第18話 ある日、砂原さんが

ある日、砂原さんが突然、眼帯をして出社してきた。


気になったが、麻衣からは何も聞けなかった。

どうしたのかと尋ねた梅原さんに、砂原さんはものもらいだと答えていたが、砂原さんはひどく元気がないように見えた。


そしてその日、トイレで。麻衣は見てしまった。


麻衣が入って行った時、砂原さんは洗面台で、ぼんやりと鏡を見つめていた。そして、麻衣の姿を見ると、慌てた様子で外していた眼帯をつけた。ほんの一瞬だったが、その時、目のまわりに青黒いあざのようなものがあったのだ。


―まさか、暴力? あの男が?


間違って腐った食べ物を口にしてしまったみたいに、嫌な味が体の中に広がる。


―クズだとは思っていたけど、そこまで?


いや、そうとは限らない。ただ何かにぶつけただけかもしれないし。


「砂原さん、それって…」


砂原さんは、麻衣から目を逸らすと、避けるようにトイレから出ていった。

その態度が答えであるような気がした。


「砂原さん…」


麻衣は、トイレを出て、砂原さんを追いかけようとした。


−あんな男、やめてください!


だが、そんな気持ちの一方で、ついこの間言われたばかりの言葉が鮮やかに頭の中によみがえり、麻衣の足を止めた。


―あなたには関係ないでしょ!

―やめて。そういうの、聞きたくない!


記憶の中の砂原さんの目が、麻衣の心をえぐる。あれからもう随分経っているのに、思い出すだけで心がキリキリと痛む。


「放っておけばいい。あの人のことなんか」


 他の誰でもない、砂原さん自身がそう言ったのだ。知るもんか、あんな人がどうなろうと。

 麻衣はぶんぶんと頭を振り、砂原さんの存在を、頭の中から追い出した。

 それから、砂原さんがどんなに元気がなくても、一人でぼんやりとしていることが多くなっても、目を逸らして、砂原さんのことは本当に一切考えなかった。


…はずなのに。


 砂原さんがこんなにつらい思いをしているのに、呑気な顔で営業部の女の子とだべっている太田の姿を見たら、黙ってはいられなかった。


「ちょっと、付き合ってもらえますか」


 多分、夜叉のような顔をして太田の前に立ち塞がった麻衣に、太田は


「え?告白?困ったな、僕今付き合ってる人いるの知ってるよね」


などとふざけたことをのたまった。


「いいですから、来てください」


 その場で爆発しそうになるのをなんとかこらえ、太田を誰もいない非常階段に引っ張り出す。扉を閉めた瞬間、強い風がさっと吹いた。踊り場まで上がっていき、太田に向き直った。


「単刀直入に聞きます。砂原さんのこと、殴りましたよね」


 麻衣にそう聞かれて、太田はなぜか笑った。そこは笑うところではないだろう。絶対に。


「僕が?砂原さんを?どうしてそんなこと」


 目を見開き、首を振って驚いてみせる。そのリアクションはやけに大袈裟で芝居じみていた。

 わざとらしい。絶対、コイツ、やってるだろ。


「砂原さんの目の周りにあざがありました」


「それで僕が殴ったって?彼女がそう言ったの?」


「いえ、砂原さんは何も言ってません。でも、他にそんなことする人いないじゃないですか」


「ひどいな、それで僕のせいだって?」


 もし、自分がやったのではなく、初めてそのことを知ったのだとしたら、普通は心配するだろう。だが太田には全くそんな様子はなかった。相変わらず薄っぺらい笑顔(以前ならこの笑顔が「爽やか」に見えていたのかもしれない)を浮かべながら、しらを切り続ける。


「証拠はあるの?僕がやったって」


「証拠は、ありません」


 悔しいけど。ていうか、砂原さんからは、殴られたとすら聞いてないけど。


 でも、推理小説か何かで読んだことがある。無実の人は、やってないことの濡れ衣を着せられたら怒るものだって。「証拠は?」って開き直るのは、大体犯人だって。


「それじゃ、僕がやったとは限らないじゃん。どこかにぶつけたり、転んだりしたのかもしれないしさ」


太田はどこか楽しそうですらあった。


「ねえ、どうしてそんなに砂原さんのこと気にするの?」


「それは。いつもお世話になってる大事な先輩だからに決まってるじゃないですか」


「それだけかなあ」


 太田はニヤニヤして麻衣を見ている。


「どういう意味ですか」


「杉谷さん見てると、ただの先輩を慕ってる後輩っていうよりも、愛するお姫様を守ろうとしてるナイト気取りに見えるんだよね。全然守れてないけど」


かっと頭に血が上った。


「残念ながら、君の愛するお姫様には、君のことは見えてないみたいだけどね」


「…」


「じゃ、僕はこれで。ナイトさん」


そう言って太田は麻衣に背を向け、階段を降りていった。


「アイツ…」


その背中を突き飛ばし、階段から落としてやろうと本気で思った。だがその次の瞬間、太田はするりと扉の向こうに消えていた。

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