第2話
「や、やっぱり無理だ、マーク」
「何言ってンすか、貴方ならいけますって」
「でも……」
「何が”でも”ですか。らしくないスよ、ニック先輩」
「でもおれ、こういうの参加したこと無いから何かトチるかもしれねぇし、やっぱりお前ひとりの方が良かったんじゃ」
「ヤですよ、一人で参加するなんて。貴方が一緒だから踏ん切りがついたってのに」
金曜夜、ローゼンブラウ公国首都アーテルベンの2番区高級住宅街の一角にはずらりと高級車が並んでいた。そのうちの一台の中でモメにモメているのは警察庁刑事部捜査一課に所属する刑事ニコラと、その後輩マークである。華やかなドレススーツを着たニコラは助手席に縮こまり、普段は凛々しい眉を下げて困惑を露わにしている。それを何とか外に引っ張り出そうとするマークは前髪を後ろに撫でつけてオールバックにし、いかにも好青年といった素顔が露わになっている。
「普段あれだけ平気な顔で犯人に接触したり現場に踏み込むくせに、なんでパーティーなんかでこんなにしり込みしちゃうかなぁ。パーティーに参加して怪我したり死んだりすることはないんですよ?」
「こちとらパーティーなんて生まれて一度も参加したこと無いただの平民なんだぞ?! 貴族のお前だって参加するの渋ってたくせに!」
「金曜夜に冷えてゴムみたいに固くなったデリバリーピザかじってデスクで寝落ちしてる奴のど~こが貴族ですか! あと僕は見ての通りの陰キャだからこの手の集まりは苦手なんですよ!」
「お前、今の見た目で陰キャとか自称しても説得力がねぇんだよ! というかいつもその髪型でいろよな、お前の前髪が長すぎるから服装規定の指導しろって今朝課長に言われたばっかなんだよ!」
わぁわぁとヒートアップして埒の開かない言い争いは、思わぬ人物によって中断した。立派な髭を生やした恰幅の良い還暦間近の男が車の中を覗き込み、互いの胸ぐらに掴みかからん勢いの若者たちを一瞥すると深くため息をついた。
「お行儀よくしなさいな、お前たち。暴れたら服に皺が付くよ」
「叔父さん……! すみません、ちょっとニック先輩が駄々こねてて」
「駄々なんてこねてない!」
若者たちがわぁわぁと口々に言うので、マークの叔父は一瞬ポカンとしてから身体を揺らし、声を上げて笑った。この還暦間近の男は貴族アンガス家の当主で、マークの叔父にあたる。ローゼンブラウ警察の総本山である本庁の事務関係の総責任者を務めている。警察学校時代の成績は特に実技が下の下だったが、誠実で気さくなため人望があり、代々警察及び軍関係者を輩出してきたアンガス家の中では珍しく事務方として大出世している。
「二人とも仲が良くて何よりだ。なぁに、パーティーなんて大したことないさ。ご近所付き合いのデカい版だ」
「いや、それはだいぶ面倒なやつでは……」
「裏表のない人間にとっては大したことないらしいですよ」
陽気に笑ってズンズンとパーティー会場に向かうアンガス卿の背を見つめて、若者たちはげんなりとした顔でそれに続いた。会場となるのは主催者であるコレンシウ伯爵の邸宅である。
「とにかく今回パーティーに参加する目的は、コレンシウ伯の二人の養子への接触だ。彼らが本当に15年前に捜索届の出された子供なのか見極める。ぶっちゃけ、今回のアンドレイ殺しは驚くほど手がかりが少ない。本件が15年前の吸血鬼カルト集団殺人事件に関係あるのなら、この状況だ、どんな些細な情報でも欲しい」
「結局、メディカル・メルカから大した話は聞けませんでしたしね~」
後輩刑事がやれやれ、と言いたげに肩をすくめた。メディカル・メルカは先の変死事件の被害者であるアンドレイが自社の治験に参加していたことを認めたが、それ以上の情報を喋ることはなかった。小さな会社なりに繁忙期に突入しているので職員を長時間拘束されると困る、というあからさまな態度を出されると元より任意の聴取であったため、ニコラとマークはそれなりにところで退散したのだった。帰り際にテリオンまで足を延ばしてコボゥ氏の家を訪ねたものの話の聞き取りは困難で、刑事たちは彼によく養生するように言って職場に戻ったのだった。
「ま、あとはアンドレイの変死について、コレンシウ伯の持っている情報を探るってとこスかね」
刑事たちは互いの顔を見合わせて頷き、コレンシウ邸内へと足を踏み入れた。
淡いクリーム色を基調とした広々とした邸宅、メイン会場となる玄関ホールと客間では既に客人たちが歓談にいそしんでいる。その中心にいるのが主催者、ウラディミル・コレンシウ伯爵本人である。列車の中で見かけた時と違い、今日は華やかなスーツを見事に着こなし、長い金髪を後ろでひとつにくくった貴公子然とした姿である。アンガス卿に気づくと、慇懃に礼をする。
「アンガス卿においでいただいて大変うれしく存じます。どうぞ我が家にいるようにくつろいでください」
「こちらこそお招きありがとう。あいにく長官たちは欠席だが、君によろしくと言っていたよ。それに、うちの甥とその同僚の参加を認めてくれてありがとう。あの赤毛ののっぽが甥のマーク、その隣の黒髪の男前がニコラ君だよ」
「アンガス卿の知り合いの方であれば大歓迎です。いらしてくれてどうもありがとう、お二人とも気を楽にして楽しんでいってください」
にこりと笑ってコレンシウ伯に手を差し出され、ニコラはおずおずとそれを握り返す。ひんやりとした色白の手は触れると特徴があるのが皮膚越しに感じ取れる。
(タコがいくつか……ペンと、剣術のそれか? それから、皮膚の一部の感触が違う。大きな負傷を?)
マークとも握手を交わす伯爵をじっと見つめていると、不意に玄関ホールにわぁっと華やいだ声が上がった。人々が見上げる螺旋階段の先、一組の男女が立っていた。
「遅れてごめんなさいまし。身支度に手間取ってしまって」
一人はブルネットの髪を上品にまとめ上げ、淡いピンクのドレスをそよがせるアビゲイル・コレンシウ。
「皆さま、こんばんは。今晩はどうぞ楽しんでいってください」
もう一人は黒髪を大人っぽくセットして、淡いグリーンカラーのスリーピースを着こなすテオドール・コレンシウ。
二人は招待客たちににこやかに笑いかけながら手をつないで階段を降りる。その華やかさはさることながら、異様なまでの仲睦まじさにニコラは思わず視線を奪われてしまう。養い子たちは客たちを失礼にならない程度にあしらい、まずまっすぐに伯爵のそばまでやって来る。
刑事たちは彼らに声をかけようとしたが、不意に機械音声が割って入った。
「ニコラ・マニウ様、マーク・アンガス様、お飲み物をどうぞ」
そこに立っていたのはあの時コレンシウ伯と一緒に列車に乗っていたロボットのポポだった。今は機械仕掛けの手にグラスを乗せた盆を持っている。アビーとテオが盆の上のグラスを一つずつ手に取り、刑事たちに笑いかける。
「遠慮なさらず。ノンアルコールもご用意できますよ」
「と言っても、ぶどうジュースと、ハーブとベリーで香り付けしたモクテル、あとはコーヒーと紅茶しかないんですけど」
テオが苦笑して肩をすくめる。向こうの方ではシルバーグレイの髪の執事が客に飲み物を配って回っているのが見えて、ニコラたちは淡い色のスパークリングワインの入ったグラスを手に取った。
コレンシウ伯が手にしたグラスを高く掲げ、乾杯の挨拶をする。乾杯、と皆が唱和し、本格的にパーティーが開始された。が、それと同時に主催者とその養い子どころか、執事やロボットたちまであっという間に客人たちに囲まれてしまった。パーティー初心者である刑事たちはすっかり出遅れて、部屋の端に飾られた豪奢な花の傍でそれを眺める。だがコレンシウ伯たちが誰と何について熱心に喋っているかも彼らにとっては大事だった。
「じゃ、ニック先輩、ぼくは向こうの方で色々話を聞いてきますんで。先輩もこっちで情報収集お願いします」
了解、と送り出した後輩はひとまず叔父であるアンガス卿に合流したらしい。こういう場では貴族としてのコネクションが強く作用する。
不意に、向こうの方からきゃあきゃあとはしゃいだ声が上がった。声の主である青いドレスの女性を見て取って、ニコラは目を丸くする。メディアで見覚えのある顔なのだ。
「テオ、お久しぶりね! 前に渡した日焼け止め、どう?」
「お久しぶりです、ミス・ヘルドランカ。大学の友人たちにも渡してみたんですけど、大好評ですよ。ホリデー休暇に雪遊びをしてた子たちが、全然焼けなかったし香りも良いって喜んでました」
青いドレスの女は、高機能の日焼け止めや、高遮光率を誇る日傘で大ヒットをたたき出したアパレル・化粧品会社の社長ミス・ヘルドランカである。その向こうではアビーが別の招待客の中年の男と盛り上がっているようだった。その男の目の下に特徴的なほくろを見つけると、刑事ニコラは感心したような目を向ける。
(あっちもよく見る顔だ。世界初の人工血液の実用化と安定供給に成功した、大手医療系企業H&Wの社長か……)
大手医療系企業H&W。この企業が近現代世界において人類の悲願のひとつである人工血液を現実のものとしたことで、世界中から称賛を浴びたのはニコラが少年の頃だった。そんな大企業は今や国内どころかEU圏内でも最大の医療系企業になりつつある。新市街の街頭ビジョンで派手にプロモーションビデオを流しているエナジードリンクや栄養食もH&Wの商品である。
少し離れたところでコレンシウ伯本人が有名ホテルのオーナーと話し込んでいるのを眺めながらニコラは傍に置かれているフルーツを摘まむ。机の端に置かれたスパークリングワインの瓶のラベルには、これがコレンシウ伯のワイナリーの酒であることが書いてある。
(酒はさすがにめちゃくちゃ美味いな。ペアリングが上手い、フルーツに合う)
ホテルオーナーの話から察するに、どうやらここから追加のワインが3種出され、それに合わせた軽食も出るらしい。
(貴族やべえな……いや、そうか、コレンシウ伯にとってはこのパーティーも自分のところで作ってる酒を宣伝する仕事でもあるのか)
ふと思い出すのは、後輩である貴族アンガス家の末息子マークが聞かせてくれた苦い思い出話。彼が小さいころ招かれた友人の誕生日パーティーは、その実、大人たちが融資を取り付けるための場で、交渉が決裂して子供そっちのけで大人たちが大揉めして最悪の空気のまま解散したらしい。彼のパーティー嫌いはそういうところにも所以している。
思い出してニコラが苦笑したところで、華やいだ声が聞こえた。
「それで、相談って?」
ミス・ヘルドランカと呼ばれた青いドレスの女社長である。その傍には医療系企業H&Wの社長とコレンシウ伯がいる。目線の方向からして相談者がH&Wの社長であることを察しつつ、ニコラは自然な動きを装って彼らに近づき、そちらに意識を向ける。
「実は新市街にあるメディカル・メルカという製薬会社から共同研究を持ちかけられたのだが、……受けるべきか否か悩んでいる。出資者であるウラディミルの意見を聞きたい。同業他社との共同事業の経験があるヘルドランカの意見も聞きたい」
そんな言葉が聞こえてきて、刑事は顔をしかめた。メディカル・メルカ、その名をここで聞くとは思わなかった。なるほど忙しかったのは共同研究の打診のためだったか、とニコラが内心で納得していると、そこに声をかける者たちがいた。
「ミスター・マニウ、楽しんでいらして?」
「最近の調子はいかがですか?」
コレンシウ伯の養子、テオとアビーである。その言葉が暗に捜査の進捗を問うものであると察してニコラはあえて不敵な笑みを浮かべて見せる。
「まあぼちぼちってところだな。……市民の安全のためにも、早く解決したいところだが」
「真面目ですのね」
けれどその顔も、すぐに真摯な国家公務員のそれに塗り替わる。アビーの声は半ば呆れたような響きだった。グラスをじっと見つめてポツポツと語り出す刑事の横顔にはわずかな悔いが滲んでいる。
「……警察は、消防もそうだが、事が起きてからしか動けないからな。俺たちが動く時には既に被害が出て、誰かが傷付いている。ならせめて、その後は少しでも被害の予防と拡大防止に努めたい」
その生真面目さを、けれど、貴族令嬢と貴族令息は嗤わなかった。
「我々も事件のいち早い解決に努めますわ」
「閣下もそれをお望みだからな」
そう言って、養い子たちは揃ってコレンシウ伯を見つめる。その横顔に何か切実なものを見出してニコラは当たり障りのない言葉を紡いだ。
「本当にコレンシウ卿が好きなんだな」
返事は間髪入れず。
「ええ」
「はい」
簡潔な一言だった。決然としたその口ぶりと、じっとこちらを見つめる眼差しの異様な気迫にニコラは気圧されてしまう。この間の解剖準備室での一幕を思い出させる。
「……随分な入れ込みようだ」
言われて、コレンシウ伯の子供たちは互いの顔を見合わせ、そして再び向こうの方にいる養い親を見つめてぽつりぽつりと語り出す。
「いま私たちが生きているのはあの方が拾ってくれたおかげだから。私の命はあの人そのもの。我が命、ウラディミル・コレンシウ伯。あの人のためならいくらだって殉じられる」
「大人たちもみんな殺されて、次は自分だって時に、あの人は現れた。僕らを救って全てを与えてくれた。我が光、我が愛、伯爵閣下。あの人のためならすべてを捧げたって良い」
どこか夢見るようなその眼差しに、刑事たちは眉をひそめる。養子、とは言うがその彼らがコレンシウ伯ととんでもない状況で出会い、ただならぬ感情を向けていることだけは確かに分かる。
「大恩人、か。コレンシウ伯とはいったいどこで出会ったんだ?」
妙な焦りを感じながらニコラが問うと、養い子たちは傍のテーブルから新しい酒を手に取って苦笑した。
「忘れちゃった。あの頃は私も小さかったし」
「捨てられたことだけは覚えてるんだけど」
「元々の……コレンシウを名乗る前の名前とかは?」
「それも忘れちゃった。いらないことだから」
「昔の名前も、あの人に出会う間のことも、今の僕らにはいらないものだから」
肩をすくめて、いかにも気軽な風に言う。しかしニコラに向ける瞳は鋭く、これ以上踏み入ってくれるなという警告を発していた。
(こりゃ、忠犬っていうか狂犬の類だな)
刑事がどう切り出すか悩んだその一瞬、かすかな機械の駆動音が割って入った。コレンシウ家のロボット、ポポが盆に乗せた赤ワインを配って回っているらしい。
「ワインをどうぞ、軽めの赤です。こちらのカナッペと一緒にお楽しみください」
次いで、シルバーグレーの髪の執事が大皿をそこかしこの机に置いて回る。素早く、けれど優雅に立ちまわる一人と一機を見送って、ニコラは怪訝な顔でアビーとテオに問いかけた。
「そういえばあのロボットは一体?」
帰ってきたのは「え、」という戸惑いだった。優雅な貴族令嬢と貴族令息が初めて見せる、明確な戸惑いの感情である。
「何って……うちのポポさんだけど。小さい頃はよく一緒に遊んでくれて、家事とか手伝ってくれて」
「家族構成的に言うなら僕らの姉……兄……みたいな? 僕らがコレンシウに来た時にはもうポポさんはいたし」
どうやらコレンシウ家の子供たちにとって、ポポというあのロボットは家庭内にいて当然の存在で、家族構成員の一機らしい。あまりに身近なので、今更「あれは何か」と問われることそのものが不合理であるらしい。
これはもう話すだけ無駄だな、と判断してニコラはグラスを勢い良く煽る。本当は多分こんな風に雑に飲んでよいランクのワインではないのだが。仕方がない、と一瞬の沈黙の後に新しい話題を振った。
「それはそうと、俺のようなアンガス卿と直接関係のない客まで参加を許可するとは、コレンシウ伯も心の広い男だ」
何気なくニコラが言うと、コレンシウ伯の子供たちは胸を張る。
「当然ですわ。急な客の一人ももてなせないようでは伯の名誉に傷がつくと言うもの」
「それにこのパーティーは今回の捜査権の一件でご迷惑をおかけしている方々にお礼をするための場。あなた方の来訪はその趣旨に背くものではありません」
そこで向こうの方から子供たちに声がかかって、彼らはワイン片手にそちらへ向かっていく。入れ替わりにニコラの前に顔を出したのはコレンシウ伯本人だった。どうやら相談は終わったようで、彼に親しげに手を振る。
「楽しんでおられますか? ……あの子たちと随分話し込んでいたみたいで」
「ん……まあな。あんたを随分と慕ってた、ちょっと驚くレベルでな。いったい何がどうしたらそうなるんだ?」
「何だろうね、俺はそこまで気負わなくて良いって言ってるんだけど……。俺はちょっと面倒を見ただけだから」
さらりとした口ぶりで言って、優雅なしぐさでグラスに口を付ける。その横顔にニコラはおずおずと尋ねた。
「……不躾なことを聞くが、最初からあんなに懐いてたのか?」
「最初は一言も口をきいてくれなかった。テオもアビーも、互い以外のすべては敵だと言わんばかりの有様で、俺も執事のダニーもお手上げだった」
グラスを空にした養父は向こうの方で何やら会話の中心になっているらしいロボットのポポを見つめて目を細める。遠くの方でミス・ヘルドランカとH&Wの社長と話し込むマークが見えた。パーティーが苦手なだけで、自然な流れで話を聞きだすことはむしろ得意とするところらしい。2種類目のワインで人々も口を軽くしているのは明らかだった。
ニコラはそこで話を変えた。
「しかし意外だな。H&Wほどの大企業だ、同業他社との共同開発なんざ飽きるほどやって来ただろうに判断に迷うとは」
「我々にも色々あるのさ。……だが、あまりこちらに首を突っ込まない方が良い。無事ではいられないぞ」
金髪の貴族が肩をすくめたとおもうと、すっとその両目を細めてニコラをじっと見つめる。周囲の空気がピリリと張り詰める。ニコラは口元に笑みを描いてグラスの中身を飲み干し、挑むように言い返した。
「生憎これも仕事でな。それともなんだ、このまま突っ込んだらおれもアンドレイみたいになる、と?」
「そうさ」
コレンシウ伯爵の断言は意外にも柔らかい声色で、それゆえにニコラ刑事はわずかに全身を緊張させる。刑事として、過去に数度だけ味わったことのある類の緊張感。修羅場において、圧倒的に優位に立つ者がそれを自覚しているときに放つ、特有の空気。それを目の前のウラディミル・コレンシウ伯爵から感じ取って、刑事は油断なく正体不明の貴族を見つめ返す。それを分かっていて、謎だらけの美貌の男はにこりと笑う。
「せいぜい気を付けることだ。君が思うよりこの国の夜は深い」
「それは」
「ストリボーグに襲われるかもしれんぞ」
真意を問おうとすると、コレンシウ伯爵はウィンクしていたずらっぽく笑ってからポケットに入っていた個包装のチョコレートをニコラに渡して、向こうの方にいた別の招待客に合流した。その背を唖然として見送り、ニコラは手元に残ったチョコレートを見つめてぶるぶると肩を震わせる。
「す、ストリボーグって……おとぎ話かよ!」
ストリボーグ。ローゼンブラウの人間にはお馴染みの怪物の名を出されて、ニコラはすっかり毒気を抜かれてしまう。
「くそッ、からかわれた」
小声で愚痴ってため息をつくと、ニコラはやけっぱちになって例のお手伝いロボットポポが配る3種類目のワインを勢いよく煽る。だがそのとたん、機械の手がむんずと水の入ったグラスを差し出した。
「ニコラ・マニウ様、一気飲みはいけません。急性アルコール中毒になる危険性があります。お水を飲んでください」
「いや、それよりこのワインの2杯目を」
「いけません。まずお水が先です」
どこか犬を思わせるポポの頭部造形と、目を意識させるアイスコープに見つめられて、ニコラはグッと黙り込む。大人しく水を飲み干すと、そこにワインとキッシュを携えたマークが戻った。
「ストリボーグがどうしたんですか?」
そう問いかける後輩のいやに真剣な顔に、ニコラは「いや」と一言呟いて考え直す。
(15年前の吸血鬼カルト集団殺人事件の現場にいた者が、今回のアンドレイ殺しの犯人だ。そして、15年前の事件の犯人たちは半狂乱で「ストリボーグ」と口にしていて……)
優秀な刑事は向こうの方で客たちと歓談するパーティー主催者の背をじっと見つめる。彼の長い金髪が照明を反射して輝いている。
(今のコレンシウ伯は、冗談ではなく本気で俺を脅したんじゃないか……?)
そこに思い至って、ニコラは焦ったようにスーツの内ポケットから小さなジッパー袋を取り出した。その中にコレンシウ伯から貰ったチョコレートを入れながら、先輩刑事は後輩に声を潜めて問うた。
「そっちは何か分かったか?」
「メディカル・メルカの話が出て、H&Wの社長がそことの共同研究・開発を渋ってる理由が分かりました」
「何だった?」
「メディカル・メルカが吸血鬼関連での研究・開発にこだわりすぎてるから、だとか」
「……どういうことだ?」
ニコラが顔をしかめるが、直接話を聞いて来た後輩も肩をすくめるばかりである。
「それはそうと、コレンシウ伯爵の養子2人は元々、出生届が提出されなかった子たちだそうです。伯爵が紋章局に手続きをして戸籍を作ったのだとか」
どうやらそのあたりの話は、アンガス卿の紹介で紋章局職員から聞いたらしい。マークが顎で示した先でチョビ髭の紳士がワインを楽しんでいる。紋章局とは貴族を対象にした制度の一切を取り仕切る部局である。貴族の身に課される特殊な税金の徴収、貴族特有の相続制度の管理と執行、各家門の人員の戸籍管理などがその職務内容である。他の省庁とは異なりかなり閉鎖的な組織で、秘密主義であることでも知られている。
「で……ニック先輩の方はどうスか?」
「んー、今じゃコレンシウ伯に入れ込んでるあの養子二人だけど、出会った当初は全然懐いてなかったってくらいしか。当人たちは養子になる前の事も昔の名前もしっかり覚えてるけど話したくないって具合だった」
マークの視線を受けて、ニコラは一層声を低めて、けれど決然とした声で断言した。
「コレンシウ伯の養子の二人、アビーとテオ。多分、15年前の吸血鬼カルト集団殺人事件で捜索届が出た子供たち本人だ」
「根拠は?」
「テオが自身の経験についてこう言ってた。大人たちもみんな殺されて、次は自分だって時に、と。ちょっと妙な表現だと思わないか?」
よく知らない大人たちと一緒に、誰かに強い殺意を向けられ、実際自分以外の人が死んだ。テオの言い回しにはそういうニュアンスがあった。15年前の事件のために誘拐されたのは10人。うち、現場で発見された8人分の遺体は大人のものだった。そして実際、彼らは別段知り合いでもなんでもなかったことが確認されている。
「多分、あの2人は目の前で人が殺されるのを見てる。そんな特殊な状況、そうそうあってたまるかってんだ」
なるほど、とマークは頷いた。
「あとはコレンシウ伯の指紋だな」
ニコラが自身のスーツのポケットを指さす。そこにさっきコレンシウ伯から貰ったチョコレートを入れたジッパー袋が収まっている。
「にしても、どうしたモンかね……」
先日、テリオンの森で変死体になって見つかったアンドレイ。そのアンドレイが参加していた治験バイトを主催していたのは、ローゼンブラウの小さな製薬企業メディカル・メルカ。「吸血鬼」かぶれの企業で、同業他社が共同研究を足踏みするほどだという。
アンドレイ殺しの犯人。それは、15年前に起きた吸血鬼カルト集団殺人事件の現場で見つかった「100歳越えの指紋」の男。アンドレイとスマートフォンを介したやり取りがあったと予想される。そして15年前のこの事件の犯人たちがしきりに口にしていた言葉が「ストリボーグ」。この事件の被害者であり、公的には失踪扱いの少女アビゲイルと少年テオドールは現在、コレンシウ伯爵の養子として生きている。
「コレンシウ伯も何か知ってるみたいなんだがな。メディカル・メルカとH&Wの共同研究開発について口にしたら、脅された」
「ああ、それでストリボーグですか」
相槌を打ったマークはキッシュを口に突っ込むと、姿勢を崩して右斜め下をじっと見つめる。それは彼が考え事をするときに特有の姿勢だ。キッシュを咀嚼してワイングラスを空にしてしばらく黙っていたかと思うと、ふ、と弾かれたように顔を上げる。
「それ、おかしくないですか? H&Wの社長本人が教えてくれたんですよ、メディカル・メルカとの共同研究を渋る理由。なのに、なんで出資者でしかないコレンシウ伯がその話を出し渋るんですか?」
「メディカル・メルカの重度の吸血鬼かぶれが、コレンシウ伯の弱点? だから喋りたがらなかった?」
刑事たちが互いの顔を見合わせる。メディカル・メルカは変死体で見つかったアンドレイが以前参加していた治験バイトを主催していた会社でもある。治験バイトを経てアンドレイは周囲が驚くほどに活発になり、体力が増していたという。
「アンドレイから出た薬物反応、確かアッパー系だったよな。で、40代未経験から突然、体力必須の夜間長時間運転の仕事を担当するようになった」
「行きつけにしていたドラッグストアの購入履歴にカフェイン剤やエナジードリンクはありませんでした」
メディカル・メルカに「何か」ある。それを確信して二人は頷き合う。
それを見計らったように玄関ホールの柱時計がボーンボーン、と低い音を鳴らした。パーティーもお開きらしい。客たちは名残惜しそうに互いに声を掛け合い、スマートフォンで連絡先を交換し合い、あるいは次の約束を取り付ける。コレンシウ伯爵以下、家事手伝いロボットのポポを含む家人たちが、帰路に就く客人に声をかけ、手土産を渡して、それぞれの車が走り出すのを見送る。
「ニコラ・マニウ様にはこちらも。どうぞお体ご自愛下さい」
アーテルベン旧市街で一番人気の菓子店の包みと一緒に手渡されたのはペットボトルの水だった。心底心配してることを機械仕掛けの仕草と声色で伝えるポポにちょっと笑って、ニコラはそれを丁重に受け取る。そして15年前の事件の生き残りの子供たちに視線を向ける。
「……入れ込むのもほどほどにしとけよ。危ういものほど魅力的に見えるのが世の常だ」
何のことか、と顔を見合わせる執事のダンやコレンシウ伯、マークをよそに、アビゲイルとテオドールは互いの手を握り、身を寄せ合ってニコラに言葉もなく微笑みかけた。妖しく美しい微笑である。それこそが彼らの答えだと理解して、仕方ないとばかりに苦笑したマークはひらりと手を振ってコレンシウ邸を跡にする。マークがその背を追いかけて、アンガス卿の車に乗り込む。
そうして、最後にコレンシウ邸を出たのは、ミス・ヘルドランカとH&Wの社長だった。
「すまないウラディミル、口が滑ってメディカル・メルカのことを少し話してしまった」
「あのアンガス卿の甥っ子って言うのが聞き上手でね。詳しいことは話してないけど……本庁勤めの刑事でしょう? 時機に本当のところにたどり着くと思うわ」
友人というべき2人に正面切ってそう言われ、ウラディミル・コレンシウは目をぱちくりさせた。仕方ないとばかりに笑う顔に彼らへの非難はなく、友人たちの背に腕を回す。
「平気だよ、こちらも手を打つさ。今日は来てくれてありがとう、我が同胞」
「こちらこそ。アビー、テオ、君たちにも久々に会えて嬉しかった」
「あのおちびちゃんたちが、ほんと立派に育ってくれたものだわ。もう15年経つのよね」
背の高い大人たちを前に、養子の二人は嫌に真剣な顔になった。
「はい、だから私たち、半人前じゃなくて、ちゃんと皆様と同じ一人前に」
口早に訴えかけるアビーの横で、テオが必死に首を縦に振る。けれどミス・ヘルドランカはその口にぴたりと長い指を押し当てて封をした。
「心配しないの、ウラディミルはあなたたちのためにとっておきを用意してるわ。もう、ふたりともそんな泣きそうな顔しないで」
世話焼きの姉じみた言葉にテオは首を縦に振って、それから無言でH&Wの社長にハグをする。その仕草が幼い時から変わらないので、大人たちが笑みを浮かべる。
「それではまたな。ダニー、ポポ、世話になった」
「ポポちゃん、ダンくん、おやすみなさい」
穏やかに笑みを浮かべて去っていく彼らの口元に鋭い牙、髪の合間からは尖った耳が覗く。けれどこの場の誰もそれを指摘しない。彼らにとっては当たり前のことだったから。
***
「風呂はあっち、洗面所併設。お手洗いはそこ。コレは着替えとか諸々、歯ブラシと下着は新品です」
「なんかすいません、アンガス卿。泊めていただいて。マークも悪いな、この寝間着、お前のだろ?」
「構わないよ。客の一人くらいすぐにもてなせる」
鷹揚に笑う貴族の当主を一日に二人も目の当たりにして、地方出身の平民は改めて感心する。ニコラはごく普通の庶民である。実家も別に広くはなかったし、風呂だって一つしかなかった。実家を出た今では、家に他人が入って来るのがなんとなく嫌なので業者とこの後輩以外を官舎の自室に招いたことが無い。そもそもニコラの自室はすさまじい有様なので人を招けるような場所ではない。
「それに、君らを好きにさせてたら最悪このまま職場に戻りそうだったからね」
ギロリと事務方の重職に睨まれてニコラは首をすくませる。帰りの車内で妙に覚悟の決まった顔でペットボトルの水を煽り、マークとアイコンタクトをかわす様を見て、彼らの今後の行動を察したらしかった。さすがは警察・軍関連の家で育ち、警察組織に長く身を置いているベテラン、というところだろうか。
「調べ物をするにしても、せめて寝てからにしなさい」
そう言われると、ニコラは大人しく言われたとおりにした。
風呂から上がり、寝支度を整えて客間のベッドの上でスマートフォンを弄っていると、控えめにドアを叩く音がした。ドアを開けると背の高い赤毛の後輩が水を持って立っていた。
「ニック先輩、入りますね」
「おー、今日はほんと色々ありがとな。この屋敷ってお前の実家ってわけじゃないんだよな?」
アンガス卿の屋敷は、木目の美しい暗色の木材をふんだんに利用した落ち着いた邸宅である。所在は当然のように首都アーテルベンの高級住宅街2番街である。
「ここは僕にとってはあくまでも親戚の家です。実家は地方にあります、だから官舎暮らしなんですけど。叔父さんと叔母様にはたまにお世話になってます」
この家に入った時に出迎えてくれたほがらかな老婦人を思い出して、ニコラが頷く。
「てゆーか、ニック先輩はあの双子ちゃんと何話したんですか?」
「双子?」
「アビー&テオ」
「まあ何だ、進路相談というか……」
あの2人は同い年だものな、と納得したニコラは彼らとの会話をどう表現すべきか、と盛大に首をひねる。脳裏によみがえるのは別れ際に彼らが浮かべた美しい微笑。妙に心に焼き付いて引っかかる、人を惹きつける、引力に満ちたあの微笑。それは、彼が最初にあの列車でコレンシウ伯を見た時に感じたのと同じものだ。
「けどあの2人にもうそれは必要ないって言うか、あの2人がもう自分で全部決めてるって言うか……」
「なるほど、ニック先輩があの2人に誠実に向き合ったわけだ」
後輩は爽やかに笑ってそう言うと、先輩の手からスマートフォンを奪い取った。画面にはPDF化された論文が表示されているが、生憎ニックの専攻は内分泌生理学ではない。画面をスリープモードにしてベッドサイドから伸びる充電コードを挿した。
「とりあえず寝ましょう、ニック先輩も寝てください」
「ああ、おやすみ」
だが、その時だった。少し離れたところからガシャンガシャンと続けざまにガラスの割れる音がして、犬の遠吠えじみた声が響いた。現役の刑事たちはポケットにスマホを突っ込み、とっさに上着を羽織って部屋を飛び出した。
「どこからだ?!」
「多分リビング!」
幸い、家の住人は全員すでに自室に引っ込んでいるようだった。音に気付いて何事かと廊下に出てきた家人たちを警察官たちがなだめて、リビングに近づく。家人たちは2階廊下で固唾をのんで事態を見守り、ヒュウヒュウと風の吹きこむ音がする以外はシンと静まり返っている。
(ぼくがあっちから回ります、先輩は合図したらそこの電気のスイッチ押してください)
家の構造を知り尽くしたマークが客人にハンドサインで伝えて、静かに、けれど素早く配置につく。のぞき込んだリビングは暗いが、窓際にひときわ黒い何かがいる。暗闇を固めたようなそれが、あざ笑うように笑った。かすれて乾いた、奇妙な声だった。
「人間が3人、そこにいるな? ふふ、匂いで、気配で、分るぞ」
刑事たちはギクリと身体を強張らせる。直感で、その物言いで、感じている。リビングにいるソレは人間ではない。こんなプレッシャーを発することができる人間などいるはずがない。この暗闇の中、仮にも扉の影や廊下に身を潜めている自分たちの人数を正確に把握するなど、人間技ではない。
ジュル、ジュルル、と何かを吸い上げる音がしてから、ベシャリと濡れたものが床に落ちる音がした。
「人工血液はやはり不味い。あの研究者共は当座の食糧にこれを勧めるが……。群れて徒党を組むあの同胞の集団の一人が人工血液を作ったらしいが、舌がイカれているのではないか? やはり人間の生き血に限る。……出てくるがいい。そこの3人。今は腹が減っていて……おや、上にも人間がいるな?」
生ぬるい嫌な汗がじわりと溢れる。
「早くしろ、このストリボーグは気が短い。ローゼンブラウの民なら知っているだろう」
鋭く風が吹きつける音がして、何かが倒れる音がした。そう、ローゼンブラウに育った者ならだれでも知っている。夜の恐怖、暴力の具現、自在に風を操り、血を吸う化物、吸血鬼ストリボーグ!
本物のストリボーグであるかともかく、リビングにいる黒い塊が人間ではない「何か」であるのは確かだった。
斜め後ろに控えてスマートフォンを握るアンガス卿の身体が小刻みに震えているのが分って、ニックはその肩を撫でてから、ハンドサインで問いかける。
(突入します、良いですね?)
このままでは後が無いのは明白だった。アンガス卿はガクガク震えながらも確かに首を縦に振った。マークを見やると、委細承知とばかりに首を縦に振る。それを合図に、ニコラがすばやく傍にあるリビングの電気のスイッチを入れた。ニコラはそのまま黒い塊に駆け寄る。
暗闇に包まれていたリビングが一気に明るくなり、明暗の落差にさっきまで余裕たっぷりに話していた声が「ギャッ」と潰れた声を上げた。別方向から飛び出したニコラとマークがそこに勢いよく組みつく。彼らの腕の下にいるソレは、襤褸切れをまとった小柄な人の姿をしていた。顔立ちはどちらかと言えば少年のそれ。唸り声をあげる口からは鋭い牙が4本見える。そこから漏れる強烈な血臭に、さしもの捜査1課の刑事たちも一瞬怯んだ。
その瞬間、ソレは異様なまでの膂力と瞬発力を発揮した。するりと両腕を伸ばしたかと思うと刑事二人の首根っこをひっつかみ、彼らの顔面を勢いよく床に叩き伏せた。痛みと衝撃に濁った声を上げて悶絶する、その様をストリボーグを名乗ったそれは楽しそうに首をひねる。ストリボーグの顔は、子供のそれだった。
「力もある人間だ、悪くない。徒党を組んで群れる同胞集団よりも、お前たちのような強い者の方がこのストリボーグは好きだ、気に入った。殺すのは惜しい、首を噛んで眷属にするか……」
「誰がお前なんかに渡すもんか!」
アンガス卿の声だった。ブォンと凄まじい音で何かが飛んできてストリボーグに激突した。その瞬間、ストリボーグの小さな体が一気に後方に吹っ飛んだ。拘束と息苦しさから逃れたニコラとマークがゆっくりと身体を起こして息を整える。
「うッ、う、ぐ……ぎ、ぎあぁぁぁぁッ!」
吹き飛ばされ、しばし悶えていたストリボーグが不意にこの世のものとは思えない絶叫を発した。両手で必死に側頭部を抑えているが、そこからジュウジュウと何かが焼けるような嫌な音と煙が立っている。ゴロンドタンと重々しい音で床に落ちた銀色の馬の置物を見ると、ストリボーグはその顔いっぱいに憎悪を表してアンガス卿を睨みつけた。牙の生えた口から獣のような唸り声をさせている。
涙を目にいっぱいためて肩を震わせたアンガス卿だったが、傍にあった暖炉の火掻き棒を手に取る。大きく息を吐いてフェンシングの構えを取ると、向けられた銀色の切っ先にストリボーグが脂汗をにじませ、側頭部を庇うように半歩後退する。その時だった。
家の外からパトカーのサイレンが聞こえ、荒々しい人間の声と、警察犬の声が聞こえた。
「くそ、今晩はもう駄目か」
舌打ちを一つすると、ストリボーグを名乗った少年は床に散らばったガラスを踏みつけて割れた窓から庭を出る。ニコラたちもそれを追いかけるが、彼らが庭に出た時には、ただ闇が広がっているだけだった。
「おじさん、助かりました。さっきの馬の置物は」
「ああ、ウン、あれは銀製だから。ほら、ローゼンブラウの民ならだれでも知ってるだろ?」
吸血鬼は銀を嫌う。銀製品や銀製のアクセサリーはローゼンブラウの定番のおみやげ物であり、贈り物として好まれる。
「凄かったですよ、さっきの投擲」
「これでも大学までアメフトやってたからね」
アンガス卿が大きくため息をついてウィンクすると、そこでようやく若い刑事も全身から力を抜いて笑みを浮かべた。
「こっちの火掻き棒は?」
「あっはっは、そっちはステンレス製。でも銀色だからね、銀で負傷して気が動転したアイツの動揺に漬け込めば何とか応援が来るまでの時間稼ぎくらいできるかと思って」
そう言いながら、アンガス卿は邸内に駆け込んできた警察たちの相手をし始める。どうやらアンガス卿の家族と、彼自身が通報していたらしい。その背中を見つめて、若手刑事たちは感心したようにため息をついた。
「凄まじい胆力だな、あの状況でああもハッタリを利かせるとは」
「普段はのほほんとした人なんスけどね。ああいうところはやっぱさすがって感じです」
通報を受けて現場に来た警察官たちは、ニコラたちや、家族にも話を聞き、一方で事件現場に残った証拠品を採取する。そうして、ようやく彼らが眠るころには、既に東の空から太陽が昇り始めた頃だった。
***
コレンシウ邸でのパーティーの翌朝、コレンシウ家の家人のうち、有機生命体の者たちの起床はいつもよりも遅かった。ポポだけはいつも通りの時間にスリープモードに入っていつも通りの時間に起動したが、人間とそれに類する生命はそういうわけにもいかなかった。
「あ、ダンさんおはようございまーす。なんかアンガス卿の家で襲撃事件?があったらしいですよ」
「あらま。じゃあウチからお出になって帰宅して、寝ようとたら……ってことですか?」 顔を洗うのを中断したダンからタオルを受け取ってテオは首を縦に振った。洗面台に立った二人はまだパジャマ姿だった。
「他のお客様が大丈夫なら良いのですが……」
「そこは心配ないと思いますわ。報道にはアンガス邸以外の被害は書いてなかったから」
ふわ、とあくびをして洗面所に入ってきたのはアビーである。寝起きの目には白く清潔な洗面所の灯りが眩しいらしく、しきりに瞬きをしている。
「伯は?」
「まだ寝ていると思いますよ」
「ダンさん、今日晴れてるから庭にテーブル出さない? アビー、どう?」
「素敵ね」
「名案です、着替えてキッチンに行きましょう」
ラフな部屋着に着替えた人々が集うキッチンは賑やかだ。執事のダンが折りたたみ式のテーブルを出そうとするとテオが駆け寄ってそれを持ち上げる。
「ダンさん、僕がやりますよ!」
「ありがとうございます。私も歳ですからね、最近は重いものを持つのがしんどい時もあって……」
しかしそう言いながら老執事が庭の隅から持ってきたのは、折りたたみ式テーブルなどよりよほど重いパラソルだった。何食わぬ顔でそれをテーブルの傍に立ててみせるので、テオはアビーと互いに顔を見合わせて口をあんぐり開ける。
「……どうしましたか?」
しかし当人は何がおかしいのか分かっていないようで、幼気な子供のように首をひねるばかりである。それが尚のことおかしかったのだろう、コレンシウ家の子供たちは、互いの肩を叩きながら声を上げて笑った。
「なんでもないよ、ダンさん!」
「ダンさんはまだまだ元気だよ!」
「そうですか? ……元気というなら、お二人も本当に元気になられた。体調はどうですか?」
親代わりでもあった執事に問われて子供たちは元気だよ、と笑う。心配しすぎ、と頬を膨らませる顔は無邪気そのものだ。15年前、この屋敷に来た時は手負いの獣のようだったのに。パタパタと足音高く養父を起こしに行くその背を見つめて、ダンは目を細める。
「すぐ起きるから先に食べててくれって。あれは二度寝決め込むつもりですわ」
「今ポポさんが頑張って起こしてる」
養い子たちはくすくす笑いでそう言って、庭に展開された朝食の席に着いた。広々とした折りたたみ式テーブルにはパンやサラダ、果物はもちろん、オムレツやコーヒーが並ぶ。机の端に置いた端末から流れる報道番組は、昨夜この2番区で起きた襲撃事件を伝えているが、休日の高級住宅街はそれでもやはりのんびりしている。風が吹き込むと庭に咲いたチューリップやクロッカス、藤などの春の花々がそよいだ。
「パーティーの翌朝の遅めの朝食って最高。これのためにパーティーに参加してるまであるわ」
「ほんとそれ。パーティー翌日の遅い朝食万歳」
「お二人は」
ダンの話の切り出しは唐突だったかもしれない。平素は落ち着きと教養ある紳士として振舞う彼らしからぬ有様である。けれど子供たちはただ黙って言葉を待つ。
「もしも、もしもですよ。お二人は、ウラディミル・コレンシウ伯爵その人に『もうお前は必要ない、二度と自分の前に姿を現すな』……なんて言われたら、どうしますか?」
ポカン、としていたアビーとテオだったが、しばし考える様子を見せてから顔色を変えて勢い良く立ち上がった。
「ダンさん、その……もしかして伯に解雇って言われた?! 相談に乗りましょうか? それとも先に弁護士の用意を?」
「閣下は寂しがりだからダンさんを手放すとか絶対無理だと思います」
思慮深い若者たちは、この年上の執事が相談しづらい事を相談するために婉曲的な表現をしたと解釈したらしい。焦ったのは話を持ち掛けた当人である。メガネがずれたのにも構わず、両手を必死に横に振る。
「ああ、違うんです、違うんです。そうではなくて、ただ本当に、もしも、現実には起きていないけど、もしあのウラディミル・コレンシウ伯爵本人から、お二人がそんな風に言われたら? ただそんな、趣味の悪い問いかけです」
老執事が思い出すのは、アビーとテオがこのローゼンブラウに帰省したその日に彼らの養父が言っていたこと。「本来の計画にのっとり、アビーとテオを次の段階に進ませる」と。哀愁とかすかな戸惑いの交ざるダンの眼差しを受けて、当人たちは真剣に考え込んでいるようだった。
「でも……関係ないものね」
口火を切ったのはアビーだった。視線は斜め下、足元に揺れる小さなスズランの花を見つめている。
「うん、関係ないもの」
彼女が力強く頷き、ゆっくりと顔を上げてダンを見据える。その表情は落ち着き穏やかだった。
「伯が私をどう思っているかと、私が伯をどう思っているかは、全く別の次元の話ですもの。手放すと言われたから諦められる、嫌いになれる、愛情を失えるわけではありませんわ」
その隣で、テオが空の高いところを見上げている。燕が飛んでいくのを見送って数度ゆっくりと瞬きをして、そしてひときわゆっくりと閉じた瞼を開いてダンを見つめる。
「僕が、ね。手放せないから」
そして困ったように笑った。
「あの人が僕を手放しても、僕があの人と一緒にいたいから。だから多分、捕まえに行くよ」
養い子たちの視線は、自然とキッチンの冷蔵庫に向けられた。そこにはかつて幼かった彼らが書いた「家族の似顔絵」がラミネート加工されてマグネットで貼られている。
「愛してるもん、あの人のこと」
「そうね」
子供っぽく甘えたような口調で言って笑うテオの手に、アビーがそっと自分の手を重ねた。同じ家で育った同い年の若者、というには異様なほどに親密なしぐさだが、それを咎める者はこの家にはいない。
「ダンさんもそうでしょ?」
テオが確信に満ちたイントネーションで問うので、ダンは苦笑して首を縦に振った。その胸のうちにあるのは諦観だ。愛する気持ちを止めることはできないのだと、そんな諦観である。そしてそれは、時に暴力よりも激しくひとを動かす。
そんな階下の盛り上がりをぼんやりと聞きながら、ベッドでいまだに覚醒しきらない当のウラディミル・コレンシウ伯はポポを相手に「すぐ起きる」だの「やっぱもう少し寝かして」だの口走っているが発音が不明瞭なため、ポポが無慈悲な機械声で「すみません、よく聞こえません」、「もう一度仰ってください」と繰り返している。
「そもそも俺は吸血鬼なんだぞ……昼間でも行動できるが……」
派手な美貌を誇る彼が白いベッドシーツに埋もれて物憂げな顔をするとラファエロ前派的な美しさがあるのだが、しかしそのあたりに気づいても口にしないのがポポという家人の性格である。そのポポに、大きくあくびをしたウラディミルが問いかけた。
「今日の最新ニュースは?」
「ここ2番街アンガス卿の邸宅が襲撃された事件です。死傷者は出ていません。邸内にはアンガス卿とそのご家族、甥のマーク・アンガス氏と、その同僚ニコラ・マニウ氏がいたそうです」
「……犯人は?」
学習型AIを搭載した家事手伝いロボットがしばしの沈黙の後、あのあどけない機械音声で答えた。
「正確なところは分かりかねますが被害者曰く、犯人はストリボーグを自称していたとか」
吸血鬼は手近なところに置いてあった服に着替え、部屋を出る。庭からは変わらず楽しげな声がしている。
「忠告を受けたその日に襲われるとは、運の無い方々だ。それにしても、ストリボーグがこの手のことをしくじるとは。仮にも最強の吸血鬼と呼ばれた身で、だらしのないことだ」
少し前を歩く家主の顔を、ポポは見ることはできない。彼が階段を降りて庭に出ると、アビーとテオがきゃあきゃあとはしゃいだ声を上げた。
「伯、朝からそれはちょっと刺激が強すぎますわ!」
「セレブゴシップ誌の表紙でも飾る気ですか?」
「旦那様、ちゃんとシャツのボタンをお留めになって……ポポ、手出しはいけません、この人はとっくの昔に大人なんですからね」
左右と前方から飛んでくるにぎやかな声に、自分でシャツのボタンを留めながらウラディミル・コレンシウはのどを震わせて笑う。その彼が椅子に座ると、養い子たちがそう言えば、と思い出したように言う。
「ミスターマニウは多分、気づいていると思いますわ。私たちのこと」
「昔の名字は何かって聞かれましたから」
コーヒーカップに口を付けていたコレンシウ伯爵は「そうか」と目を丸くする。
「昨日、伯はストリボーグの名を出してあのミスターマニウを脅したようですが、あまり意味はないでしょう。あの人、とっても真面目なお手本みたいなおまわりさんだから」
「うん。僕らのこと、本当に心配していた。……良い人でしたよ、マニウ氏は」
ね、と互いに顔を見合わせて笑う養い子たちを見つめて、養父はただ一言「そうか」とだけ返事してテーブルにおいた手を拳に握る。そしてしばらくの沈黙ののちに宣言した。
「あの刑事たちはアンガス邸襲撃を足がかりに、ストリボーグを捕まえようとするはずだ。その前に俺たちが打って出て、ストリボーグが警察と再び接触する前に奴を処分する。ダニー、ポポ、ストリボーグの場所を特定してくれ。……アビー、テオ、俺のためなら何だってできるのだったな? ならば俺について来い」
牙をちらつかせる自信に満ちた笑みを向けられて、途端に眷属たちは頬を紅潮させて踊るように椅子から立ち上がる。居住まいを正した二人は優雅な仕草で深く礼をして声をそろえた。
「よろこんで、我が伯爵閣下!」
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