第17話 それなのに、again
それなのに。それからたったの二週間後のことだった。
ノー残業デーでもないのに、定時ぴったりに、そそくさと帰っていく太田の姿を、麻衣は見てしまった。砂原さんはまだ経理室にいたはずだ。
嫌な予感がして、麻衣は太田の後を追った。太田は麻衣に気づく様子もなく、ターミナル駅で降りると、小洒落たバーに入っていった。麻衣には敷居の高い、高級そうな店である。
躊躇したが、思い切って扉を開けた。重い扉の向こうから、ジャズのような音楽が耳に飛び込んでくる。薄暗い店内だったが、探すまでもなく、カウンターに腰掛けている太田の姿を見つけた。隣にいるのは…。
この間と同じ女性だった。カッと血が沸騰する。
一度きりのただの浮気だって許せないのに、これはもう、本気の浮気じゃないか。
太田と女は、ほおをつついたり、髪を触ったりしてじゃれ合っている。
見苦しいと思った。ヘドが出そうだ。
太田はまだ麻衣には気づいていないようだ。警戒する気すらないのか。怒鳴り込みたくなる気持ちを抑え、今度こそ確実に、二人の写真を撮った。
「太田さんのことで話があるんですけど」
翌日の業後、麻衣は、砂原さんを会社の裏の公園に呼び出した。
周囲に人がいないことを十分に確認して、麻衣が話を切り出すと、砂原さんは少し不安そうな表情をした。麻衣は声をひそめ、切り出した。
「あの男、絶対にやめた方がいいです。あいつ、どうしようもないクズですよ」
そう言って麻衣はスマホを差し出す。
バーカウンターで、親しげに体を寄せあいながら、指を絡めている太田と女の姿が、今度はしっかりと写っている。
砂原さんは、その写真を黙ってじっと見つめていた。 「実は、この前に一度、太田さん本人にも話したんです。砂原さんのことが好きなら、この女とは別れろって。でも、あの人、ヘラヘラ適当なこと言って誤魔化して。結局、そういうヤツなんです。やめた方がいいです、あんな不誠実なヤツ」
沈黙の後、砂原さんはため息をついた。そして顔を上げて、麻衣を見た。
「?」
麻衣は戸惑った。そこには、怒りとか悲しみとか、麻衣が想像していたような感情は浮かんでいなかった。
砂原さんの顔は能面のようで、何の感情も読み取れない。
「どうしてそんなことしたの?」
「…え?」
「誰が頼んだ?そんなこと教えて欲しいって」
意味がわからなかった。
固まっている麻衣の前で、砂原さんの感情が突然動いた。
「余計なことしないでよ!あなたには関係のないことでしょ!」
きつく握られた砂原さんのこぶしが、小さく震えている。
「そんなこと私は知りたくなかった!!」
「でも…」
「私はあの人とうまくいってるの!余計な波風立てて、邪魔するようなこと、やめてくれる?」
「邪魔って。本当のことじゃないですか!」
「本当かどうかなんてわからないでしょ」
「…どうしてそんなこと言うんですか?とても砂原さんの言葉とは思えませんよ」
自分の声が、震えているのに気づいた。
砂原さんは頭のいい人だ。経理をするために生まれてきたような人で、誰よりも合理的な経理の妖精だ。数字を見る目ほどには人を見る目がなくて、うっかり騙されてしまうことはあるかもしれないけれど、本当の姿を知れば、ちゃんと正しい判断をする人だと信じていた。それなのに。
「どうして現実から目を背けるんですか?」
砂原さんからは、意外な答えが返ってきた。
「…他に女がいるのは、なんとなくわかってた」
「うそ…だったらどうしてそんな男と!」
「好きなの!」
砂原さんに睨みつけられて、麻衣は怯んだ。
いつも冷静な砂原さんが、全然合理的じゃない感情をむき出しにしてそこにいる。
こんな砂原さんを、麻衣は知らない。
「好きなのよ、あの人のことが。別れたくないの!」
かみつくようにそう言うと、今度は目を逸らした。
その様子が、ひどく不安定で、頼りなく見える。
たまらなくなって、麻衣は砂原さんの肩をつかんだ。
「しっかりしてください!そんなの砂原さんらしくない… 目を覚まして下さい、あんなロクでもない男に振り回されるのはやめて下さい!そんな砂原さんを見たくないんです!」
砂原さんは、麻衣の手を振り払った。
「放っといてよ!私のことなんか!あなたには関係ないでしょ」
「放っとけるわけないでしょう!」
思わず叫んでいた。
「どうして」
「どうしてって…」
止められなかった。
「言ったでしょう、私は、砂原さんのことが好きなんです!
尊敬する先輩としてだけじゃなく、一人の女性として砂原さんのことが本当に好きなんです!」
だが、麻衣の決死の思いはあっさりと拒絶された。
「やめて。そういうの、聞きたくない」
「……」
砂原さんは、通りの方を見ながら、絞り出すような声で言った。
「好きなの。私は。あの人のことが」
麻衣は唇をかんだ。
何を言っても無駄だ。この人に、自分の言葉は、一ミリも届いていない。
体中から、虚しく力が抜けていくような気がした。
「…がっかりしました。砂原さんのこと、見損ないました。好きにして下さい」
もう、顔も見たくなかった。砂原さんに背を向けて、麻衣はその場を後にした。
自分の足音が、やけに大きく響いた。
もう砂原さんのことなんて知らない。勝手にしろ。もう顔も見たくない。
それでも、会社には行かなければならない。向かいに座っている砂原さんとは毎日顔を合わせなくてはならない。
「書類、チェックお願いします」
砂原さんは、いつものように電卓を入れ、原資料を確認する。
「うん、これでいいわ」
「ありがとうございます」
砂原さんのチェックを受けた書類を無愛想に受け取る。砂原さんと話をしたくなくて、少しでも接触を減らしたくて…絶対に間違いなんか作りたくなくて、全身全霊の注意力を込めて書類を作った。結果、本当にほとんどミスを指摘されることもなくなった。今までも真剣にやっていたつもりだったのに、あれは何だったのだ、と軽く凹む。いや、そうではなくようやく自分がこの仕事に習熟してきたからなのだと思いたい。
元々仕事中におしゃべりをする方ではなかったが、今は二人の会話も義務的なもの以外、ほぼ完全になくなった。心なしか、砂原さんも少し淋しそうに見える。…いや、そんなはず、ないか。あんな風に麻衣を拒絶した人間が、会話がなくなったくらいのことを寂しがるわけなんてない。これは、ただの未練だ。早く断ち切らないと。
太田はその後も平気な様子で経理室を度々訪れた。領収書を出す相手は誰でもいいはずなのだが、太田の姿を見ると、いつも砂原さんがいそいそと立ち上がり、入口のカウンターのところまで太田を迎えに出る。砂原さんは公私混同をする人ではない。私的な会話をするわけでもなく、馴れ馴れしい素振りをするわけでもなく、笑顔すらもなく、いつも通り。淡々と事務作業を進めているだけなのに、その場に流れる空気というか、何かが他の人に対するのとは全然違う。それに気がついてしまう自分も嫌だった。そして、帰る間際に、太田が勝ち誇ったような目をして、ちらりと麻衣を見ていく。そのたびにはらわたが煮えくり返るような気持ちになるのも耐えられなかった。
だが。あんな風に言われてしまった以上、麻衣にとやかく言う権利はない。
なるべく心を平らかに、あの人たちのことを考えないようにして、自分の仕事に打ち込むだけである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます