第20話 事件
事件は、その数日後に起きた。
麻衣がランチを終えて、席でテイクアウトしてきたコーヒーを飲んでいると、突然、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「お宅の会社はどうなってるんだ一体!!担当者を出せ!!」
声は、総務が窓口となっている会社代表の受付から聞こえてくるようだった。
大松製菓は平和で紳士的な会社である。こんな怒鳴り声が聞こえてくるなど(麻衣が入社してからの期間がそう長くないとはいえ)初めてのことだった。静かなオフィスの空気が一瞬で張り詰める。誰もがその騒動に気がつき、何事かとその声のする方に注目している。
声の主は、50代くらいの、少し髪の薄くなった作業着の男性である。規模の小さな取引先の、社長さんといったところだろうか。
「落ち着いてください、お客さま。ただいまお話を伺いますので」
受付にいた総務の田村さんが、おろおろした様子で男性をなだめようとしている。
「これが落ち着いていられるか!お宅のせいで大変なことになったんだぞ!!」
男性はますます声を荒げ、受付のカウンターを拳で叩いた。
「ええと、あの、それはどういう…」
「今日、お宅から入るはずの金が入ってなかったんだ!その入金を見込んで、手形の決済に充てるはずだったのに!銀行から連絡があって、あわててなんとか今日は待ってもらったが…。もう少しで不渡になるところだったんだぞ!どうしてくれるんだ!うちが倒産したらお宅らのせいだからな!!」
大きな声は会社全体に聴こえるのではないかと思うほど響き渡っていた。
今日社内にいる社員全員がこのトラブルを固唾を飲んで見守っていたと言っても過言ではない。
心臓が、激しく鼓動を打ち始めた。
聞こえてくる内容からすると、トラブルは経理の問題である。
支払いの手続きは、基本的に砂原さんが担当している。
まさか、砂原さんが、そんな大きなミスを? いや、砂原さんだぞ。そんなことあるはずがない。でも…。最近の砂原さんの、ぼんやりとした様子が思い起こされる。
麻衣の対面で、砂原さんの表情がこわばるのがわかった。
砂原さんは素早くパソコンを操作して画面を開き、同時に後ろのキャビネットにあるファイルを一冊取り出した。ページを開き、何かを確認すると、観念したように目を閉じた。
そして、目を閉じると、経理室を出ていった。
麻衣もすぐに後を追う。
砂原さんは受付で声を荒げている男性の元に歩み寄り、頭を下げた。
「申し訳ございません」
男性が、砂原さんの方を見る。顔は怒りで鬼のように真っ赤である。砂原さんは真っ直ぐにその視線を受け止め、冷静な声で答えた。
「鈴木食品様でございますね。私が経理の担当者です。私の手違いで、本日入金させていただくはずだった入金が出来ておりませんでした。申し訳ありません。直ちに入金手続きを取らせていただきます。そのせいで被った損害も補償させていただきます」
「当然だ!」
「本当に申し訳ございません」
砂原さんはもう一度、さらに深く頭を下げる。
「こんないい加減な会社だとは思わなかったよ。今後の取引も考えさせてもらう!」
男性はまだ興奮治まらない様子である。
「申し訳ございません」
ただひたすら頭を下げる砂原さんを、皆が固唾を飲んで遠巻きに見ていた。麻衣ももちろん、見ていることしかできない。胸がキリキリと痛む。
知らせを聞いて慌てて戻ってきた課長が、砂原さんと男性とを促して会議室へと入っていった。社員たちの間に、ほっとしたような、面白い見ものが終わってしまって残念なような、微妙な空気が漂う。
―あいつのせいだ。
麻衣の中に、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。
いつも几帳面できちんとしている砂原さんが、こんなバカみたいなミスを犯すなんて。
あの、眼帯を付けてきた日あたりから、砂原さんは何か悩んでいる様子で、ぼんやりしていることも多かった。
それでも、仕事にはきちんと取り組んでいるように見えたのだが。
1時間くらいして、砂原さんはようやく席に戻ってきた。
「ごめんね、迷惑かけて」
「いえ、私には何も。大丈夫だったんですか?」
「うん。とりあえずは。会社から正式に謝罪して、損害補償することで納得してもらった。杉谷さんたちにはこれ以上迷惑かけなくてすむと思う」
砂原さんから話しかけてもらったのも久しぶりだ。こんなことでなかったら本当に嬉しかったのに。
砂原さんは、淡々と残っていた仕事を片づけていた。
傍目には、落ち込むでもなく動揺するでもなく、いつも通りに見えているのがなんだか切ない。
夕方、社長が予定を切り上げて早めに出張から帰ってきた。そんなことは滅多にないらしい。課長と一緒に社長室に入って行った砂原さんはなかなか出てこなかった。ようやく出てきた砂原さんはやっぱりいつも通りで…目が少しだけ赤いようの見えたのはきっと気のせいだろう。
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