第11話 砂原さんは何も言わなかった

「こんにちはー」


 大きな声が響く。見ると、入り口のところに、太田が立っていた。まだ昼休みも終わっていないのに。


 睨みつけるように見ると、太田は困ったように眉根を寄せ、おもねるような表情でこちら、いや砂原さんを見ている。その表情がわざとらしく見えてしまうのは自分の性格が曲がっているからだろうか。


 営業部員が経理を訪れるのは経費精算の時と相場が決まっている。だが、手には精算に必要な領収書らしきものを持っていない。なんだか嫌な予感がした。


「何ですか?」


 下っ端として、まずは自分が承ろうと麻衣が立ち上がりかける。だがそれより早く砂原さんが太田の方に歩み寄っていった。


「何の御用でしょう?」


「えーと、実はですね。来月のフェアに使う販促物の支払いを、前倒しで急きょ、明日支払わなきゃいけなくなっちゃって」


「明日ですか!?」


「すみません!!本っ当に申し訳ないんですが、何とかなりませんか?」


 すまなさそうに砂原さんを見上げる。自分がこういう表情をすると相手が甘くなるのをよく知っている、あざとい仕草だ。下手に出ているフリをしながら、自分の要求が拒否されるとは思っていない、傲慢な態度だ。騙されちゃいけない。

麻衣の思いが通じているのかいないのか、砂原さんは真剣な顔で少し考えていたが、覚悟を決めたように息を吸い込んだ。


「それは、どうしても必要なんですね?」

「はい」

「わかりました。今から急いで決済を取りましょう。詳細を教えてもらえますか」

「はい。内容は、えーと、書類なんかも一式、営業部の方に…。今から持ってきます」

「いえ、私が行って直接確認しましょう。その方が早いです」

「わかりました。お願いします」


 砂原さんは席に戻ると、書類や電卓などをまとめながら、ようやく麻衣の方を向いた。


「ごめんね。続きは後で戻ってきてから教えるから」


「続きっていうか、まだ始めてもいないですけど」


 自分でも思った以上に強い声を出てしまい、麻衣は自分でたじろいだ。


「だから、こっちは大丈夫なんで、お気になさらず行ってきてください。急ぎなんですよね」


 誰にフォローしているのかよくわからないが、その場を取り繕って麻衣は笑顔を浮かべる。


「うん、じゃ、ちょっと行ってくるね」


 砂原さんはもとより麻衣の態度など気にすることもなく、太田と連れ立ってさっさと経理室を出て行った。

 麻衣の方を振り返りすらしなかった。


「…なにあれ」


 思わず声に出ていた。


 わかっている。緊急の仕事があれば当然そちらを優先すべきで、麻衣が腹を立てる筋合いはどこにもない。だが…。


 麻衣は自分でもどうしてこんなに割り切れない気持ちでいるのかわからない。

椅子の背にもたれたまま上を見る。はあ、と息を吐いたらするりと言葉が出た。


「楽しみにしてたのにな」


 そうだ。自分は楽しみにしていたのだ。砂原さんの隣で新しいことを学んで、砂原さんに少しでも近づけることを。


 それなのに。


 砂原さんはそんな麻衣の気持ちなど、全く考えてくれなかった。


 太田の用事が至急ならば、そっちを優先するのは仕方がない。だがその間、砂原さんは麻衣に、太田の用事を優先していいかと一度も聞いてくれなかった。それどころか、太田が訪れてきてから砂原さんは麻衣の方を見てさえくれなかった。砂原さんの視線はずっと…。


 心の中がもやっとする。砂原さんにとって麻衣などどうでもいい存在なのだ。そのことが、麻衣の気持ちを落ち着かなくさせている。


 麻衣は引き出しを開け、2枚のチケットを取り出した。細長い小さな紙片に、必要最低限の事だけが印刷された、文具博のチケット。さっきは、あんなにきらきらして見えたのに。


「なーにやってんだろ、私」


 わくわくしていた気持ちが、急速にしぼんでいく。



 1時間ほどして、砂原さんは戻ってきた。


「ごめんね、この稟議だけ上げちゃってから、さっきの続きやるから」


「お構いなく。こっちは全然重要じゃない仕事ですから。そっちの大事なお仕事の方に専念してください」


 また嫌な言い方になってしまったと気がついていたが、自分ではもうどうしようもない。


 腹が立って仕方がなかった。それが麻衣を軽んじる砂原さんについてなのか、それとも、軽んじられる程度の価値しかない自分に対してなのかはわからない。それとももっと別のことに心を揺すぶられているのか。自分で、自分の気持ちが全くつかめなかった。


 稟議を書き終えた後も、砂原さんの元には立て続けに仕事が入った。工場から連絡が入って、先月の原価の表をもう一度確認することになったり、備品の購入の数量と単価が最初聞いたのと違っていて、総務に確認に行ったり。砂原さんは会社中で引っ張りだこなのだ。結局その日は続きを教えてもらえるどころの騒ぎではないまま、終業時間を迎えた。


「ごめんね、明日続き教えるから」


「気にしないでください。私も今日やることたくさんあったんで」


 言葉ヅラだけ見れば殊勝にも見えるが、実際の景色はそうでもなかった。話しかけられているというのに、麻衣は砂原さんの顔を見ようともせず、作業の手も止めないまま。控え目に言って、かなり感じが悪い後輩だ。


 急に、肩を強く引かれた。


「人が話してる時は、ちゃんとその人の方を見て」


 砂原さんと正面から目が合う。砂原さんらしくない行動に、たじろいだ。

強い口調とは裏腹に、砂原さんの目は悲しげだった。自分が何かひどいことをしてしまったようで、心がキリキリとした。


「言いたいことがあるなら、ちゃんと言って」


 言いたいこと? 私の言いたいことって、なんだっけ。


 その時、終業を知らせるチャイムが鳴った。


「すみません。お先に失礼します」


 どうしたらいいのかわからなくて、逃げるように麻衣は立ち上がった。そそくさと立ち上がる麻衣に、砂原さんは何も言わなかった。

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