第8話 本当はね

「砂原さんて、どうしてうちの会社に入ったんですか?」


 いつもならとても聞けない質問だが、勢いで聞けてしまった。


「甘いものダメで製菓会社ってありえなくないですか?」


「社員が、その会社の製品を好きで入ってるとは限らないでしょ。女性ものの下着メーカーの男性社員はみんな下着好きなわけ?」


砂原さんは眉間にしわを寄せながら答えた。


「ちがうんですか?」


好きなんじゃないかな、きっと。好きにも色々あるだろうけれど。

少なくとも、嫌いな人は入らないんじゃないだろうか。


「かなわないわ、杉谷さんには」


やれやれ、と砂原さんは首を振った。


「大松製菓は歴史のある国民的なメーカーだから、経営基盤は安定してる。業績も良くて、見通しも明るいし。訪問した時の雰囲気も悪くなかった。忙しすぎなくて、給料や福利厚生も良かったから。商品愛や愛社精神は特にないけど、それって必要なもの?」


「…そんなもんですかね」


 職場環境や労働条件が大事であることはもちろんだ。だが、会社、製品もそれなりに大事なものじゃないだろうか。ていうか、嫌いなものばっかり扱っている会社で働いても楽しくないと思う。麻衣にはやっぱりよくわからない。


「そんなもんよ。さ、仕事に戻りましょう」


 話はこれでおしまい、とばかりに砂原さんは、アンケートの回収箱やチラシが置いてある作業台の方を振り返った。


「あれ?」


 当惑した様子で台の上を探っている。


「どうしました?」


「私のペン…ここに、アンケート用紙と一緒に置いておいておいたんだけど」


探す間でもなく、ガランとした台の上には未記入のアンケート用紙の束があるだけ。明らかにペンはそこには置いていない。


「ポケットに差してあったりとかしません?向こうの書類に混じってるとか。それとか、…実は手に持ってたりとか?」


「ないわよ。あなたじゃないんだから」


「すみません」


確かにその通りだ。麻衣は反省した。


「誰か間違って持っていっちゃったのね。…まあ、いいわ。ペンぐらい」


「良くないですよ!」


 予想外に大きな声が出てしまった。砂原さんも驚いた様子で麻衣を見ている。気恥ずかしさを誤魔化すようにコホンと咳をした。


「だってあのペン、砂原さんが大事にしてるやつじゃないですか!いつもあれ使ってるし、しまう時もちゃんとペンケースに入れて」


 砂原さんが怪訝そうな顔をする。どうしてそんなことを知っているのか、という顔だ。


「それにあれ『ハーバーラス』の去年の限定色でしょう?今はもう買えないじゃないですか」


「よく知ってるわね、そんなこと」


砂原さんがいよいよ目を丸くする。


「まさか、あなた…」


麻衣は息を吸いこんだ。とうとうこの時が来た。


『ハーバーラス』は文具好きには知られた高級文具メーカーだが、一般には殆ど知られていない。


「ええ。私は文具マニアです。と言っても、見る専門ですけど。ハーバーラスのペンなんて、とても手が出ませんけど。だから、いいなと思っていつも見てました。ペンだけじゃなくて、ノートも、電卓も、会社の支給もあるのに、砂原さんのは全部自前の、素敵なの使ってますよね」


「気がついてる人がいるとは思わなかった」


「そういうわけで、探しましょう!」


 砂原さんが答えるより先に、麻衣は駆け出していた。


「すみません、この辺で、ボールペン見ませんでした?ボディが白で、高級感あって素敵なやつなんですけど!」


 出会う人一人一人に声をかけ、砂原さんのペンが紛れていないか確認してもらう。だが、なかなか見つからない。


 ふと、壁に貼ってある一枚のポスターが目に入った。


―これ、砂原さんも見たかな。


―いやいや、今はこっちが先だ。


 麻衣は会場に置いてある書類や箱も片っ端から見て回った。       

 アンケート箱の中に、何か光を受けて輝くものがあった。


「これ!」


 慌てて手を突っ込み、取り出した。


「なんだ…」


 確かにボールペンではあったが、砂原さんのハーバーラス製のとは似ても似つかない、会社支給の安物のペンだった。


 がっくりと肩を落としていると、後ろから声をかけられた。


「もしかして、探してるの、これ?」


 振り向くと、差し出されているのはあの、見覚えのある、美しいペンだった。


「向こうのアンケート箱の中に紛れてたんだけど」

「ありがとうございます!」


 麻衣は、あふれる笑顔でそれを受け取った。


 戻ると、砂原さんは、ぼんやりとベンチに座っていた。

麻衣が走ってくるのを見て、立ち上がる。


「はい、これ!あっちのアンケート箱の中に紛れてました!」


 そう言って麻衣はペンを差し出した。真っ白なボディが太陽の光を受けてきらりと光った。


 砂原さんの目も、一緒にきらりと光ったように見えたのは気のせいだろうか。


「ありがとう」


 砂原さんは大切そうにそれを受け取った。


「ペンくらい」なんて、やっぱりただの強がりだった。砂原さんの目は、長旅から帰ってきた我が子を迎えるくらい優しい目をしていた。


「良かったです」


 この顔を見られただけでも、頑張って見つけてきた甲斐があったと思う。


 同じ文具好きの同志として、あの砂原さんと、共犯意識めいたものが育ち始めていた。


「そう言えば、今日のイベントのあの会場、次、何のイベントが開かれるか、知ってます?」


「知ってる」


 だろうと思った。会場に貼ってあった告知のポスターは小さなものだったが、砂原さんなら、気がつかないはずはない。


「文具博」


 砂原さんと麻衣の声が揃う。砂原さんが、少し気まずそうな顔をする。そんな所が何だか砂原さんらしいなと麻衣は思った。


「行ってみたくないですか?」


一見無表情な砂原さんの顔が、一瞬きらりと光を放つ。


「行ってみたいけど…でも、業者向けでしょ?一般の人は入れないんじゃないの?」


「えっ…。そうなんですか?」


「うん。そう書いてあったよ」


 麻衣はがっくりと肩を落とした。文具博の文字に浮かれて、その注意書きは全く見ていなかった。いつも注意される確認の甘さがこんな所にも出てしまう。


 逆か。こんなところでも抜かりのない砂原さんがさすがなのか。


「本当はね」


 砂原さんの声が、不意にトーンを変えた。


「私、文具メーカーが第一志望だったの。でも、受からなかった。他の会社は全部受かったのに」


 砂原さんの目は歩道で葉っぱを揺らしている街路樹を越えて、もっと遠いどこかを見ていた。

 その様子が、何だかひどく寂しそうでどきりとした。


―ちょっと待って。なに、これ。


「でもね、大松製菓が不満ってわけじゃないのよ。甘いものは得意じゃないし、愛社精神とか、そういうものもキャラじゃないけど。客観的に見ても、主観的に見ても大松はとてもいい会社だと思ってる。大松のお菓子が、どこかの誰かをある瞬間、ほんの少しだけ元気にさせることがあるってのも知ってるし」


 砂原さんは、かみしめるようにそう言うと、麻衣の方を見た。意志のある目と、きゅっと結んだ形のいい唇がこっちを見ている。


 やばい、と麻衣は思った。何がやばいのかはわからないけど。


 心臓が、さっきから川の始まりの、急流の渓谷に流れる葉っぱみたいな速さで走っている。


 世界から、その他の音が消えてなくなったような気がした。

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