第24話 杏子サイド、1

夕方、従業員たちが帰った後の事務所に、サラサラと万年筆を走らせる音が響く。

ボールペンともシャーペンとも違う、なめらかな音。ああ、やっぱりいい。こういう時は、やっぱり万年筆に限る。


「これでいいかな」

「はい。ご契約ありがとうございます」


近所の住民をお客とする、街の小さなスーパー。ここが自分にとって最初のお客さまである。


初めてもらった契約書を両手に押しいただくようにして、砂原杏子は深々と頭を下げた。

喜びが、お腹の底からじわじわと込み上げてくる。長かった。


―たった一つの契約も取れないのか


有言無言のそんなプレッシャーにさらされてきた日々。

たった一つの、それもわずか数十万の契約。それでも、1か0かの違いはとてつもなく大きい。


「悪かったね、こんな時間に呼びつけちゃって。最近は人手不足で、パートさんもなかなか集まらないからねえ。日中は、仕入れから陳列からレジ打ちまで、全部自分でやらなくちゃいけなくて、休む暇もないもんだから、こんな時間にしか時間が取れなくってねえ」


その言葉通り、朝から晩まで仕事に明け暮れているのであろう、いかにも真面目で実直そうな初老の社長が、人の良さそうな笑顔を浮かべながら杏子に話しかける。


「とんでもありません。御用の際にはいつでも飛んで参りますので、お申し付けください」


まるで営業部員のように、すらすらと言葉が出た。

顔には、お客さんの前ではどうしても作ることのできなかった笑みが浮かんでいると思う。初めて契約を取れたという喜びが自然にあふれてしまっただけで、まだ「営業スマイル」の獲得までには至っていない。だが、少し感覚をつかめたように思う。この感覚を思い出しながらいけば、きっと自分にも「営業」が出来るだろう。


入社してからずっと、経理一筋だった。仕事は特別楽しかったわけではないが、自分には合っていたと思う。他の人と比べても仕事を覚えるのは早かったし、ミスをすることもなかった。というより、ミスをするということ自体がよくわからなかった。次第に周りも自分を頼りにするようになり、それが自信にもつながっていった。陰で経理部の妖怪とか揶揄されながらも、仕事が出来る人間として一目置かれるのは安心する。自分がここにいていいのだと思える。


だから、自分がミスを犯してしまった時は衝撃だった。大袈裟でなく、自分という存在が揺らいだような気がした。仕事だけは出来る人間だと思っていたのに、営業部に異動して、自分が使い物にならない人間だとわかった時には、存在価値そのものがなくなったようで愕然とした。このままじゃいけない、何とかしないと。


杏子は目の前の、気の良さそうな男を見た。

こんな時間に一人で呼び出されて、不安が全くなかったわけではない。麻衣が訝しんで止めようとしたように、自分でも警戒はしていた。もしも契約をエサに変な所に連れていかれそうになったら、そのときはちゃんと断るつもりでいた。だけど、そんな心配は杞憂だった。

こんなに真面目で人の良さそうな社長を、一瞬でも疑ってしまったことを申し訳なく思う。


「砂原さん、この後時間があったら、ちょっとご飯でもどう?」


社長はそう言いながら、指で杯を傾ける仕草をした。


「いや、こんな時間に呼び出しちゃって申し訳なかったし、近くに美味いメシ屋があるんだ。ご馳走するよ」


「いえいえ。仕事ですから。どうぞお構いなく」


社長は淋しそうな顔をした。


「でも、これからも砂原さんとは長い付き合いになりそうだし、お近づきの印にってことで」


「本当に、どうぞお構いなく」


「嫌なら無理にとは言えないけどさ」


「いえ、そういうことではなく」


「そうだよね。こんな年寄りとご飯なんか食べたって美味しくないよね」


社長は捨てられた子犬…もとい老犬のようにしょぼんとうなだれていた。


「大丈夫、断られたからって、契約を取り消せとか、そんなことは言わないから。当たり前だけど、これからもどうぞよろしくお願いします」


すっかりしょぼんとしながら、殊勝な言葉を述べる社長が可哀想に見えてきて、杏子は思わず言ってしまった。


「やっぱり、ご一緒させてください、社長」

「ほんとっ?」


社長の顔が、子供のようにパッと明るくなる。


「じゃあ、予約するね! ほんとに美味しいんだよ、あそこ。砂原さんにも是非食べてもらいたくってさあ」


連れていかれたのは、落ち着いた日本料理の店だった。社長の言う通り、料理はとても美味しく、そのせいもあって杏子は飲み慣れない酒をつい飲み過ぎてしまった。


店を出て、駅への道を社長と二人で歩きながら、急に酔いが回って足元がおぼつかなくなる。


「大丈夫?」


社長が、心配そうにのぞきこんでくる。


「すみません。大丈夫です」


おかしい。酒は特別強い方ではないが、あの程度の酒でこんなふうになるなんてこと、これまで一度もなかった。踏み出した足に力が入らず、大きくよろけた。すかさず社長が肩を支える。


「大丈夫じゃないんじゃない?少し休んで行こうか?」


いえ、と答えながらギョッとした。目の前にあるのはラブホテルだ。

周囲にあるのも、その手のホテルや店ばかりだ。

駅に向かっていたはずなのにどうして。

土地勘のない場所で、自分がどのあたりにいるのかもわからない。


―まずい、はめられた。


さっと全身の血が凍る。

逃げなくちゃ。

だが、杏子の肩をつかむ社長の力は、その貧弱そうな見た目からは想像できないくらい、強い。怖かった。初めて男の人を怖いと思った。


「少しだけだからね」


社長がホテルの入口に向かって杏子の体を押す。

その手を振り解いて、逃げようとした。だが体にうまく力が入らない。恐怖のせいか、それとも飲んだ酒に何か入れられていたのか。

ずるずると入口の前まで連れていかれる。


「やめてください!」


最後の抵抗を試みたが、ほとんど声にならない。

入口の自動ドアが開いた。


「…助けて」

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