第10話 なんて素敵なワード

「うん、これで大丈夫。課長のところにまわしておいて」


 イベントから数日後の経理室。新商品も無事発売され、経理も応援の業務から解放されて落ち着きを取り戻していた。


 砂原さんは、書類のすみに自分の印鑑を押すと、バインダーにまとめられた書類を麻衣に返した。


 ミスなく、ちゃんとできていたということだ。よし!


 窓の外で、鳥が楽しげにぴいと鳴いた。


「ありがとうございます!」


 ああ、そうだ、と砂原さんは思い出したように言った。


「杉谷さんもだいぶ慣れてきたみたいだから、そろそろ決算の仕事とかも教えようか」


「本当ですか?」


 思わず声が弾んだ。

 経理部に配属されてもうすぐ半年になる。最初の頃、あまりにミスが多くて、本当にここで使いものになるのだろうかと絶望に空を仰いだものだが、最近ようやく、猫の手くらいには使えそうだというささやかな希望が見え始めた。


「じゃあ、今日の午後からやろうか。午後何か他に仕事入ってる?」


「いえ、全然大丈夫です!お願いします!」


 決算処理。麻衣のほおがムフフと緩む。実はちょっと憧れていた。

 新入社員として経理部に配属された4月、5月のはじめ頃はそれこそ決算処理も佳境で、経理部は殺気立っていた。

 当然、新人の面倒など誰も見てくれる余裕もなく、麻衣はわけもわからず段ボール運びやら買い出しやらの雑用ばかりさせられていたわけだが。


 バリバリ働く先輩たちの姿に、学生とは違う、社会人としての真剣さを見せつけられて、よくわからないけど感動した。「これが給料をもらって働くということか」と思った。バリバリ働く、なんて今どきの時流には合わないのかもしれないが。そんな姿にときめく自分は案外昔気質の人間であるらしい。


 いや、それよりも。


 その時の研ぎ澄まされて凛とした砂原さんの佇まいがかっこいいと思った。その印象が無意識の中に強く刻みこまれているのかもしれない。


 とにかく、自分はそんな社会の一員、いや、会社の一員としてバリバリ働くことに憧れていた。実際その中に入って働いてみると、自分があまりにポンコツであることに初めて気がついて、びっくりしたり、凹んだりもしたわけだが…。驚いたことに、麻衣は社会に出るまで、自分がそこまでポンコツであることに気がつきもしなかったのだ。学校の勉強は普通にできていたし、日常生活の中でも特に問題はなかった。だが、社会に出ての仕事、というのはそういうこととはまた違うらしい。社会人として、いや経理部員としてのスタートにたった麻衣は、ミスとダメ出しの嵐にあっという間に吹き飛ばされ、地の底まで届くんじゃないかと思うくらい凹みまくった。


 だが、凹んでばかりいても仕方がない。少しでも自分に出来ることをしようと、麻衣は先月から簿記の勉強を始めた。まだ最初の方だけれど、それでも、やみくもに歩いていた知らない土地で地図を与えられたみたいに、急に視界がひらけてきて驚いた。そうか、経理の世界で飛び交っていた暗号文の解読法はここに書いてあったのか。麻衣はようやくみんなと交わせる言葉を得られたようでわくわくした。


 そして、とうとう決算! なんて経理部員っぽいワード!


 自分もようやくこの仕事の一端を担うことができるようになるのだ。真の経理部員になることが出来るのだ!砂原さんにも、ほんの少しだが近づくことが出来る…かもしれない。


 ランチのあと、もう一軒お茶をしていこうという絵里香の誘いを断って、コンビニに寄った。


「チケットはこちらでお間違いないですか」


 示された2枚のチケットには、「文具博」の文字がある。


 先日のポスターには業者向けとあったが、諦めきれずにネットで探してみたら、限定販売で一般の申し込みも受け付けていることがわかった。同類の人間も案外いるらしく、残り枚数は僅かだったが、すぐに申し込んで、2枚をゲットした。


「ふふっ」


 これを見せたら、砂原さんは何と言うだろう。想像したら変な笑みがこぼれてしまった。店員さんに怪しく思われたような気がして、慌てて顔を引き締める。


 経理室では砂原さんがすでにパソコンに向かって何か作業を始めていた。麻衣の姿を認め、ふっと表情が緩む。あの日イベントの手伝いに駆り出されて以降、砂原さんの麻衣への態度が柔らかくなったような気がする。仕事で認められるのはまだまだだけれど、今はそんな些細なことも嬉しい。砂原さんは作業の手を止め、麻衣の方を向いた。


「まだ、午後が始まるまで時間があるけど。杉原さんが準備できてるならもう始めちゃおうか?」


「はい!始めちゃいましょう!」


 勢い込んで答えると、砂原さんはくすっと笑った。麻衣は荷物をそのまま机の下に放り込むと、いそいそとパソコンを立ち上げた。


「それじゃあ、まずこのソフトを開いて…」


 砂原さんが麻衣の傍らに立ち、パソコンの画面を示す。ふわりといい匂いがした。

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