第25話 杏子サイド、2
その時、杏子の体を押さえつけていた力が急に消え、体が軽くなった。
ぼんやりとした景色の中で、社長の体がのけぞり、スローモーションの様に宙を舞った。
―何?
麻衣がいた。麻衣が、息を切らし、敵をノックアウトした後のボクサーのような姿勢で立っていた。昔見た、正義のヒーローみたいだと思った。
「杉谷さん?どうしてここに」
倒れていた社長が、ゾンビのように立ち上がる。
「何しやがる!」
形相を変えた社長が、再び杏子に手を伸ばしてくる。さっきまでの好々爺然とした雰囲気は跡形もなかった。杏子はギュッと身を縮める。
「!」
社長がつかみかかるより一瞬早く、強い力で引っ張られた。
「逃げましょう!早く!!」
言うより早く、麻衣が杏子の手をつかんで走り出す。
もつれそうになる足を必死に動かして、杏子もついていく。
いくつもの角を曲がり、通りを越え、走った。人生でこんなに走ったことはないというくらい走った。
走って、走って、息は苦しくてたまらないのに、心は軽かった。
夜の街の光が、きらきらと輝いて見えた。これはさっきのお酒のせい?
「大丈夫。もうここまでは来ないでしょう」
どれくらい走っただろう。さっきの場所からずいぶん離れたひと気のない、細い路地裏まで来て、麻衣は足を止めた。杏子の手は、麻衣にしっかりとつながれたまま。
麻衣の手は、柔らかくて、とても温かかった。つないでいると安心した。
こんな気持ちになったのは、初めてだ。太田とつないだ時も、こんな風に感じはしなかった。
杏子の視線に気づいて、麻衣は手を離した。急に淋しくなる。
違う。そうじゃないのに。
麻衣との距離が急に遠く感じた。
心もとないような気持ちになり…こんな状況にふさわしくなく高揚していた気持ちもぺしゃんと萎んだ。現実が急に押し寄せてくる。
「…どうして?私がここにいるって」
尋ねると、麻衣は困った顔をした。
「心配で。ずっと後をつけてきたんです」
「ずっと?」
つけてきたって。会社の前で別れてから、もうどれだけ経ったと思ってる。あのあと社長の会社で契約をしたり、そこから出てご飯を食べに行ったり。その間ずっといたというのか。
昼間ならまだ暖かかったけど、こんな寒い中、立ちっぱなしで、人目だって気になっただろうに。自分を心配して、それだけの理由で?
―自分は、この子にあんなにつらく当たってきたのに。
「はい。良かった。間に合って」
麻衣はなんでもないことのように答えて、笑った。優しい子だ。だが、その笑顔に、杏子はさらに惨めな気持ちになる。
「ほら見たことかって思ってるでしょ。こんなヤツ放っておけばよかったのに。杉谷さんがせっかく忠告してくれたのに聞かないで。あそこで帰ってれば、こんな目に遭わないで済んだのに。自業自得」
「放っておけるわけないじゃないですか」
麻衣は、どこまでも優しかった。その優しさに甘えて、つい本音を漏らしてしまう。こんな年下の子を相手に、自分は何をしているんだろう。
「本当にどうしようもないね、私。私、自分がここまでダメな人間だと思わなかった。太田さんといい、この社長といい、人を見る目なさすぎだし。クズ男に引っかかるわ、仕事はできないわ。…あの頃のあなたの気持ちが、今ならよくわかる」
「それ、ひどくないですか?」
麻衣が拗ねた仕草で口を尖らせる。目は笑っていた。
「うそ。あなたと一緒にするなんて、私が図々しいわ。もうちょっとマシな人間だと思ってたのに、今回のことでよーくわかった。こんな中身のない空っぽの人間のくせに、何を偉そうにしてたんだろ」
「砂谷さんは、空っぽなんかじゃないです」
麻衣は、じっと杏子を見上げた。
「ありがとう。杉谷さんは優しいね」
杏子も、麻衣の目をきちんと見返した。
「ごめんね。私はあなたにあんなひどい態度をとったのに」
「ひどい態度だって自覚はあるんですね」
「がっかりしたでしょ。私の正体わかって。こんなつまらない女、あなたに好きでいてもらえる人間じゃなかったんだよ、元々」
口角を持ち上げて笑いの形を作る。笑う対象はもちろん自分だ。
遠くを走る車のライトが、側方の壁を照らし、それから地面に落ちた。
「私の気持ちは変わってないですよ」
ひどく静かに、麻衣はそう言った。
えっと思って顔を上げると、すぐそこに、麻衣の顔があった。
「私は、今も砂谷さんのことが好きです」
麻衣の熱のこもった瞳につかまって、目を逸らすことが出来ない。
細い手が伸びてきて、杏子のほほに触れた。
杏子は抵抗しなかった。このまま流れに乗ってしまえばいい。目を閉じて、その時を待った。
だが。
「ごめんなさいっ!私、こんな…」
近づいていた気配が急に遠くなって、杏子は目を開けた。
「すみません、何てこと、私…こんな、付け入るような真似!これじゃ、あの汚い男たちと一緒ですよね」
麻衣はわけもなく服をつかんだり、後ろを振り返ったり、おたおたと慌てている。
そんなこと、どうでもいいのに。律儀というかなんというか。
急に緊張が解けて体中の力が抜ける。同時になんだか腹立たしくなってきた。
このままじゃ、何も進まないじゃないか。
杏子は、自分から麻衣に手を伸ばした。
ふわりと麻衣を抱きしめる。唇を合わせると、麻衣が目をまんまるにしているのが見えた。
「私、女の子ですけど」
かわいい、と思った。
「知ってるよ。だからいいんだよ」
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