第22話 経理部の妖精

翌日、砂原さんの処分が決定された。

砂原さんは結局、今回の失敗の責任をとって、営業に異動することになった。


「営業…」


太田が言っていたのは、このことだったのか。


砂原さんはいつものように無表情で、その下にある感情を読み取ることはできなかった。


営業。よりによって。このタイミングで。

アイツと同じ部署。

しかも主任から降格、平の下っ端の営業部員としてのスタートである。


「あんまりじゃないですか!?」


突然麻衣に詰め寄られ、課長は思わず後ずさった。窓から柔らかい日差しが差し込む、平和な午後の経理室である…はずだった。


「な、何?どうした?」

「砂原さんのことです」


砂原さんは、打ち合わせのために工場に出向いていた。


「異動って。なんの処分もないわけにはいかないだろうけど、減給とかじゃダメだったんですか?」


麻衣は、前のめりに課長の机に両手をついた。


「お客さんが相当怒ってるからなあ。はっきり目に見える処分をってことだったんだよ」


課長は困った顔をしてぼりぼりと頭をかいた。経理部の他の職員、田辺と梅原も、素知らぬふりをして自分の作業を進めているように見えるが、その下では耳をダンボにしてこの会話を聞いているのだろう。


「降格するにしたって、経理にいたまま下げることだって出来るじゃないですか」


麻衣も引き下がらない。


「そうなんだけど。社長が、今度のことは、うちの会社の体質にも原因があるんじゃないかって言い出してさ。うちって異動って少ないだろ?一つの部署でしっかり育てるっていう方針のためなんだけど。経理ももうずっとこのメンバーだし。でもそのせいで、みんな砂原さんに頼りすぎて、チェック機能が働いてないんじゃないかって言うんだ。だから、一度砂原さんを外に出そうってことになったらしい」


「だからって、何も営業部に…」


「営業だと何か問題あるの?」


「いえ…」


麻衣は言葉を濁した。


砂原さんと太田のことは、誰も本当に気がついていなかったらしい。麻衣の目には、あんなにあからさまに見えるのに、みんな、目が節穴なのか!ていうか、砂原さんが恋愛って、本当にみんな想像しないんだろうか。


「でも、砂原さんがいなくなったら、経理はどうなるんですか!とても回るとは思えないんですけど」


梅原さんが、心配そうに口を挟んだ。


そういえばそうだ。うっかりしていたが、経理の妖怪、もとい経理の妖精がいなくなったら経理部は一体どうなってしまうのか。砂原さんの方だけじゃない、残されたこっちの方も実際心配ではある。


「何とかするしかないでしょ。まだ忙しくなる決算期までには時間もあるから、徐々に慣れていくしかないよ。そのうち補充もしてくれるだろうし」


課長はなげやりに言う。


「お願いしますよ」


田辺さんが、真剣な様子で言った。




異動の日は、あっという間にやってきた。


砂原さんの荷物は少ない。両手で軽く持てる程度の段ボール一つを持って、砂原さんは経理を出て行った。

砂原さんがいなくなった経理室は、火が消えたみたいだった。


「砂原さんて、本当に経理部の妖精だったんだな」


梅原さんがぽつりとつぶやいた。


砂原さんはどんな気持ちでいるのだろう。長く働き慣れた経理部を出て。

砂原さんのことだから、どこにいたってきっちり自分の仕事はこなすと思うけれど。

あいつさえいなければ、何も心配することなんてないんだけれど。

麻衣は、握ったこぶしに力を込めた。何もできない自分の非力が悔しかった。


異動して2、3日経ったころ、どうしても気になって、こっそり営業部を覗きに行った。


ドアの隙間から中を覗くと、そこは活気と喧騒に溢れていた。経理部よりもはるかに人数の多い営業部員たちのかける電話の音が絶え間なく響き、時折大きな笑い声も聞こえる。キーボードの音だけが聞こえるような静かな経理部とは全然違う。砂原さんの姿は見えなかった。外に営業にでも出ているのだろうか。


壁に貼られた営業成績表では、太田の棒グラフが、ダントツで高く伸びていた。気に入らない。


「なーにしてんの?」


後ろから、トントンと肩を叩かれた。しまった。嫌なやつに見つかってしまった。


「お姫様の様子が心配で様子を見にきたの?」


「そうです。油断ならない人がいますから」


太田を睨みつけながら、麻衣は答えた。太田はそんな麻衣を見てクスクス笑う。


「大丈夫だよ。ちゃんと別れたって言っただろ。今さら手出したりしないよ」

その言い方。砂原さんのことを何だと思っているのだ。腹が立つ。だが、ぐっと飲み込んだ。


「それにね、僕、今度結婚することになったんだよ。M百貨店の社長のお嬢さんと」

「は?」


開いた口が塞がらなかった。


「だから、変な噂を立てられても困るしね。砂原さんとまたどうこうってことは絶対ないから。安心しただろ?」


何と言っていいかわからなかった。


これで砂原さんと完全に切れると考えればいいことなのだろうけれども。

M百貨店と言えば、日本を代表する大手で老舗のデパートである。逆玉ってやつか。うちの大きな取引先でもあるし、この結婚を後ろ盾に社内で出世するのか、それともM百貨店で次期社長候補とかになっちゃうのか。いずれにしても、砂原さんにあんな辛い思いをさせておいて、自分だけのうのうといい思いをしようと言うのか。そんなことが許されていいのか。


やりきれない思いが、麻衣の頭の中をぐるぐると駆け巡る。

太田のルックスと、見せかけだけの好青年ぶりに騙されて。相手のお嬢さんも可哀想に。あいつが本当はひどいクズ野郎だって、バラしてあげた方がいいんじゃないのか。


そして。

砂原さんはどう思うんだろう。


太田とはもう会わないとは言ったけれど、嫌いになったとは聞いていない。

自分と別れてこんなにすぐに、他の女と結婚するだなんて。つらくはないんだろうか。傷ついたりしないんだろうか。


「砂原さんは知ってるんですか?」


「さあね。僕からは直接は言ってないけど、営業部の人はみんな知ってるから、知ってるんじゃない」


睨みつける麻衣を面白そうに見下ろして、太田は答えた。


「最っ低」


笑いながら太田は部屋の中に入って行った。


なんて男だ。

どうして砂原さんがこんな男に。

怒りで頭が爆発しそうになる。麻衣はくるりと背をむけ、この嫌な場所を後にした。


経理室に戻ると、麻衣は自分のデスクに座り、やりかけの作業を再開しようと画面を開いた。総務部と人事部の全員の残業手当の入力を済ませてしまわなけばならない。だがさっきから、頭は別のことばかり考えてしまい、作業は全く進んでいない。

麻衣は椅子の背に体をもたせかけ、天井を仰ぎ見た。


「何やってんだろ、私」


こんなこと、いくら自分が考えても仕方のないことだ。

麻衣がどんなに砂原さんのことを心配しても、どんなに砂原さんのことを思っても。


―あなたのせいよ。


―あなたのこと、許せない。


あの、射抜くような冷ややかな目がよみがえる。


…砂原さんは、麻衣のことが嫌いなのだ。


「やーめた、もう」

麻衣は強く頭を振って、残りの作業を終わらせることだけに神経を集中した。

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