歌う丘(改訂版)
白河雛千代
第1話
音のない、静かな朝だった。
切り立った崖の前のこんもりと緑が萌ゆる丘の上には小さな石碑があり、周りは木々に囲まれている。その円の隙間から坂を下っていくと、大きな屋敷が見えた。
そこから一人の少年がやってくる。
朝の木漏れ日の下を、葉の影の下を潜り抜けるようにして、一歩、一歩と坂を登り、石碑を中心とする広場まで来たとき、少年は一度、空を……まさしく宙空を見据えるように……目を閉じたまま、香りや湿度を感じ分け、手繰るように、確かにじっと捉えた。
視えているのだ。少年には。
この世の全てが見えない代わりに。
そして迷うことなく、その足や爪を、硬い鱗で覆われた背や尻尾を巧みによけて、広場の中央、石碑の前に腰を下ろした。
寄りかかった。
何もないはずの空間に対し、けれど少年は、いたって安らかなる顔で語りかけるように、口を開いた。
言葉もなく。
昼過ぎになると、少年の屋敷から更に坂を下っていった麓の集落で、恐ろしい事態が起きた。
その村は緑豊かな山の中腹に位置しているのだが、最近山頂方面の渓谷に住み着いた鳥の化け物、半身を鳥類、半身を人間という、ハルピュイアの襲撃を受けたのである。
一団の目的は若き男たちであった。彼女らはそうして人間の集落を襲い、男を攫っては巣につれ帰り、交配を繰り返してきたのである。
彼女らは腕の大きな両翼を広げて村人たちの頭上を羽ばたき、鷹のような鋭い足の爪や羽根で巻き起こした暴風を武器にして村の用心棒を容易く退けると、今度はその爪で若き男たちを掴んで連れ去っていく。
訳もわからず掴まれた子供は泣き叫び、足元の母は空に両手を掲げて降りかかった不幸を嘆いた。
「ああ! どうか、どうか許してくださいまし! 私の子だけは! 連れて行かないで! どうか!」
ハルピュイアの一団の、若きリーダー格が、声だけは世界的オペラ歌手にも負けない美しい響きで言った。
「おほほほほ、どうかどうか。それはこちらのセリフですことよ、人間のお母様。どうか、ご安心なさってくださいまし。
「そんなことを言って、いつになるか分からないのでしょう? 風の噂によれば、そうして子供の頃に
「そうですわね。私ども、魔族の寿命はあなた方とは大分違うみたいですわ。でもご心配なさらないで。たった数十年のこと。歌でも歌って、お酒でも飲んでいれば、あっという間じゃないかしら? あなたも歌いなさいよ。全ては夢幻の如くなり、ですわよ」
そう言うとリーダー格の娘は仲間たちに合図して歌い出した。
それはまさしく天使の歌声。耳をくすぐるような爽やかさでありながら、時に甘く、うっとりとさせてしまう美麗な声色だった。
ハルピュイアの歌声には、そうして人間を脱力させてしまう魔力があるのだ。
子供の母親もその歌を聞くだに忽ち全身の力が抜け、眠りを誘われ、広場の真ん中で足元から崩れ落ちてしまう。その寝しなにも、嘆き、涙を流しながら。
「ああ、力無き母を許して……どうか我が息子よ」
「おほほほ、私たちの歌に酔いしれなさい。その方が楽になれるわ、お母様」
その時、ふいに丘の上から少年が降りてきた。
あまりにも静かな振る舞いだったから、ハルピュイアの娘もすぐ傍に来るまで存在に気づかなかった。
目を閉じた少年は村の中央広場まで来ると、また鼻をすんすんと鳴らして異様な事態を悟ったように見えたが、尚鳥人の娘らを恐れることなく近づいた。
リーダーの娘が地べたまで舞い降りて、少年を見下ろすと、その脇で先ほどの母親が呻いた。
「待って……その子はいけません。その子は男爵様の忘れ形見。どうか……」
「どうしたことかしら。この子、私たちの歌が効かないとでもいうの?」
少年は周囲の物体を確かめるように腕をあげ、指先で辺りを探った。丘の上からメイドがあわてて駆けつけるも、遅かった。娘の、翼の先の手がそれを捕まえると、少年はわざとらしいまでににっこりと破顔して、娘の顔があるだろう方向に笑いかけた。
そして、掴まれていない方の手を、まるでアンテナのようにしてハルピュイアの娘の顔に触れたのだった。
「無礼者! いったい、いきなり何を……」
娘は間もなくその手を払い除けたものだったが、これまたすぐに勘づいて、曰くありげに目を細めた。
「あぁ……そういうこと。なるほど。この子……目が。そして耳も聞こえないのね。どれ、少し試してやるわ」
娘はこう言うと、さっきまでとは更に比べ物にならないほどの、もはやこの世のものとは思えない歌声で広場を響かせた。
ハルピュイアの魔力を全開にして発声に込めれば、そうして人間の魂だって吸い出してしまうことができる。だからいつもは加減して歌っているのだが、この時はそのくらいに本気だった。
しかし少年は何にも気づかない。
目の前でどれだけの美しい光景が広がっていようと、美しい響きが大気に波紋を広げていようと、柳に風、
歌唱が終わると、ハルピュイアの娘の麗しい両の目が、この村に現れてから初めて興味深げに物を見た。
「なんて憎たらしい。そして哀れなの。私たちのこの美貌も美声も聞けないなんて。お前みたいなのは、いらないわ。子孫に傷をつけるわけにもいかないもの」
娘は表情を醜く歪ませて
「人間のお母様たち。あなた方の可愛い息子たちは私たちが責任を持って大切にお預かりいたしますわ、それではごきげんよう。おほほほほ」
そうして草原の青い空を渡り、子らを連れ、渓谷の奥地へと飛び去っていくのだった。
その晩、村人たちは嘆きの杯を掲げて、涙に酔いしれた。
男たちが総出で渓谷に子供たちを取り返しに行くことも考えたが、魔性の歌声の前ではどれだけ屈強でもどうしようもない。考えれば考えるほど諦めざるを得ないのである。
一方で渓谷のハルピュイアの巣では連れ帰ったばかりの人間の若き男たちを中心にして宴が催されていた。しかし、リーダーの娘は乗り切れなかった。
「いつもならお酒を飲んで歌って酔いしれる楽しみを味わえるのに、今はまったくそんな気にならない。あの小僧のために……まさか、私の歌声を無視するなんて、そんなこと許されていいはずがないのに」
そうして数日が過ぎ、麓の村人たちが子らの失われた傷は癒せずとも、表面上は生きるための日々の作業に再び従事できるようになってきた頃、少年はいつものように丘の上で宙空に向かい、語らっていた。
メイドたちは心配しているものの、いつしか少年のこの不思議な日課に口を出すものはいなくなっていた。
静かな昼下がり。森林にこっそりと舞い降りたリーダーのハルピュイアは、間もなく仰天して警戒を強めた。
人間の目にはその者の魔力によって何も見えていないのだが、魔族である娘の目にははっきりと見えている。それはハルピュイアなど及びもつかないほどの恐ろしい怪物。
ドラゴンだ。
それが丘の周囲の木々に沿って、中央の石碑をぐるりと取り囲むように羽根をやすめて横たわっているではないか。
かなりの老竜だ。さぞかし名のある者だろうと、ハルピュイアの娘は息を潜めた。
少年にも見えているのだ。この世の他の一切が見れない代わりに、ドラゴンの姿や息吹をはっきりと感じ取って、語らっている。
けれどもその声自体は、娘の魔力を持ってしても何ら耳に入ってくるものではないのだった。
夕暮れが過ぎて、迎えにあがったメイドに連れられ、少年が屋敷に帰っていくのを見送ると、ハルピュイアは警戒しながら広場に出てきて、老竜と相対した。
その巨大な体躯からすると、人間大のハルピュイアなど小動物に等しく、自身の身の丈ほどもある大きな爬虫類の眼が、娘をしかと捉えている。しかし、強者の必然か、威圧感や恐怖などは微塵もなかった。
穏やかな老竜はずっとその存在にも気付いていて、ハルピュイアの娘が出てくるや、待ちかねたように先に言った。
「人間の子供に、そこまで興味があるのかね。歌と享楽だけが生きがいの鳥人の娘が、珍しいこともあるものだ」
「珍しいとは、あの子とあなた様の方ですわよ。いったいどんな魔法をお使いになっていますの。先ほどのやりとりはいったい……私には何も聞こえなかった」
「それはそうだろう。なにせあれは魔法でも何でもない。あの子が自然とやっていることなのだから」
「魔法ではない?」
「左様。鳥人の娘よ、
「どういうことかしら。私は見えているわ。聞けてもいる。それが出来ていないのはあの子の方じゃなくて?」
「彼はいつもここに来ては歌っておるよ。話してもおる。見てもいる。私はそれを具に聞いている。其方にはまだ聞けておらんのだろうがね」
「難しいことを仰らないで。けれど……そう、確かに。私にはあの子の声は聞こえない。あの時、あの子は、私に何かを言っていたの? だとしたら、なんて……?」
「巣にお戻り。鳥人の娘よ。そして自らの未熟さを思い知るがいい」
「老竜よ。なら、あなた様はなぜここにおりますの? なぜあの子に構ってらっしゃるの?」
「古き盟約がゆえに」
老竜はそれだけ言うと、もう話を止め、硬く瞳を閉ざした。ハルピュイアの娘は、脳裏に、胸に芽生えた想いを抱えながら、渓谷の巣に飛び立っていった。
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