第9話 信じられない出来事

「お疲れさまでーす。試供品の追加持ってきました」


 世界に再び音を持ち込んだのは、明るい男性の声だった。


 いきなり現実に引き戻される。麻衣は男の顔を見た。

 太田俊哉。

 営業部の中心的存在で、年次は確か、砂原さんの一つか二つ上だったと思う。


 なんだよ。麻衣は突然乱入してきた邪魔者を睨んだ。


 邪魔者は、爽やかすぎる笑顔でその視線をいとも簡単に跳ね返し、(気付いていないという説も)麻衣と砂原さんに会釈すると、段ボールを乗せた台車を押して会場の中へと入っていく。その段ボールを、いくつかに分かれて作業をしているグループごとに配っていった。


 疲れの見えていた社員やバイトの女性たちのテンションが、明らかに一段階上がった。

                                     これだからイケメンは嫌である。


 俳優かモデルだと言っても信じてしまいそうなくらい整った顔立ちと、明るく人懐っこい性格から、彼は社内でも人気がある。さっきより半オクターブほど高くなった女性たちのはしゃいだ声に囲まれながら、あちこちに段ボールを運んでいる太田の白いシャツが眩しい。


「太田さん、人気ありますね。まあ、かっこいいですもんね」

 

 悔しいけど(何が?)、客観的にそれは認めざるを得ない。


「そうね」


 砂原さんは関心なさそうに答えた。そうだろうなあと麻衣はほっとした。

砂原さんは社内のゴシップめいたことに興味がない。と言うよりも他人に基本、興味がない。


 麻衣に対しても、自分が仕事を教えている同じ職場の後輩、という以上の関心はないだろう。


 太田が、会場を出てこちらに向かって進んできた。麻衣はおもわず後ずさる。


「こっちは一箱でいいですか?」


「あ、いえ、こっちでは配ってないので。呼び込みだけなんです。チラシだけください」


 焦った声になってしまった。いや、別に動揺しているわけではない。経理部ではイケメンを見る機会がないから(課長、田辺さん、梅原さん、ごめんなさい)若干反応に困っただけである。太田の方は、そんな反応にまで慣れた様子で、そんなところも微妙に腹が立つ。


「あ、これ、どうぞ。お客さんからのいただきものなんですが」


こちらがチラシの束を受け取り、台の上に置いたタイミングを見計らって太田が差し出したのは、有名な洋菓子店の焼き菓子だった。

何時間も並ばないと買えないという人気のお店だ。


「数がちょっと足りないんで、お二人にだけ。中の人たちには内緒ですよ」


「ありがとうございます!」


 現金なもので、それまでのモヤモヤした感情が一気に吹き飛んだ。スイーツ万歳!早速小袋を開け、口に含むと、芳醇なバターの香りと微かな塩味がした。


「美味しい!」


太田はにっこりと笑うと、隣の砂原さんにも菓子を差し出した。


「砂原さんもどうぞ」


 ああ、気の毒に。麻衣は心の中でため息をついた。

 砂原さんは甘いものがダメだから、お土産の類も断るのは仕方がない。だけど、断り方というのもあると思うのだ。砂原さんはいつも、愛想のかけらもなくそっけなく…


「いただきます」


 え? 麻衣は自分の目と耳を疑った。


 砂原さんは、差し出された焼き菓子を受け取っただけでなく、その場で菓子を一口口に含み、「美味しいです」とまで口にしたのだ。


 麻衣はいつの間にか自分がパラレルワールドにワープしてしまったのではないかという気分で、砂原さんの顔をまじまじと見た。


「そうですか、よかったです」


 太田は愛想よく砂原さんと麻衣に笑いかけると、そのまま戻っていった。砂原さんはいつもの無愛想な表情のまま、ぼんやりと太田の後ろ姿を追っている。


 それも一瞬のことで、砂原さんはすぐにテキパキと次の仕事の準備にかかった。その様子はいつもの砂原さんとなにも変わることはない。


「…別に、なんでもない、か」


 多分、さっき事の後だからだ。嫌いな甘いものでも食べてみなければと思ったに違いない。


 それだけだ。それ以上の意味はない。


 麻衣はそう自分を納得させた。だけど、何だろう、この違和感は。


 こぼしてしまった砂糖の粒を、全部拭いとることはできないみたいに、麻衣の心の中には何かざらりとしたものが残っていた。

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