流星

井底之吾

 

 死とは、何だろうか。


 神が死滅して数か月、世界は緩やかに終焉へと向かっていた。脆く、か弱き生命いのちから順にその灯火を失っていき、世界中の生命は既に、終焉以前の一割にも満たなくなっていた。世界の端から崩壊が始まっている。既に半分が崩落していた。


 自然環境も変容を見せ、海は干上がり、大地も枯れた。荒涼としてひび割れた平地。漠然とくすんで死した、灰の地平線がただ広がっているばかりであった。

 神はどうして死んだのか、それはこの話において重要なものではない。今、世界は終わりを迎えている。この純然たる事実こそが全てであった。


 生存競争にち、今でもその灯を繋いでいる生命は、人間を除き不死性を持っていた。其れらは死ぬことが無いからこそ、無駄な殺生に参加することは無かった。


 人間は同種を蹴落として命を繋いでいた。生命が殆ど消えた地で、最も争いの火種となるのは食糧のようだ。不死であれば食わずとも生きていられる。人間は不死ではない。それが答えである。奪い合いだ。殺し合いだ。

 しかしそれでも、数には限りがある。奪ったところでいつかは死ぬ。生命を諦めた者は先に天へと旅立つこともあった。最後まで意地汚く生き抜こうとした者も居た。不死性を持たぬ人間らは、各々を自己愛で満たそうとしていた。


 そのような混沌の中で、不死性を持つ者たちは、終焉にあたって思いのままに生きていた。空を駆ける者やただ眠る者、人を嗤う者など様々であった。そうしてまた一人、その生の中で気ままに過ごしている者があった。


 自然環境がたとえ過酷であろうとも、人の寄る処と比べれば、楽園と思えるほどに快適なものだ。人が居ると、どうにも喧しくて疎ましい。喧騒から離れ、この静かな山の中に身を寄せることこそ、至上の歓びである。この竜は、そんなことを考えている。


 山は、崩壊している側と逆の、世界の端に在った。黒く焼け焦げた肌から、赤く光った筋が見え隠れするような山であった。空はくすむが、夜には晴れ渡り、真黒まくろの天井が顔を覗かせていた。時折、噴火をしてはなぞるように滑り落ちていく溶岩を見ることが出来る。肌を鮮やかな赤色で化粧していく。それはまるで、着飾ることを覚え始めた純粋な一人の、うら若き少女のようであった。


 竜は一人であった。現状、他の生命がこの山で生きることは無い。居住環境への不満から住むことを拒むか、入山した時点で溶けるかの二つだからだ。ただ山底やまそこから溢れ出す溶岩と、熱を孕んだ風だけが彼の周りを満たしていた。彼はそれで満足だった。


 山の標高は高く、山頂から円筒状に空洞が広がる、模範的な活火山で、その空洞の底にぐつぐつと煮え滾るマグマがあった。竜はそこで、時が過ぎるのを日々感じている。外に出ることはあまりない。腹は溶岩を喰らえば満たすことが出来る。そうでなくとも、不死の彼には殆ど関係のないものだった。

 偶に星が見たくなり、そんな時は決まって外に行くけれど、それでも山頂に顔を出すくらいのもので、出るというほど大層なものではなかった。


 そうしてこの夜にも、彼は星を見たくなった。空洞から空は見えているが、やはり星は近づけば近づくほどやさしく、ただ癒しとなる。そう思って、彼は外に出るためにその輝かしい銀翼を、羽搏はばたかせようと大きく広げる。勢いよくひらつかせると、熱風が地を撫でるように吹き抜けた。そうして、太ましくも鮮やかな体躯をうねらせ、空を見上げて飛び立った。

 昇っていく。優雅に、それでいて大胆に飛んでいく。瞬間、彼は不思議なものを見た。きらりと、小さくきれいな光が、山頂の穴の上を過ぎ去っていったのだ。

 流れ星、ほうき星だ。幾つもの星が次々に流れていく。ああ、その生命を全うし、只管に黒き空を滑り落ちていく。美しきかな。そう、竜は思いを馳せていた。



 その中に一つ、小さな人陰が見えた。



 竜の目は確かに其れを捉えていた。本来、人は飛ぶことは無い。空は人の入り込める領域ではない。そうであるというのに、其れは星と共に飛んでいた。

 竜は其れを見つめていた。心に安寧をもたらしてくれる星々の中に、ただ一つ煩わしい尾を引く人陰に、彼は複雑な面持ちであった。人で無ければいというわけではない。静謐を保つ空間に波紋を呼ぶのであれば、邪魔以外の何物でもない。そんな思考に、見せつけるかのように其れはありありと陰を示す。


 星々は勢いを増す。人の陰を持つものは、逸れるように弾け下へと落ちていく。そうして、星の群れを一人離れ、その人陰は真っ直ぐと山に入った。

 鮮やかな、それでいて煌々と淡い光を放ち、暴れ狂う大蛇の如く、激しいうねりをもって竜の巣となる岩場へと落ちてくる。竜は、其れを静かに見送る。ズシン、という轟音と大きな土煙を上げて、其れは山を揺るがした。

 中間ほどの高さまで昇っていた竜は面倒そうに下へと戻ると、翼で土煙を払う。落ちてきたモノがそこに打ちつけられていた。其れは確かに、人の形をしていた。


 竜は煩わしく思う。人とは醜悪なものである、これは不死の共通認識だ。他者を顧みず、おもんぱかることもなく、ただ利用し使い潰すことだけを考える、そんな醜い生き物であった。事実、この終焉での人の行動はそれが表れている。彼は人を諦めていた。

 その「人」が眼前に転がっている。身体はぼろきれのように傷だらけで、雨の日の野良犬のように薄汚れて、しおれた花のように疲れ切っていた。しかし、そうであってもまだ、小さく洩れる息が聞こえてくる。人であれば死んでいる。ともすれば、其れは人ではない。



 殺そうか



 冷ややかな目で其れを見る竜は、そう考えていた。人であるなしに関わらず、其れが人の形をして安寧の地を騒がせていること自体が、竜にとっては業腹ごうはらであった。殺すという選択肢が当然。そう考えている。そうしているうちに、倒れ伏した者がピクリ、と指を動かした。そうかと思えばガバ、と起き上がり端麗な顔を覗かせる。しかし直ぐまた倒れてしまった。


「ああ、中々。効くものだなあ」

 ふと、口を開いた。

 熱された岩場の上で、血でくすみながらも美しい銀髪がふわりと光っている。

彼奴等きゃつら、死んで尚、腹を立たせるのが上手いものよ」

 笑っていた。顔は髪で隠れていたが、口元と弾む声がそう感じさせる。

 笑ったかと思うと喀血かっけつする、喀血したかと思うとまた笑う。まるで壊れた玩具おもちゃかのようであった。少しばかり月が傾いただろうか、倒れ伏したままケタケタと笑う其れは、やっとその目を竜へと向けた。


「なんだ、おまえ」

 そう一つ疑問をついたところで、気づいたかのような顔を見せて言葉を繋げる。

「ああ、すまん。先客がいたのか」

 起き上がる様子を見せたが、早々にやめ寝転がったままの姿勢で言葉を続ける。

「おまえ、ここのぬしか。見たところ竜だろうが」

 竜は肯定も否定もせず、ただその者を見据えていた。

「喋れぬわけじゃなかろう、竜の知性は知っている」

 落ちてきた者は手をひらつかせ、口を開くように促す。竜が口を開くことは無い。


「それでも口を利かんということは、わしをなめておる」

 その者は面白くない、と言わんばかりの顔をする。

「高尚な竜は、礼節を欠いても良いということか」

「それは少し違うな」

 ようやく、重厚そうな声を対象へと向けた。その音が耳に入るや否や、その者はにやりと笑った。

「なんだ、利けるではないか」


「もとより。そも、お前を見定めていた」

 面倒そうな目でその者を睨む。一瞥いちべつで他者を殺すことが出来そうなほどに、鋭く光った眼をじっと相手に向けている。

 その者は態度を変えず、「そうか」と一言だけを落とす。他に何かを言うことは無く、ただ竜の言葉を待っているようだった。

「少なくとも、知性はあるようだな」

「腹の立つもの言いよ。だがそれも好し、問いに答えい」

 急かす。竜は少し時間を置いて答える。

「主、ではない。此処には私のみが在る」

 相槌で流す。竜は続ける。


「そんなことはどうでもよい。お前は何故、私の星見を妨げたのだ」

「星見だと?此処は星が見えるのか」

 そう言って髪をけ、そらを確認する。煌々と小さく幾つもの光があった。

「ああ、此処からじゃあまり見えんぞ。おまえは随分目が良いらしいな」

 確認が済んだのか、目を竜の方へ向ける。そうして、冷たい態度の竜に臆することなく、へらへらと笑いながら答えを発した。


「何故もなかろう、ただ星と流れておった。それだけの話よ」

「それだけではない、だろう。阿呆には見えるが、酔狂なたわけとも思えん。何をしていたのかを問うているのだ」

 欲しい答えではない、と強く相手を睨んでいる。その目に気づいたのか、その者も心底面倒そうにしながら口を開く。

「星見を邪魔したことなら謝るとも。まったく、頑固な奴よ」

 それでもない、と発すると、女はため息をついた。


「わしは魔女だ。魔女は飛ぶものだろう、外に出ることのない奴には分からんか」

 言葉に少し強さが有る。其れを聞くと、竜は目を和らげて、そこから深く詮索することはなかった。ただその眼前に居る人の形を保つ者が「人」ではないと知り、小さく安堵した。

「お前は魔女なのだな」

「そう言っておる」

 であれば、と声を出す。

「人ではないのなら良い。く失せよ」

 人でなくとも煩わしいものはそうだ。特に、この魔女を自称している女は、竜の平穏に一滴の雫を落とした者だ。それだけで、竜にとっては邪魔であった。


「そう邪険にするな、わしも斯様かような暑苦しい場はいっとう嫌いだ。おまえも馬鹿じゃなかろうに、見て分かるだろう。動けんのだ」

 そのボロ布のような身体を寝そべったままにひけらかす。視認できる程大きく生々しい傷跡が、幾つか服の隙間から見えた。其れを見て竜は大きくため息をついて、厄介であると隠すことなく態度に示す。

「そんなに面倒か?態度があからさますぎるな」

 少し苛立ったように魔女は言う。

「そうだな、私の平穏を侵しているのだ。当然の感情を向けている」

「はあ、おまえ、相当ナンギな性格をしているな」

 ため息と悪態を竜へとついて続ける。


「どうせ死なないだろうに、そう平穏を求めてどうする」

「死なないからこそ、平穏であることが最上だろう」

「分かり合えぬものだな」

「先刻、顔を合わせたばかりだ。そう易々と合ってたまるものか」

 そういうものか、と無理に身体を起こして天を見つめた。


「この世界は終わりを迎えるというのに」

 竜が、口を開くことはない。

「気づいておるだろう。世間に疎くとも、空の崩壊は此処からでも見える。神が死んでもうかなり経っておる。次に死滅するのは、人だろうな。いや、もう消えたか」

 カッカッカ、と嘲るように笑う。


「おまえ、人をどう思う」

 突然、竜に問いかける。

「どう、とは」

「そのままの意味だ。人というものを、どう見ている」

 竜は小さく息をつき、応える。

「人は、救えぬものだ」


「そうか、おまえ、やさしいのだな」

 その瞳には憂いがあった。竜は其れをどう思ったのか、言葉を続けた。

「優しさとは、少し違う。救えぬというのは哀れみだ。私からすれば、斯様な醜悪なる者どもなど、救いようがないとしか思えぬ」

「それをやさしさというのだ。分からぬなら良い。わしは、人が嫌いだからな。おまえとはまた違った思いを抱いていた」

 ほう、と息を洩らす。

「それが何か、私が聞けばいいのか?」

「誰も聞いてほしいなど言うておらん。まあ、聞きたいのであれば話すか」

「喋らんでよい。どうせ気にもならん」

 ハハッ、と一つ笑って続ける。


「何をしていたか、と聞いたな」

 竜は返事をしない。

「おい、聞いただろう」

「そうだな、五月蠅い奴だ」

「ったく、まあ良い。老いぼれの話に付き合うがいい」

「老いぼれとは、老いを知る者にのみ赦される言葉だろうよ。お前も私も、人の尺度では生きていない。老いなど実感もないだろう」

 そうだな、と零す。


「しかし、わしもおまえもふるき時代を知る者よ。もう長いこと生きた。知らないことは未だに多いものの、知っていることもまた多い。精神的には老いぼれだろうよ」

「あくまで、人の尺度で喋るか」

 竜の言葉に魔女はプッと吹き出した。

「人の尺度、か。どちらかと言えば、我々の尺度でもあろうよ」

「それは、お前個人の感想だろう」

「ではおまえは違う、と?」

 竜は、閉口した。

「ほれ見ろ。そうではないか」

「わかった、それでよい。話したいのであれば勝手に話せ」

「ああ、その方が良いだろう。無駄話など、聞き流してもらうくらいが丁度よい。どうせ世界は終わる、最期くらい好き勝手話してみようじゃあないか」

 そう言葉をついて、続けざまに繋げていく。



「わしは、人間を殺してきた」



 そうか、と竜は一つ落とす。

「幾人もの人間を殺してきた。つい、先刻だ。数えてやろうと思ったが、千を超えた辺りで面倒になってなあ、結局何人殺したのやら、分かりはしない」

 竜にとっては理解する必要のない言葉だった。

「殺すつもりはなかった、とは言わんとも。向こうから仕掛けてきたのだ。まっとうな処置だろうよ。わしは死なんが、人間に殺せると思われたのが癪であった。何より、彼奴等は恩を仇で返した」

 少しの怒り。飄々とした態度を一貫していた魔女はその瞬間だけ笑みを忘れた。


「魔女を憎んでいる、と言うておった。どうにも理解し難いが、伝聞とは恐ろしいもの。無能の種は依然として無能であるものだな。わしは彼奴等が縋ったのを、憐れんで手を貸した。もう何百年も前の話、知る者なぞ、とうに生きてはおらんだろう。おまえの様に不死であれば別だが、あの場にはその気の者はいなかったからなあ」

 思いに耽る顔を、天へと覗かせている。

「思えば、醜く矮小な縋り。些末な争いであったが、人間はそうしないと生きていけないものだと、わしはそこで悟っていた」

 竜は小さく首肯する。人間は哀れな存在である。


「そうして代を重ねるごとに人間の中で希薄になったわしへの畏敬が、いつの間にか憎悪へと変わっていった。魔女を憎むようになったのは、最近のことだ。心当たりは一つだけ在る。もうみな殺してしまったが、其れだろうよ」

 疲れてきたのか首を下ろし、また竜の方を見た。


「此度、神が死んで、人は醜く争っていたようでな。その中で責任転嫁をわしにするようになったのだ。腹を抱えて笑った。三大国だか何だか知らんが、数を揃えれば勝てると思うなどとは、烏滸がましいにも程がある」

 哀れみを含んだ、乾いた笑いを一つ投げる。


「返り討ちにしてやったわ。一人も残さず、肉の一片すら灰にした。人間を焼くのは久方ぶりだったが、面白い声で鳴くのを忘れておったよ、滑稽であった」

「では、人は消えたか」

 竜は気がかりであった事を問うた。

「ああ、すべてな」

 そうか、と零す。竜の、一抹の懸念は消えた。終焉までの間を、悠々と過ごすことが出来るのに安堵の顔を覗かせた。


「だがなあ」と、魔女が言葉を継ぐ。

「その中に、厄介が居った。あの下らん搾り滓が……」

「……泥か」

 そう、と置いて続ける。

「泥、神の泥よ。忌々しい……あれは生命の否定、負の遺産そのものだ」


 神の泥。それは神が死滅した際に、空から世界へと流れ落ちたよどみ。多くの生命がこの澱みによって命を落とした、死の概念そのものである。其れは黒く全てを染め上げ、世界を食らいながら成長し続ける。世界の終焉は、神の死による楔の崩壊と、この泥の浸食によって進んでいるのだ。そして、この厄介とは、神の泥を意図的に受け、死ぬまでの僅かな時間で魔女に一矢報いた人間を指している。惨めったらしい人間に相応しい最期であるが、魔女はそれにより今、苦痛を得ている。


「慢心、と言えばそうだろうよ。わしは大いに油断しておった。死に際の鼠が最も意地汚く命を繋ぐということを、失念しておった」

「無様なものだな。それでは、死ぬのか」

「ああ、死ぬとも」

「そうか」

 それだけだった。竜にとってはどうでもよかった。


「おまえ、死とは何だと思う」

 会話が途切れ、また月が少し傾いた頃に、魔女は竜へと問いかけた。

「わしは今、死の淵を彷徨っておる。元より不死のわしは、これを機に死について考えてみたのだ。神も死んだ、おまえも思うところはあるだろうよ」


 竜は、思案する。

 竜にも、それは理解できないものだった。理解する必要が無かった。今更、考えたところで意味はないだろう。しかし、眼前に死にゆく者がいる。酔狂に付き合ってやるのもいいだろうなどと、竜は考えてみた。答えは、一つだった。


「無への帰結、だな」

「ほう、それはどういったものだ」

「死の先には何もない。すべてが無くなるのみだ」

 ため息混じりに吐いた言葉に、魔女は笑う。

「そうか、おまえはそう答えるか。カカッ、おもしろいなあ」

「お前は、どうだ。考えたのだろう」

 珍しくも、竜の方から言葉を返した。


「ほう、気になるか」

「どうとも。喋りたそうにしているからな」

「よくわかったな」

 驚いたふりをしてみせる。

「嫌でも感じる。そこまで話したいものか」

「自分が知らなんだものを知ったんだ。疼くに決まっておろう」

「……それで、お前はどう考える」

 竜の問いに、気持ちを切り替え、一つ息をつく。



「わしは、死は無いものだと思う」



 竜から心底呆れた声が出る。

「引っ張っておいて冗談か。くだらん、失せろ」

「まあ待て。おまえは結論を急ぎすぎる所があるな」

「燃やされたくなければ、さっさと言え」

 不機嫌な様子を隠すことなく、竜は魔女へ催促する。

「わかった、わかった。まるで坊の様に騒ぎ立てるな、おまえは」

 そう言うと一拍おいて話し始めた。


「死とは、何だ。そう、生命の消失だ。しかし、それはあくまで肉体的な事象。我々の尺度における一つの終着だ。わしは、これが真なる死ではなく、さらに別の点に、本当の死があると考えたのだ」

 竜は続きを待つ。

「別の死とは、記憶上での死だ。つまり、忘れられたら死ぬんだよ」

「忘れられる、とは」

 竜の言葉に魔女は、ほくそ笑んでから継ぐ。


「例えばの話だ。一人の人間の男が居たとする。その男は多くの人に知られ、日々誰かが名を聞くほどの有名な男であった。ある日、男が肉体的な死を遂げると、多くの者は悲しむ。語り継がれていくほどに高名であるとすれば、男が忘れられることは無い」

 説明口調で喋る女に、竜は鬱陶しく思いながらも静かに聞いていた。

「だが、やがて長い年月が経ち彼を知る者が居なくなる。ここで、二つの分岐が生まれる」

 ふむ、と頷く。

「一つは、男が語り継がれていくことで、一人でも彼を忘れることは無いというみち。もう一つは、語り継ぐ者が居なくなり、彼が完全に忘れられる路だ」


「つまり忘れられるというのは、誰も其れを覚えていないということか」

 そうだ、と返す。

「男が語り継がれていけば、永劫忘れられる事は無い。記憶としてそこに在るのだ。それは生きていると、わしはそう想う。しかし誰も、彼を覚えていないのであれば、それは完全な消失を意味するだろう。つまるところ、死んでいるのだ」

 ゆえに、と区切る。


「ゆえに、わしは、死は無いと思うのだ」

「少し、理解した。お前は、誰も忘れられることは無いと言いたいわけだろう」

「ああ、そうだな」

 笑って、続ける。

「先程の例えの続きだ。文明が原始的だとしても、伝達手段があるのであれば、それは失われないだろう。伝説でなくとも、誰かが一つでも残していれば、消えることは無い。誰一人として覚えていないというのは、とても難しい。だから人も、死ぬことは無いんだよ」


「大層、きれいな言い分だな。忘れられるものもある。お前が殺した者たちのようにな」

「それもまた、一つの死よの」

「私には分からん。みな、死ねば骨だけなのだ。記憶上の死など、それは当人ではなく周辺の者たちの、エゴイズムだろう」

「おまえは、死はあると思うか」

「私の答えは変わらん」

 そうか、と言って笑った。



 一つ、喀血する。



「ああ、喋りすぎた。喉もやられていたみたいだなあ」

「そろそろ、か」

「ああ、かなしいか?」

「馬鹿を言う。先刻顔を合わせたばかりだと言っただろう」

 竜が心底うざったそうな顔を見せると、可笑しかったのか、魔女は思わず大きく吹き出して笑い転げた。


「なははははっ、ちょっと、待ってくれ。そ、その顔、おもしろすぎるだろう」

「ここで死ぬ気かもしれないが、御免被るぞ。どこか適当な場所で済ませろ」

「動けぬと言うておるのに。鬼畜か、おまえ」

 反論してからゆっくりと立ち上がる。骨の軋む音がする。ふらつきながら、やっとのことで直立した。無理をしているのは一目でも分かるが、それでも竜は止めることなく、魔女を見据えている。


「そろそろ、死のうかの」

 ああ、と返事。

「何か言う事はあるか」

「何も。ただ終焉のひと時に出会っただけの者に、残す言葉など期待するな」

「カカカッ、そうだな。おまえはそう言うだろうと思っていた」

 笑ってマグマの湖の方へ歩き始める。足を引き摺りながら、一歩一歩進んでいく。


「……なあ」

 竜が、呼び止めた。魔女は少し驚いて振り返る。

「死は、こわいか」

 純朴じゅんぼくに投げかけられた疑問。魔女は面食らったのち、大声で笑った。喉から鮮血が噴き出して魔女の身体に少しかかる。

「なんだ、やさしい言葉も出せるものだな」

 竜は応えることなく、相手の言葉を待っていた。この少しの間で最も真剣に、自身を見つめている目に対して、魔女も態度を直した。


「……こわいとも」

 魔女は伏し目に零す。

「死など無い、と言ったが。わしを覚えているものなど居らんからな。完全なる死をわしは全うするのだ。忘れられる痛みは、もう知っている。だからこそ……」

 少し、震えている。声にも動揺が現れ、先程までの余裕綽々な様子は既に無くなり、まるで子供の様に怯えていた。

「だからこそ、こわい。死にたくなどない」

 目には雫。死を悟ったからこその切望が、溢れ出しそうになっていた。

 竜は一言、そうか、と呟くだけであった。


「情けないところを見せた。まあ知るのはおまえだけだ。さっさと忘れろ。今更、どうでもいいだろう。それとも、ここで泣きじゃくってやろうか?」

 魔女は目を擦ると、態度を元へ戻してあっけらかんと笑う。見つめていた竜は、その姿を見てふと口をついた。

「であれば、私は忘れないでおこう」

 はあ?と拍子の抜けた声を出す。


「おまえ、最期の最期に茶化すのは、良い性格していると言わざるを得んぞ」

「忘れてほしくないのはお前だろう。だから忘れぬ」

「……ッ、おまえ、本当に」

 怒りと希望が入り混じったように、言葉を吐き捨てる。たどたどしく紡いでいく音に、竜は初めて笑った。その顔を見て力が抜けたのか、魔女もようやく笑った。


「ハッ、存外、可愛い顔で笑うではないか」

「冗談を言う元気があるうちに死んでおけ。もう疲れたろう」

 竜はその優しくも鋭い眼で魔女を見つめる。

「……そうだな。幾分か、楽になったよ。本当にそろそろまずそうだからなあ」

 マグマの方へと振り返る。背で語る。


「では、さようならだな。名も知らぬ竜よ」

「ああ、名も知らぬ魔女よ」

 一歩、踏み出す。二度と戻ることは無い。


 沈んでいく。熱に溶かされていく。魔女が今一度振り返り、竜の顔を見つめる。

「……なんだ」

 いや、と落とす。

「なに、ありがとうよ。最期におまえと出会えてよかった」

 そう言うと笑って、そのままゆっくり沈んでいった。やがて顔も見えなくなり、魔女が全て溶け切ると、その場にはいつもの静寂が戻っていた。


 溶岩の音が響く。熱を孕んだ風が、竜の身体を撫でている。いつもよりも、柔らかに感じられるようであった。


 さて、と竜は羽搏いた。空洞を昇っていくと、直ぐに山頂へと顔を覗かせた。崩壊していく空を見上げている。星見である。一つ一つが、未だきれいに輝きながら、世界が消えていくのが嘘であるかのように主張していた。

 安寧であった。しかし、竜には少しの不満があった。

 そうしていると、星の一つが、きらりと落ちていった。


 竜は飛び立つ。空を駆ける、ただ心のままに駆けていく。やがて流れていく星と並び、その身を空へと委ねて、滑り落ちていく。ぐんぐんと、少しずつ早くなっていく。流れに逆らうことなく、空の壁をなぞるように、その体躯を輝かせていた。


 竜の心では、あの女が笑っていた。ただ少しの時を語り合っただけの存在が、竜の心に据わっていた。そうして、竜は瞼を閉じると、星から離れて真っ直ぐ山の方へ、ゆっくりと落ちていった。


「死とは……」

 言葉が零れる。

「死とは、やはり無へ向かうもの。生命は終わり、全てが無になる。しかし……」

 想う。

「あの女の考えもまた、死ということなのだろうな」


 大きな身体が山頂へと入っていく。真っ逆さまにその底へ。マグマの中へと、その身を泳ぐように潜らせた。小さく弾けた音が、壊れていく世界に奏でられた。其れを聞く者は既に居らず、空虚にも何処かへ流れつくのだろう。そうして人知れず消えていく音こそが、死であったのかもしれない。



 魔女が死んで数日後に、世界は完全に消滅した。一つ一つ、点々と在った生命たちはその灯を消していく。すべてが無へと帰っていく。

 竜もまた、その最期と共に姿を消し、無へと帰結を果たした。その先には何もない。人も居なければ、竜も居ない。泥さえもいつしか消えてしまった。

 黒だ。黒というべきでもないか。そこには文字通り、何もなかった。全てを消し去っていった世界の後には、無だけが残っていた。


 死とは、何だろうか。

 その答えを出せずにいる。

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