第13話 告白

 太田が砂原さんのことを…


 何となく、納得いかなかった。

 社内一番の人気者の彼が、どうしてよりによって、あんな堅物で愛想のない砂原さんのことを。だって砂原さんだぞ。あの経理部の砂原さん。社内の誰もが怖いと恐れている砂原さん。


 だが、そんな驚きに反して、お似合いの二人のような気もする。


 砂原さんは地味にしているから見過ごされがちだが、麻衣が気付いたところによると、かなり美人であるし。太田、よく気がついたな、とも思う。そういう目ざとさが営業成績No. 1という所にも結びつくのだろうか。


 そして、砂原さんも多分…。チクリと何かが胸を刺した。


 この間の態度から見て、砂原さんは太田のことが嫌いではない。普段なら決して手をつけない、甘いお菓子を口にしてしまうくらいには、かなり好きである。


 あの時のことを思い出すと、心の中にざらりとしたものが残る。


 そんな姿、見たくなかった。


 誰が何と言おうと、甘いものが嫌いなら嫌いで通して欲しかったし、あんな…その辺のみんなと同じように、みんなに人気のあるイケメン男子を好きになるなんて、そんなの砂原さんらしくない。砂原さんは砂原さんらしく、もっと…誰とも違う砂原さんであってほしい。


「杉谷さん?」


太田に、心配そうに覗き込まれて現実に引き戻された。


「えっ? ああ…。えっと。砂原さんに付き合ってる人がいるかって話でしたっけ」


「うん。杉谷さんなら仲良いから知ってるかなと思って」


別に、仲良くなんてない、あんな人。


「どこがいいんですか?あんな人」


 太田の目が、えっ?と言うように丸くなる。この反応は予想していなかったようだ。そんな所にも、太田の人の良さが出ているようでちょっと凹む。


「だって、砂原さんて、キツいじゃないですか。人付き合い悪いし、そっけないし」


「うーん、そうだなな」


太田は困ったように頭をかいた。


「一見キツいけど、その分うそがないっていうか。案外、優しいところもあるし」


 驚いた。チャラそうな見た目に反して、意外にもしっかり人のことを見ている。人のこと、というか砂原さんのことを。


 イラッとした。今社内で一番砂原さんの近くにいるはずの(指導担当と新入社員としてだけど)麻衣をさしおいて。こんなモテチャラ営業部員なんかが分かったような事を。


「砂原さんって、全然優しくなんかないですよ。いっつも細かいアラばっかり探して指摘して」


「それは…そういう仕事だからじゃないの?経理って」


 麻衣はぐっと息を飲み込んだ。


「自分の都合ばっかりで後輩のことなんか後回しだし」


「今日は悪かったよ。割り込んじゃったみたいで」


「そんなんじゃないんです。砂原さんは、私の出来が悪いのが気に入らないんです。だから私になんか関わりたくないんです。人のことなんかどうだっていいんです。そういう人なんです!だから太田さんも、もう一度考え直した方が…」


 その後の言葉は続けられなかった。背筋が凍りつく。


「どうしたの?」


 太田が不思議そうな顔をして、麻衣の視線の先をたどっていく。


 ふわりと、太田の顔がほころんだ。そして、困ったような、曖昧な表情になった。


「砂原さん!」


 いつからそこにいたのだろう。太田の後ろあたりに、トレーを手にした砂原さんが立っていた。


−聞かれた…絶対に聞かれた


 砂原さんは、太田に軽く会釈すると、そのまま店の奥の、空いている席へと進んでいった。麻衣の方は一度も見なかった。その後、太田が何か話していたが、全く覚えていない。


 しばらく経って、砂原さんは食事を終え、店を出ていく。麻衣も立ち上がった。


「太田さんすみません!これ!私の分も片付けお願いしていいですか!」

「え?あれ、ちょっと!!」


 まだたっぷりと残っているコーヒーのマグを手に、太田が戸惑った顔をしている。麻衣は構わずカバンをつかみ、店を飛び出した。


 すぐに追いかけたつもりだったが、外に出たとき、すでに砂原さんの姿は見当たらなかった。


「えー、どこ行った」


必死に目を走らせる。駅に向かう道の先にようやく砂原さんの姿を見つけた。ずいぶん先だ。仕事だけではなく、歩く速度も速い。


「待ってください!砂原さん!」


 周囲が振り返るくらいの大きな声を出して、ようやく砂原さんの歩みが止まる。迷惑そうに麻衣を振り返った。


「何?」


「…すみません。さっき、聞こえました?」


「何が?」


鋭い口調に麻衣は怯んだ。


「何がって言うか…」


 決死の覚悟を決めて追いかけてきたはずなのに、砂原さんを前にしどろもどろになる。


「ごめんね、気が付かなくて」


 砂原さんは淡々とした口調で言う。


「そんなに嫌われてるとは知らなかった。嫌な先輩でごめんね」


それだけ言うと、砂原さんは再び前を向き、歩き始めた。


「違うんです!そうじゃなくて!!」


 麻衣は思わず、砂原さんの腕を強くつかんで引き留めた。


「そうじゃなくて、何?」


 砂原さんは立ち止まった。そうして初めて麻衣の方を見た。


 その視線に射すくめられて、麻衣は動けなくなった。


 ああ、自分はこの人を傷つけたのだ。


 自分なんかが砂原さんを傷つけることが出来るのだ。


 初めてそのことを知ったような気がして、麻衣は戸惑っていた。


 立ち止まった麻衣を置いて、砂原さんは前へ前へと進んでいく。それまで思っていたよりずっと小さくて、淋しげなその背中の上に、急に何かが見えた。

今までも多分見えていたのに、見ようとしないできたものが。


 ああ、そうか。そうだったのか。


 それはすとん、と心の中に落ちてきて、麻衣は覚悟を決めざるを得なかった。


 ひとつ息を吸い込み、麻衣はもう一度その背中を追いかけた。


「砂原さん!」


「何?今度は」


今度も立ち止まらないまま、砂原さんは答えた。


「何っていうか…。そうじゃなくて、私は…」


 もう一度息を吸い込み、一気に言ってのけた。


「私は多分、好きなんです、砂原さんのことが」


 砂原さんより先に、周りを歩いていた通行人の何人かが、ギョッとした目で麻衣の方を見た。だが、そんなことに構ってはいられない。ずっともやもやしていて、つかみどころがなかったものの正体がようやくわかったような気がしていた。自分の口から勝手にほとばしりでた言葉に、自分自身が教えられる。


 そうだ、自分はこの人のことが好きなのだ。


 世界が急に、光に満ちて見えた。


 最初、砂原さんは、麻衣の発した言葉の意味がわかっていないようだった。

きょとんとした顔で麻衣の方を見る。そのうち、厚い布に徐々に水が染み込んで行くように、ゆっくりと麻衣の言葉を理解したようだった。砂原さんの表情が変化する。驚愕の表情で目を見開き、麻衣の目を見つめたまま、数歩後ずさった。意図せず蹴飛ばされた路上の空き缶が、カランと空虚な音を立てて飛んでいく。


 砂原さんは怯えていた。


「違うんです、そうじゃなくて!」


 思わず、麻衣は叫んでいた。さっきも言ったなこのセリフ、とぼんやり考える。

さっきは必死で、砂原さんの手をつかんで。今回は、両手を空に向かってバカみたいに振り回しながら。


「好きっていうのは、そういう意味じゃなくて…。先輩として、すごく尊敬してるんです。私、砂原さんみたいに仕事できるようになりたくて。なのに全然ダメで。ミスばっかりしてる自分が不甲斐なくて。だからつい、八つ当たりしたんです。砂原さんが言ってたみたいに…嫌ってるんじゃなくて…むしろ好きだから…好きってのは、そういう意味です!!」


そう言うしかなかった。


「ああ、そういうこと」


 砂原さんが、明らかにホッとした顔をする。この場を収められてよかったと思うのと同時に、砂原さんのその表情に傷ついている自分を実感する。自分は言い訳ばっかりだ。仕事は全然できないくせに、言い訳ばっかり天才的。そんな自分を情けないと思う。


 だけど…。さっきの砂原さんの顔を見たら、本当のことなんて、言えるわけがなかった。


あの目。


恐怖と嫌悪に満ちた、あの目。

素手では絶対触れない気持ち悪い虫を、自分の布団の中に見つけてしまったような…


その目を通して、麻衣は自分自身の姿を見た。


自分は、虫みたいなものだ。

決して人の目に止まってはならない、汚らしい異物。


女の子なのに女の子を好きなんて変。

いくら世間が多様性を訴えたとしても、自分と違う人間を差別してはいけませんと教わっても、それが正しいのは自分と関係のない世界でのことだけだ。


だってそうだろう、麻衣自身が、自分の中に初めて見つけた知らない自分に対して、戸惑いと恐怖を感じているのだから。他の人がそう感じるのは、至極当たり前のこと。


氷のナイフを全身に突き立てられたように傷つきながらも

麻衣は、この場をなんとか取り繕うことの出来た自分を、珍しくほめてやりたいと思った。


自分はまだ、この場で生きていくことを許された。ただし、今後絶対に自分の気持ちを誰にもバレさせずにいる限りで。


「そういうことなんで。頑張って仕事覚えますので。見捨てずに、これからもどうぞよろしくご指導下さい!」


無邪気な子供のように元気に言って、ぴょこりと頭を下げた。


「失礼します!」


そのまま踵を返す。砂原さんの顔はとても見られなかった。

さっき世界に満ちたはずの光が、闇に変わっていた。


どれくらい歩いたのだろう。麻衣は気がつくと、知らない街に立っていた。


そんなに遠くまで来たはずはない。だが、普段、会社と駅と、せいぜいその周辺しか歩かないから、ほんの少しいつものルートを逸れると、すぐに自分の立ち位置がわからなくなる。


既に完全な夜になっていて、街灯の灯りがにじんでお化けみたいに広がって見える。


どうしてだろうと思ったら、涙のせいだった。


自分が泣いていることに、その時初めて気がついた。道理でさっきから道ゆく人がずっと自分を避けていたはずだ。相当あぶない人になっていただろう。


自分が間抜けすぎて笑えてきた。自分の気持ちにさえ気が付かないで。やっと気がついたと思ったら、その瞬間に失恋していたとは。


さっきの砂原さんの目がよみがえる。自分はこの目を一生忘れることはできないだろう。


この目がよみがえるたんびに、自分の中の何かが削り取られていく。


この思いは封印しなくてはならない。砂原さんはもちろん、他の誰にも知られないように、押し殺して、押し殺して…


大丈夫。この気持ちが、知らないうちにいつの間にか育っていったように、いつの間にかまた消えてなくなってくれるはず。大丈夫、大丈夫。涙が止まらないのは、今だけだから。

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