三十五人目のミツコちゃん

まさつき

あの子はだあれ?

 人のいないとなりの席を眺めていた。

 窓の向こうでは風に吹かれて桜の花びらが舞っている。

 学年が一つ上がって、今日から小学五年生になった。

 新しい教室、一番後ろの席、窓側から二番目が僕の指定席。誰の席か分かるように、「由水健吾ゆみずけんご」とメモが貼り付けてある。

 左となり、眺めている窓際の席は空いたままだ。なにも貼られていない。

 五年生のクラスは全部で五つある。どのクラスも三十五人なのに、僕のいる三組だけは三十四人だった。

「転校生でも来るのかな?」と、まだ名前も知らない男の子が言った。

「あれだよあれ。花瓶置いたり、集合写真でひとりだけになるやつ」

 去年も同じクラスだった田代たしろが不穏な言葉を口にする。

 相変わらずイヤな冗談を言うやつだ。また同じクラスだなんて気が重くなる。

 誰もいないなんてことは、なかった。

 僕には人には見えないものが見えていた。いつからそうだったかは分からない。

 最初は、誰でも見えるのが当たり前だと思っていた。違うのだと知ったのは、保育園の年長のときだ。

 男子トイレで小さな女の子の影を見た。

 友だちも先生も信じてくれないから、園長先生に相談した。真っ青な顔をして理由も無しに、「誰にも話しちゃダメですよ」と言われてそれっきり。

 それで初めて、人には見えない何かが見えてしまうんだと気がついた。

 誰にも、見えることは言わないできた。

 僕の左横の席に、人ではない何かが座っていることも秘密のままだ。

 じっとしている黒い影。たぶん女の子。

「さあさあ、みんな席について!」

 明るく弾んだ女の人の声がした。みんな一斉に黒板へ目を向ける。長い髪のすらりとした女性がいた。今年からの新しい先生だ。

「新学期初めての出席をとります! 名前を呼ばれたら自己紹介もしてね」

「先生が先に自己紹介してよ」と、誰かが注文をつけた。

「そうだね。ごめんごめん」

 先生は黒板に「北原和羽きたはらかずは」と書き出してから、あいさつをした。

 改めて張り切った声をして、北原きたはら先生がみんなに呼びかける。ひとりづつ名前を呼ばれて立ち上がり自己紹介をしての繰り返し。

 やがて三十四人の名前を呼び終わったとき、面倒が起きた。

「ミツコちゃんの名前を呼んでません!」

 ああ、またお前なのか。いつもお前は余計なことをする。田代さあ……まわりの何人かはクスクスと笑った。きっと、田代が何をしたいのか気がついたんだ。

「三十五人目の子がまだ呼ばれてませーん」

 田代は得意げに空の座席を指さした。

 つまらない遊びに付き合う大人らしい仕草で、北原先生が「えーと……ミツコさん?」と名前を呼んだ……呼んだら、ダメなのに。

「はいっ」と誰か知らない女子が、作り声で返事をした。

 みんな下を向いてクスクスと笑っている。

 やれやれと子どもたちに呆れる顔をしているはずの北原先生の顔を見ると……表情が、ひきつっていた。

 なんてこった……先生にも、見えてしまったんだ。

 一瞬、気まずい空気が流れて、消えた。

「えと……じゃあ、新学期の初日はこれでおしまい。明日から授業だから、みんな忘れ物しないでね……」

 教室に来たときと違って、北原先生の声から元気が消えていた。

 友だちはみなバタバタと帰り支度をして、早々に帰っていく。

「ミツコちゃん、また明日ねーっ」と、さっそく声が聞こえてきた。

 いないはずの友だちを作って遊ぶ「ミツコちゃんごっこ」が始まったんだ。

 ただの遊びで終ってくれればいいけれど。

 それより心配なのは、北原先生の方だ。

 僕は急いで北原先生に駆け寄って、後ろから袖を掴んで引き留めた。

「由水君だっけ……どうしたの?」

 正直に、聞いてみるべきなんだろうか? 少しだけ迷ってしまう。

「あの……ミツコちゃんのことで……」

 先生の顔がみるみる青くなる。やっぱり「ルール」を教えないとダメみたいだ。

「ミツコちゃんのこと、話を合わせて生徒がいるつもりで付き合ってください。何が見えても怖がらなければ、大丈夫だから」

「え?」

「それだけです。じゃあ、また明日!」

 家まで走って帰りながら、あんな言い方で伝わったかなと心配になった。

 北原先生みたいに、運悪く見えてしまっただけの人に説明するのは意外と難しい。怖い思いをするせいで、見たものを信じたくない気持ちが、強くなるから。


 四月が過ぎ、五月のゴールデンウィークが明けてからも「ミツコちゃんごっこ」はおさまるどころか、ますますエスカレートしていた。「ミツコちゃん」の分まで給食を用意して席を並べて食べてみたり、休み時間にいっしょに教室で遊んだり。

 連休の間に調べたのだけど、子どもが空想の友だちを作って遊ぶことを「イマジナリーフレンド」というそうだ。

 でも、教室のみんなで同じ空想の友だちを作るだなんて、異常なことだ。黒い影の影響があるに違いない。もしかしたら、みんなにはミツコちゃんという女の子の姿が見せられているのかも。誰にも気づかれず、子どもの心をだます不思議な力を影は持っているのだと、僕は考えた。

 みんなの遊びが高じるほどに、黒い影は大きくなった。今では小学生どころか大人みたいな身長になっている。横幅もだ。相撲部屋にでもいそうなどっしりとした体格になっていた。

 形はすっかり化け物だ。ずんぐりした黒い塊から細い紐みたいな腕と足が伸びていた。上のほうには小さい眼らしき穴がふたつ空き、口らしき大きな穴もあった。穴はどれも深い闇の色に染まり、奥底から吐息のような掠れた風切りの音が僕には聴こえた。

 なんでこんな怪物が生まれて育ってしまうのか……ごっこ遊びを楽しむ、子どもの無邪気な感情でも喰っているのかな?


 七月になり、もうすぐ夏休みを迎える頃。

 黒い影は席を離れて教室中を歩き回るようになっていた。みんなは無口な友だちがいるみたいにして、黒い影の相手をしていた。

 誰にでも仲の良い友だちもいれば、それほどでもない友だちもいる。僕は隣の席ではあるけれど、「ミツコちゃんはそれほど仲の良くない友だち」として接することにしていた。無視するほどでもなく、仲良くすることもしなかった。

 だから「ミツコちゃん、教科書忘れたんだって。見せてやれよ由水」と田代に言われたときは、心底恐ろしい思いをした。

 田代が冗談で言ったのか、本気だったのかは分からないし、大事じゃない。言われたとおりにするのが自分の身を守る「ルール」だった。

 僕の体が半分隠れてしまうほど膨れ上がった黒い影に体を寄せて、机をくっつけて教科書を見せてあげるだなんて。拷問みたいな授業時間を過ごしながら「ミツコちゃん、よく見える?」なんて声を掛けたり……。

 僕は友だちであることを、どうにか演じて乗り切った。

 北原先生は、ずっと見て見ぬふりで過ごしていた。黒い影の変化に気づいているのは、目に浮かぶ恐怖の色を見れば丸わかりだ。でも、どういうわけか先生は、僕と影の様子を見て、口元に微かな笑みを浮かべていた。

 教科書を見せてからというもの、黒い影は僕のほうばかりを見ている。仕方なしに僕もときどき顔のあたりを見返して、作り顔で笑ってみせた。

 ところが、田代たち悪ふざけ組が「由水とミツコちゃんラブラブだな!」などと言ってくるから始末に負えない。黒い影は喜んでいるのか本当に僕を好きになったのか、休み時間も授業中も、席から立って僕にまとわりついてくる。

 今日の給食の時間は、本当に最悪だった。

 隣り合わせに席を並べた黒い影が、スープをスプーンにすくうまねをして、紐みたいな腕を伸ばし、僕の口元に運んできたのだ。

 その時、初めて、黒い影が、しゃべった。

「ねえ、飲んで。おいしい? あなた、スープおいしい?」

「あなただってえ。由水とミツコちゃん、夫婦みたいだなっ」

 みんなにも聴こえている?!

 よせっ、誰だ、こいつを図に乗らせるな!

「由水君たらミツコちゃんと仲いいのね。恋人同士みたい」

 北原先生まで、なに言ってんだ!?

「お肉も食べて?」

 ずずずと黒い両手を寄せながら、大口を開けたミツコの影が、僕に覆い被さるように迫ってきた。もう、我慢の限界だ――。

「や……やめろっ、この化け物っ!!」

 しまった……気づいた時には遅すぎた。僕はとうとう、恐怖に負けてしまった。

「ヒドイ、ヒドイヨ、ユミズクン……」

 呻きとも鳴き声ともわからない声をして、大口を開けたミツコが僕の身体を丸呑みにした。みんなには、どんなふうに見えているのだろう……。

「あらあら酷いことを言うのね。女の子にそんなこと言っちゃ、ダメでしょう?」

 最後に聞こえたのは、北原先生が僕を咎める声だった。

 先生、まさか僕にこいつを押し付けようとして……。

 それきり僕の目の前は、真っ暗闇になった。

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