隣の竹に一足飛びして、また根元を指差していた。

「大河! 見て見て、ちっちゃなラフレシア!」

「ちっちゃなラフレシアっ?!」

 僕が目ん玉をひん剥いて駆けつけると、やはり竹の根元に陽菜さんの言ったような、小さいながらも、紛れもない、小学生でも知っているあのラフレシアが咲いていた。

 小さくとも、生き物やら乳製品が腐ったような、いわゆるドブの臭いが鋭く鼻をついて、僕はたまらず口元を押さえた。

「これ、もはや国内ですら咲かないレベルのやつじゃん。亜熱帯とかそういう地域のやつでしょ?! なんで?!」

 そうしてよく見てみれば、トリカブトに彼岸花、イヌサフラン、辺りに群生しているのはラフレシアを除いて皆、名だたる有毒の種であった。

「毒キノコに毒の花……いや毒の花弁か? ヤバい、こいつぁ面白くなってきやがった!」

 陽菜さんはそういうや、さらに奥へと向かって駆け出した。

「うおお、ちょ……ちょっと待った陽菜さん。尚更、気をつけないとダメだって——あーもう」

 僕は慌ててその背を追いかけながら、——けれど、心の底からほっとしている自分に気づいた。

 胸の痛みは気づけば痛みから、何か温かく満ちるものになっている。

 愛おしいと思った。

 この時間、空間。そして一緒にいられること。

 その人。

 全部が愛おしいと、そう思った。

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