第2話

「目も耳も聞こえない相手に、どうしたら私の美貌と歌声が伝わるの?」

 ハルピュイアの娘はこんな風に考え、途方に暮れて、巣に戻るとさっそく長老に尋ねてみた。

「私には何も分かりませんの。もう、いったい、どうしたら……」

「おほほほ、珍しいこともあるもんだね。娘よ。なぜかね?」

「なぜ、とは?」

「どうしてそこまで気に病むことがある。人間は星の数ほどいれば、中にはたまにはそんなのもいる。それだけのことではないかしら?」

「そうよ。そうだわ……なのに、なんで私は……」

「それを悔しいというのだ。娘、お前は敗北したのだよ。その少年の実在に頼らぬ真心を前になす術がない。弱く、打ちのめされている」

「敗北……真心……お婆さま。ねぇ、わたくし、どうすればいいの?」

「簡単なことじゃろう。お前も真心でもう一度向かってみてごらん。少年と再戦の機会を設けて」

「お婆さま、これは戦いではありませんわ。私、用心棒はほふりましたけれども、あの子とは戦ってなどおりませんもの」

「いいや、紛れもない、乙女の戦いじゃよ」

「また難しいことを……どうしてお年を召した方は皆、そうなのかしら」

「よいか。娘よ。真心じゃ。どうして迷うのか、悩むのか、己が想い、その示すがままに歌ってみよ。素直にの」

「私の……想い……」

すればその盲ろうの人の子の心にも届くじゃろうて」

 娘は洞穴にこもると、藁を抱き寄せるように寝床に転がり込んで悶えた。

「と、仰られましても……私、分からないからお尋ね申し上げましたのに! お婆さまもあの老竜も、思わせぶりなことしか仰らないで、なんて人が悪いの!」

「あら、お姉様、お疲れ?」

 妹分のハルピュイアも娘の様子を慮って声をかけてきたのだが、そのすえた匂いに娘は顔をしかめた。

「……ひどい。呑みすぎではなくて?」

「何を仰るの、お姉様。若い男と酒がたんまり手に入って、こんな時に呑まないなんて……」

 妹分のハルピュイアはそこで一度区切ると、なにか気づいたように続けた。

「あぁ、お姉様の調子が悪いのもそういうことよ……夜通し遊べばいつものお姉様に戻れますわ」

「お黙りなさい。なんて不快なの」

「なによ……変なお姉様」

 しかし、妹分の言うことは確かだ。

 自分の方が変わってしまったのだ。

 全てはあの少年と出会ったがために。

 娘は寝返りを打って壁を見つめながら、

(なぜこんなにもやもやするの! なぜこんなにイライラするの! あの子のことを考えると……)

 感じたことのない胸の苦しみにため息をもらした。

(なぜ……?)

 それから数日と経たないうちに事態は予期せぬ展開を見せた。

 ハルピュイアの群れが襲撃したことで、山中の村に若い男手の守りがいなくなったことが外部に漏れ、そこを近所の盗賊団に狙われたのである。

 荒くれ者たちは、またとないこの機会に悪逆の限りを尽くそうともくろみ、各々得物を手に、こぞって村に押し寄せていた。

 村の様子が気に掛かり、いつものように上空を見回っていたハルピュイアの娘はいち早くその気配に気づくと、咄嗟に駆けつけ、村人たちの助太刀に入っていた。

 ハルピュイアの目にしか映らずとも、そこには老竜もいる。老竜は広場の上空に巨大な翼を広げ、突風を巻き起こしながら、鋭い牙で荒くれ者どもを引き裂き、村を守護しているが、如何せん体躯の違いから、素早く足元を潜り抜ける者もいる。

 村の盛りを過ぎた男たちに助力して、逃げ惑う女たちを庇い、野盗を自慢の爪で成敗しながら、ハルピュイアは老竜に尋ねた。

「老竜よ。あなた様ともあろうものが、抜かりましたわね。いったい、あの子は無事なのでしょうね?」

「我が盟約はこの地の永劫の守護たるがゆえ。ともすればこそ、人の少年はその一単位に過ぎぬ」

「なんて薄情な……あの子は目も耳も聞こえないのよ! 逃げ惑うことすらままならない身だというのに……見損ないましたわ!」

 ハルピュイアはこう老竜に食ってかかるや、村の裏手に回った。

 飛び立つその背に老竜はこう、声をかけた。

「なればこそ、其方が駆けつけるのではないか」

 少年はすぐに見つかった。丘と屋敷の間の道に女中と一緒にいる。しかし、同時に荒くれ者の姿も見えた。少年はか弱き女中共々、地に這いつくばり、刃渡りの長い得物を突きつけられていた。

 ハルピュイアは両翼を大きく煽いで暴風を巻き起こし、荒くれ者どもを怯ませると、その隙に頭上から急降下して、瞬く間に撃退した。

 少年の感覚は娘の匂いを敏感に捉えていた。ハルピュイアの娘が空から舞い降りると、盲ろうの少年は足元を躓かせながらもとたんに走り寄るのだった。

「無事で良かった……どこも、怪我はありませんのね」

 少年は言葉の代わりに娘の両手を取り、慈しむように握りしめたり、身体全体で喜びを表現して、再び笑いかける。

 その無邪気さに娘は心を打たれる想いがした。

「わたくし、あなたに教えていただきたいの。目も見えず、耳も聞けずして、それならあなたは、笑うということをどのようにして覚えたと仰るの?」

 そんなハルピュイアの様子を見て警戒を解いた女中は、代弁するように語った。

「男爵様が遠い異国の地で名誉の戦死を遂げられ、奥方様はお一人でこの子を出産なさいました。けれども、奥方様もまた流行り病で床に伏され、間もなく……残された若様は、あろうことか目も耳も聞こえず、天涯孤独のお寂しい身のうえ。産まれてこの方、光を見たことがございません。代わりに鼻でかぎ取り、手で触れることで世界を具に感じ取ってこられたのです。だからこそ、もしかしたら、あなたのことを天使か何かのように思っておられるのかもしれません」

「わたくしが天使……? 天使だなんておそれ多い。私は、ただの鳥人ですわ……」

 改めて思うに、そのようだ。天使だなどと言われて恥ずかしく思う尊大な自分に気付いて、しかし、ハルピュイアの娘は、その女中と盲ろうの少年のこれまでをおもんぱかって、ただ労わりたく思うのだった。

「光を見たことがないだなんて……何を仰っていますの。この子がそんなことを考えているように見えて? この丘はこんなにも、温かな光で満ちているじゃありませんか」

 ハルピュイアの娘は、我が子を抱きしめる母のように地に膝をつき、少年を抱きとめながら、輝く陽光を一身に受ける女中、その女性を臨んだ。

「あなたという光で——だから、この子はこんなにも安心して笑っていられるのでしょ?」

 女中は声もなくその場に跪くと、静かに涙をこぼした。

 老竜の働きもあって、野盗を撃退することに成功すると、ハルピュイアの娘はすぐに渓谷の巣に戻り、同胞を説き伏せ、連れ去った村の若き男たちを解放した。

 そのため村の夜は盛大な宴となった。老竜は再び丘の石碑の元に戻ったが、広場では村人たちにハルピュイアの血族が混ざって大きな宴会を繰り広げていた。

 ハルピュイアの娘が代表して言った。

「わたくし、此度の件で大いに反省致しましたわ。また蛮族に襲われても面倒ですし、今後、この地の子らを力づくで攫うことは決して致しません。その代わりに歌い手を用意なさい。我々と歌うのです。そして勝ったものの里に嫁げば良いのです。それならあなた方、人間にも公平でしょう? 私たちも退屈しませんわ。競い合うのです、私たちとあなた方とで、歌の美しさを」

 宴の盛り上がりと酔いも手伝ってか、若いハルピュイアの申し出にそれならと立ち上がり、我も我もと歌い出す村人たち。ハルピュイアの群れも応えて、夜通し、楽しげな歌声が響いた。

 娘は少年の傍に腰を下ろすと、自慢の喉を一声奏でてみせて、それから幼いその手をとり、自分の喉元に触れさせ、また夜空に向かい、美声を響かせる。

 少年は薄く、瞼を開くと、驚いた顔で娘を見つめ返した。娘は喜んでその声を受け取ると、もう片方の少年の手を取り、今度は少年自身の喉に当てさせ、誘うように再三、歌い、

 やがて、少年の喉も、共に震えた。

「————」

 声にならない少年の歌声は、されど妖精の鳴らす笛の音色のように美しく、またハルピュイアの声色がそれに合わせてハーモニーを奏でると一層、魅力に満ち、宴もたけなわの夜を明るく焔のように照らすのだった。

「あなた様には是非、このわたくし自らが直々にコーチに参ります。代わりにあなたは私に、あなたの言葉を教えなさい。これから、何度でも、会いに来ますわ——か弱く、愛しい人間のお友達」

 美声に留まらず、時にピアノにフルートに、盲ろうの少年は音楽に打ち込み、ハルピュイアの娘と共に数々の名曲を世に紡ぎ出し、山中の寂れた村を歌と踊りと曲で賑わせるのだった。



 酒場の親父の話はここまでで一区切りついた。

 話の間中、屋内でも屋外でもひっきりなしに村民の歌声が邪魔してきているが、とにかく楽しげな雰囲気が止む様子はなかった。

「……それ以来、この村ではな。何はなくとも歌うことにしているのさ。いつでもどこでも、何があっても、歌えば自然と誰でも友達になれちまう」

「へぇ、魔族と人が友達だなんて珍しいこともあるもんだと思ったら、そんなことがねぇ」

 腰に仰々しい直剣をぶら下げている以外は極めて平凡な見た目の女剣士の一方、小さなフードがギクリと肩をこわばらせた。

「で、そのハルピュイアたちは今も渓谷に?」

「実は何人かはその後に海に渡って、羽根を尾ヒレに変え、今度は海の男たちを悩ませるセイレーンと呼ばれるようになった。だが残ってるのもいるよ。人間と気が合って、村にそんまま住んじまってるのもいる。かのハルピュイアの娘と同じようにな。ほら、耳をすませば今も聞こえるだろ、渓谷の向こうからも、美しいハルピュイアの歌声が」

 今、その屋敷は村を代表する宿になり、老竜のいた丘には新たな石碑が建てられていて、今日も、鳥人と村人のハーモニーが、青い空に響きつづけている。

 盲ろうの名領主とハルピュイアの娘の恋物語と共に、聖地として崇められている。

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歌う丘(改訂版) 白河雛千代 @Shirohinagic

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