第15話 月曜日の砂原さん

 週のはじめの月曜日。


 経理室に一歩入ったとたん、麻衣はいつもと違う様子を感じた。


 空気が、軽い。


 月曜日だぞ。これから一週間、5日間もフルに働かなくてはいけないんだぞ。

空気なんてにごってよどんでいて当然なのに、この軽やかさは何だ。


 麻衣は室内を見回した。そしてすぐにその元凶を見つけた。


 砂原さんだった。


 砂原さんの周りの空気が何か軽いというか明るいというか華やかなのだ。


 特に変わったことをしている訳ではなく、いつも通り席についてパソコンを開いているだけなのだが。なんだろう、これは。


「ああ、杉原さん、おはよう」


 砂原さんは、麻衣を見て、にこりと笑った。


「おはよう…ございます」


 砂原さんがおかしい。砂原さんは、朝の挨拶ごときで、意味もなく笑ったりしない。


 そして、違和感の正体もわかった。

 メイクだ。砂原さんのメイクがいつもと違う。


 ブラウン系だったチークがピンク色に、口紅も明るいトーンのものに変わっている。

 よーく見ないと気付かないくらいの僅かな変化だったが、麻衣は気付いてしまった。


 そして心なしか、表情も、物腰も、いつもの角がとれて柔らかい雰囲気になっている。


 手元にあるペンケースも、見たことのない新しいものに変わっていた。


「そっか」


 この週末は、太田と二人で文具博を見に行ってきたに違いない。


 聞く必要もない。うまくいったようだ。

 

 自分で仕組んだことなのに、憂鬱になった。


 それから、太田はしばしば経理部に顔を出すようになった。表向きは経費の精算という口実で。


 以前はまとめて持ってきていた小口の交通費だの、取引先への手土産の菓子折りの領収書などを毎日のようにこまごまと持ってくる。そのたびに砂原さんがいそいそと立ち上がって嬉しそうに処理をするのがなんだか腹が立った。


 ノー残業デーの水曜日には、以前太田と3人で鉢合わせた因縁のファーストフード店で、今度は砂原さんと太田が仲良く笑いながら飲み物を飲んでいた。トレーを持って階段からフロアへの入り口で立ち尽くしながら、麻衣は、あの時と逆だなと思った。 


「杉原さん!」


 太田が手を振っている。

 

 ちっ。見つかる前に退散しようと思ったのに、見つかってしまった。

 

 見つかってしまったからには仕方がない。麻衣は小さく息を吸い込んで切り替えた。


「お疲れさまですう!」


 何にも考えていないような笑顔で二人に近づく。砂原さんは、中学生のように顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにうつむいた。何を今さら。意地悪な気持ちが湧き上がり、わざと聞いてやる。思いっきり笑顔で。


「お二人、つきあってるんですか?」


 太田が余裕のある笑みを浮かべる隣で、砂原さんはさらに顔を真っ赤にして、らしくない、ボソボソした声でつぶやいた。


「恥ずかしいからみんなには言わないで」


中学生か!とつっこみたくなるような純情さにまたまた腹が立つ。だったらそんなところで二人でいるんじゃねーよ、とはもちろん口には出さない。


「どうしようかなー」

「お願い」

「冗談ですよ。わかってますって。誰にも言いませんから」

「ありがとう」


 恥じらいながらほおを染める砂原さんは、麻衣が今まで見たことのない砂原さんだった。


 かわいい、と思う。こんな時なのに。


 麻衣には、あんな目をしたくせに。

 あの時のあの目が脳裏に浮かんで、胸がギリギリと痛んだ。


 でも大丈夫。砂原さんの頭の中は目の前のこの男のことでいっぱいだ。きっともう、あの時のことなんて覚えてもいないんだろう。良かったじゃないか。


「お幸せに」


 麻衣は心からそう言って、二人に背中を向けた。


これで、良かったのだ。麻衣は唇をかんだ。


 多様性の時代だとかなんだとか言われてはいるけれど、世界はそんなに簡単に変わらない。右と左、上と下、赤と白、男と女。美男美女。仕事のできる男と仕事のできる女。

 世界はそういうものなのだ。


 この程度の痛み、石ころにつまづいて転んですりむいたみたいなもん。唾でもつけておけばすぐに治って、そこにそんな傷があったことすら忘れてしまう。

 

 砂原さんは幸せそうだった。

 麻衣がミスをしても、前ほど嫌な顔もせず、「もう、しょうがないわね」と笑って許してくれた。こんなの砂原さんじゃない、と思う。自分にも他人にも仕事に厳しくて、ミスなんて絶対に認めない、それが経理部の砂原さんなのだ。ミスをしたら、ビシッと叱ってくれないと。砂原さんがこんな様子だから、麻衣は何度もつまらないミスを繰り返してしてしまう。だが砂原さんはそのたんびに「しょうがないわね」と笑って、麻衣のミスが増えたことにも気がついてくれない。


 だが一方で、どんなに幸せそうで気が緩んでいるように見えても、自分の仕事のクオリティだけは変わらず完璧なのだ。それがちょっと悔しい。そしてちょっと安心する。


 それなのに。

 それから1ヶ月も経ってはいなかったのに。

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