第3話 妖精?妖怪?
経理室に戻ると砂原さんはすでにパソコンに向かい、何かを打ち込んでいた。
時計を確認する。大丈夫。午後の始業までにはまだ時間がある。麻衣が遅れてきたわけではない。
オフィス街には珍しく、ランチをとる店には恵まれた環境にあることもあり、昼は外食派の人間が大多数だ。だが、砂原さんは毎日、自分で作ったお弁当を持参して、席で一人で食べている。
砂原さんは、同期もいないし、社内で仲のいい人間はいない…多分。誰かと仕事抜きで親しそうにしているのを一度も見たことがない。
「新しくオープンしたイタリアンのお店に言って来たんです。ほら、ケータイショップの向かいにある」
いつもならしないのに、今日に限って砂原さんに話しかけようと思ったのが、どうしてなのかはわからない。他の経理部員がまだ戻って来ていなくて、二人きりでいるのが、何となく気まずかったからというだけかもしれない。
砂原さんは麻衣の声に反応して顔を上げた。なぜか焦った気持ちになって、早口で続けた。
「すっごい良かったですよ!パスタも美味しかったし。あとデザートのケーキが侮れなくて」
「そうなんだ」
砂原さんは興味なさそうに答えると、すぐにパソコンの画面に戻っていった。再び沈黙が流れる。
話題の選択を誤ったな、と麻衣は思う。砂原さんは、甘いものがダメなだけでなく、多分、食べることそのものに興味がない。一日の半分くらいは食べ物のことを考えている麻衣にはとても想像もつかない。だったら何に興味があるのか。何の話題を選択すれば正解だったのか。麻衣にはさっぱりわからない。
「やりにくいなあ」
口の中でつぶやいたつもりだったのに、砂原さんが麻衣の方を見る。
やばい、また聞かれたか。いや、また、ではない。以前のは心の中の声だけだったはず。
麻衣は背筋を伸ばした。
「さっき直してもらったこの書類なんだけど」
「…あ!」
「どうしたの?」
「いえ、何でもないです」
これ、砂原さんが使ってるの、「ハーバーラス」のボールペンですよね!
…と、すごく気になった事柄は飲み込んだ。イタリアの有名な高級万年筆のブランドで、その美しい色合いとか、職人さんの手作りの、部品の繊細な感じとか、もう、いくら見てても飽きないくらい大好きなんだけど、ペンだけで何万もして、麻衣にはとても手が出せない、そんなボールペンを、砂原さんは使っているんですよね!しかもそれ!去年の限定色ですよね!私もすっごい欲しくて、お店に何回も通ってその姿だけ見てため息ついてました!なんて麻衣の立場でとても気安く話しかけられるわけがない。
砂原さんは麻衣のそんな様子を気にかけることもなく、書類に話を戻した。
「こことここ、逆になってる」
「…あ」
ハーバーラスのボールペンの美しいペン先が指し示す先には、フセンが貼ってあった。
本当だ。内容を直すことに手一杯で、書く場所を間違えていた。
「すみません。すぐ直します」
砂原さんの手から書類を受け取り、今度こそ、間違えないようにと細心の注意を払いながら(さっきだって細心の注意を払ったつもりだったのだが)書類を直す。どうしてこんなに間違えてばかりなのだろう。いいかげん、凹む。
だけど、凹んでも、やるしかない。
「経理の仕事は、細かい決まり事が多いから。頑張って慣れていくしかないわね」
…ん?
そのあとに何か叱りの言葉が続くのではないかとビクビクして待っていたが、どうやらそこで終わりだったようだ。
慰めてくれた…わけではないだろう、この人に限って。さっきも期待してガックリ来たことから、今度は同じ轍は踏まない。砂原さんは、慣れない仕事に戸惑いながらも必死に頑張っている新人の気持ちを汲んで慰めたりなんかしない。
砂原さんはただ、事実を述べただけにすぎない。
そうだ。その心は多分、「まだ慣れないから仕方ないよ」という慰めではなく、「頑張って」慣れて、早くミスをなくしてくれ、とそう言うことだろう。
言われなくたって、こっちだって早くそうしたい。
「砂原さんは、入ってどのくらいでミスしないようになりました?」
麻衣の不用意な質問に、砂原さんは、少し困った顔をした。
「わからない。私は最初から、ほとんどミスしたことなかったから」
…
なんだそれ。
「私、失敗しないので」って、何かのドラマの主人公か!
あれはドラマの中だけの存在ではなかったのか。それとも、意外と実在するものなのか、そういう存在は。
いや違う、相手は砂原さんだ。聞いた自分がバカだった。
「さすが、『経理部の妖精』ですね」
「気を使わなくていいわよ。『経理部の妖怪』でしょ。知ってるわよ、裏でそう言われてるのは」
「違いますよ、『妖精』ですよ。ホントです!」
実際、諸説ある。砂原さんのことを「経理部の妖精」と言う人もいれば、「経理部の妖怪」と言う人もいる。
「どっちでもいいわ。普通に人間でいいから、早く慣れて出来るようになってね」
痛い所に帰ってきた。
「…すみません、ポンコツで」
ちょっとした間があった。
「じゃあ、直し終わったら声かけてね」
―そこは否定してくれないのか!
嘘でもいいから、棒読みでも構わないから、そこは一言、「そんなことないよ」と言ってくれるのが人としての礼儀ではないのか!いくら真実がその通りだとはいえ。いや、真実がその通りだからこそなおさら!
この人は人間じゃなくサイボーグなんじゃないだろうか。
なんかもうやだ。ムダな追い打ちをくらってしまった。
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