第4話 ギリギリの才能

 直しを提出した後、次の仕事に取り掛かる。今は忙しくない時期とはいえ、毎日のルーティーンのような仕事が結構ある。片付けても片付けても次の仕事が出てくる様子は、この前掃除機をかけたのにもうホコリが積もっている自分の部屋を思い起こさせる。会社って生きているんだなあ、と変なことを思った。


 今、麻衣がやっているのは、給与関係の仕事である。昨日までに入力はほぼ終えてある。あとは最終確認をして、人事に送ればいいだけである


ーはずだったのだが。


うーわー。


麻衣は頭を抱えた。


ここにきて、また間違いを見つけてしまった。

しかも、このミスを訂正すると、経理だけでなく、総務と人事の書類も全部直してもらわないといけなくなる。


―またあなたなの? 


―またお前か


 総務と人事の担当者の嫌そうな顔が浮かぶ。

 そして、それを伝えなければいけない、砂原さんのあきれた顔も。


−どうしよう。さっきも怒られたばかりなのに。集中力が足りないと言われたばっかりなのに。


―なかったことにできないだろうか。この程度のミス。大したことじゃない。しかも、残業手当を少しだけ増やす方向に間違っているのだから、この対象の人は少し得をするんだし、他の誰が困るわけでもない。


 頭の中で悪魔がささやく。抗いがたい、魅力的な囁きだった。


 ええい、考えても仕方がない。麻衣はお腹に力をこめた。もうどうにでもなれ!


「砂原さん、すみません」


「何?」


「すみません、また間違えました」


「また?」


はい、また、です。

さすが砂原さん。たった二文字で、なんて的確に痛いところを抉ってくるんだろう。


「はい…」


 自分でも自分の声がほとんど聞こえない。


 砂原さんが眉をひそめる。いたたまれなさで逃げ出したくなる。でも堪えるしかない。自分がやってしまったことだ。


「人事と総務にも修正お願いしなくちゃいけなくて…」


「じゃあお願いしてきて」


「はい。行ってきます。すみませんでした」


自分は一体、どれだけ謝ってばかりいるのだろう。


「まったく…」


 砂原さんは心の底から呆れたというように、やれやれと首を振った。


「まあ、だけど」


てっきりまた怒られるのだと身構える麻衣に、砂原さんは意外なことを口にした。


「自分のミスをきちんと申告するのは、あなたのいい所だよね」


「え?」


麻衣は目をパチクリとさせた。


「それは…当然のことでは?」


さっき悪魔の誘惑に、ほとんど屈しそうになっていたことなど、まるでなかったかのように麻衣は答えた。


「意外といるのよ。間違いを間違いと認められない人って。指摘されて怒られるのを過度に怖がって間違いを隠そうとしたり」


冷や汗が流れる。


「そして、大きなミスを誰にも言えずに抱え込んじゃって、後から大変なことになるの」


「はあ」


「そういう人って、言ってもなかなか直らないの。その人が元々持ってる性分みたいなものがあるんでしょうね。間違ったことはちゃんと認めて、困ったときに人に助けてって言えるのも一つの能力よ。出来ない人もいるから」


「はい…」


「そういう意味ではあなたはいい素質を持ってるのよ」


「…はい?」


ぽんと麻衣の肩を叩いて砂原さんは去っていった。


―もしかして、ほめられた?私。


 砂原さんが触れた肩が、じんわりと熱を持つ。麻衣の心の中にポンっと小さな喜びが生まれる。


 砂原さんは、むやみに人を褒めることをしない。その場しのぎや雰囲気で適当なことは言わない。だから…こんな些細なことだけれど、砂原さんが誉めたのは本心からのことだ。


 喜びがじわじわと大きくなっていく。

 

―やばい。嬉しい。


 何、こんなことで。


 緩んだほおをもとに戻すべく、麻衣はぱんぱんと自分の頬を叩いた。

いかんいかん、何を手なずけられているんだ、自分!!


 せっかくなので、その勢いのまま総務と人事に直行し、自分のミスを謝罪し、訂正を依頼した。どちらの担当者も特段嫌な顔をすることもなく、事務的に受け取って処理してくれた。


 なんだ、悩む必要なかったじゃん。


 気負い込んで行った麻衣の方がむしろ拍子抜けしてしまった。


 憂いがなくなったところで改めて書類の残りを仕上げにかかる。自分が間違いがちなポイントはなんとなくわかったので、今度こそ間違いや見落としがないように。遅れてしまった分が少しでも取り返せるように、なるべく早く見やすく、丁寧に。


「確認お願いします」


 再提出した書類を砂原さんがチェックするのを、麻衣はドキドキしながら見守っていた。


「はい、OK、ご苦労さま」


 今度は大丈夫だったらしい。ほっと力が抜ける。


 砂原さんの返事はいつものように愛想ない。だが、その口調に以前より親しみを感じるように思うのは気のせいだろうか。


 いや、多分気のせいではない。一見、いつも同じように見える砂原さんの、微妙な違いが、最近わかるようになってきた。


「そうしたら、この請求書、FAXしておいてくれる?」


 砂原さんが数枚の書類を取り出して麻衣に手渡す。


「FAXですか?今どき?」


「お客さまの中にはいらっしゃるのよ。少しだけど。メールとか苦手だから、FAXで送って欲しいってところが。うちの取引先には個人経営の商店も多いから」


「わかりました」


「番号、くれぐれも間違えないでね。違うところに送ったら大変なことになっちゃうから」


「はい」


「同じケアレスミスでも、許されるミスと許されないミスがあるの」


いつになく真剣な目で砂原さんは麻衣を見つめた。


「信じていいわね」


試されていると思った。


「信じてください」


 声に、力を込めた。たかだか請求書の発送に、大役を任されたような気分になる。麻衣は細心の注意を払ってその任務をやり終えた。何度も番号と内容を確認した。


さすがの麻衣でも、間違いなどあろうはずがなかった。


―10分後。


 総務の佐々木が、数枚の書類を手に経理部へと入ってきた。


 麻衣がさっきのミスの訂正を依頼した相手である。なんだろう。さっきの訂正はあれで済んだはずだが、まだ何かあっただろうか。イヤな予感に、腹がじくじくする。


「これ送ったの、経理?」


 その手の中にあるものを見て、麻衣の頭の中は真っ白になった。それは…間違いなくさっき麻衣がお客さま宛に送った請求書である


「うちの代表番号に送られてきたFAXは、総務のFAXに届くようになってるから」



 なんのことはない。お客さまの所に送るべき書類を、自分の会社にあてて送ってしまったのである。


「…番号はちゃんと確認したんですけど…」


弁解の声も小さくなる。


「番号はちゃんと合ってるわよ」


 いつの間にか砂原さんの手にあるFAX原稿には、相手の番号と並んで、発信元であるわが大松製菓のFAX番号が書いてある。間違えて、相手の番号ではなく自社の番号をダイヤルしてしまったのだ。


「FAXって自分の番号にかけても届くのねえ。初めて知ったわ」


 砂原さんが感心したように言うのを聞いて、顔から火が出そうになる。


「ギリギリ、『許されるミス』かな」


「すみません!」


「ここまでギリッギリ許される範囲にミスをねじ込んでこれるなんて。ここまで来るとある意味才能だわね」


嫌味ではなく、本当に感心している口調だった。


「…そんな才能、欲しくないです」

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