第26話 砂原さんは、最強

訴えることもできたはずだ。だけど、砂原さんは社長を訴えることはしなかった。

ただ、取ってきた契約を、何も言わず淡々と実行しただけだった。

社長の方でも何も言ってこなかった。当然だ。何も言えるわけがない。ただ、こことの取引は今回限りだろう。


事情を知らない営業課長は、砂原さんが初めての契約を取ってきたことを、大げさなくらい喜んだ。他の営業部員たちも。みんな、経理部の砂原さんは怖いという印象が強すぎてなかなか気軽に話しかけられないだけで、本当は砂原さんに興味津々だったようだ。もちろんいい意味で。


この事件(であることを皆は知らないが)の後も砂原さんの社内での態度は変わらなかった。


だが。そこからの砂原さんはすごかった。


最初こそ、砂原さんの「笑わない営業」スタイルは顧客には不評だったようだが(だから全く契約が取れなかったらしい。怖いし)

次第に、砂原さんは、その実力を発揮し始めた。


その誠実な人柄と、几帳面さを活かした顧客データの活用、そしてデータ分析を活かした営業提案の適切さが、段々評価され、少しずつ契約も増えていった。


「やっぱりすごいよね、砂原さんて。最近、急激に成績あがってたけど、今月はついに営業部トップだよ。一年目の人がトップになるのって、初めてじゃないかな」


ランチタイムの格安イタリアンレストランで、絵里香が興奮した声をあげる。


「それって、太田さんよりも上だったってこと?」


「もちろん」


―よっしゃ!


心の中でガッツポーズをした。ザマアミロ。お前なんかより、砂原さんの方がずっとすごいんだから。私の砂原さんの真の凄さにみんなひれ伏すがいい!


そんな心の声は決して外にもらさず、ニヤけそうになる頬を落ち着かせて平静を装い、麻衣は答える。


「へえ。やっぱりお客さんも、そういう真面目な態度は見てるんだね」


「そういうことなのかな。あとね、聞いたんだけど、砂原さんて、お客さんの前でもあんまり笑わないじゃない。それが、契約取れるか取れないかって大事なところで、たまーに笑うんだって。その、たまに見せる笑顔の破壊力がスゴイらしいんだわ」


―わかる。


「だからね、砂原さんの営業スタイルのこと、最近じゃ、『笑わない営業』スタイルじゃなくて『ギャップ営業』スタイルだってみんな言ってるのよね」


「へえ、そうなんだ」


―わかる。会社にいるときの、ツンとしてちょっと近寄りがたくてかっこいい砂原さんと、夜の砂原さんの、とろけたバターみたいな甘さとのギャップときたら。


「何ニヤけてるの、気持ち悪い」


「ごめんごめん。ちょっと思い出したことがあって」

「思い出し笑い?やらしい」

「そんなことないでしょ」


「麻衣、最近なーんか楽しそうだよね。なんかあった?」


噂好きの絵里香が、前のめりに尋ねる。


「え?別に」


「彼氏でもできた?」


「できてないよ、そんなもの」

「本当かな」

「本当だよ」


―本当だ。『彼氏』はできていない。『彼氏』は。


ポケットに入れたお菓子を何度も確かめるように、あの日の砂原さんのことを思い出す。


「がっかりしたでしょ。私の正体わかって。こんなつまらない女、あなたに好きでいてもらえる人間じゃなかったんだよ、元々」


そう言って唇を上げて「笑い」の形を無理矢理作った砂原さんのことが、痛々しくて、そしてたまらなく愛しかった。


抱きしめて、キスしてしまいたい。自分のものにしてしまいたい。


麻衣の中に、今まで感じたことのない荒々しい衝動がわき起こる。


「私の気持ちは変わってないですよ」


麻衣は砂原さんの目をじっと見た。砂原さんの白いほほに手を伸ばし、顔を近づける。


砂原さんは抵抗しなかった。


今、ここで押せば、多分、砂原さんは麻衣の方に落ちてくる。


麻衣の気持ちを何度も拒否した砂原さんが。普通にしていたら、絶対に手に入ることのない砂原さんが。


いいじゃないか。これは、チャンスだ。


麻衣は心を決めた。ほほに触れる手に力を込め、砂原さんの顔を上に向けた。


砂原さんが目を閉じる。だが、その一瞬前、麻衣を見上げた砂原さんの目があんまり無防備で、麻衣の罪悪感をちりちりとえぐった。


だめだ。これは騙し討ちだ。砂原さんに、こんなことしちゃいけない。


「すみません、何てこと、私…こんな、付け入るような真似!これじゃ、あの汚い男たちと一緒ですよね」


麻衣は、砂原さんから離れた。


その次の瞬間に起きたことを、麻衣は一生忘れられないと思う。


体がふわりと柔らかいものに包まれた。砂原さんが、麻衣の首に両手を回して抱きついていた。え?と思う間もなく、今度は、唇が柔らかいもので塞がれる。

それがキスだとわかるまでに、少しかかった。


「好き、私も」


自分の耳が信じられなかった。念のため、聞いてみた。


「私、女の子ですけど」


砂原さんは笑って答えた。


「知ってるよ。だからいいんだよ」


砂原さんは、もう一度キスをした。めまいがしそうに甘いキスだった。

今度は麻衣の方から、負けないくらい甘いキスを十倍返しでお返ししてやった。

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