舞台に死す

由水李予

第1話

 桜の盛りが過ぎて、花吹雪も最後になるかという頃、小笠玲那おかされなは大学キャンパスの掲示板の前に立っていた。玲那はこの春大学に入学したばかりの新入生で、勉学以外にとある目的を持ってこの大学にやって来た。彼女の視線は掲示板上に隙間なく貼られた大学サークルの勧誘チラシの上を熱心に行き来している。

「小笠さん?」

 そんな彼女に声をかける人物がいた。

「あ、糸井さん」

 そこにいたのは同じ学部で同級生の糸井章子いといしょうこだった。糸井は入学試験を主席で合格した秀才である。玲那とは入学式のレクリエーションで隣に座って以来、会う度お喋りをする仲だ。糸井は頭が良いため近寄りがたい雰囲気があるが、どこかぼうっとしたところのある玲那をさり気なく助けてくれる優しい人間だ。

「ずっと掲示板の前で何やってるんだい? そんなに面白いサークルがあるの?」

「うーん、面白くはないんだけど、何か手掛りはないかと思って見ていたの」 

「手掛り?」

 玲那がこの大学を選んだ目的は十歳年の離れた兄を探すことであった。玲那の兄は大学で演劇にのめり込み留年をした結果、親に勘当されて五年前に音信不通になってしまっている。同じ大学に行けばもしかすると会えるかも知れないと思い、猛烈な受験勉強をしてなんとか難関大学に受かったのだ。

「兄は学生劇団で熱心に活動していたから、どこかに名前があるかも知れないと思って見ているんだけど、全然見つからなくて」

「お兄さんはなんていう名前?」

小笠有人おかさありひと、っていうの」

 掲示板には五枚ほど劇団サークルの公演チラシが貼られているが、そのどこにも兄の名前は書かれていなかった。玲那の隣に立つ糸井もじっと掲示板を見つめ始める。しばらくは視線をうろつかせていた糸井だったが、おもむろにとある一枚を指さした。

「これを見て」

「え?」

 目を皿のようにして確認したはずのチラシをもう一度読む。

 ~~~~~

 劇団ベニトカゲ『青鬼あおおにの女』

 ・主演……宮園みやぞの 由香里ゆかり

 ・脚本……落平おちひら 朝子あさこ

 ・演出……武智たけち おさむ

 ・演出助手……佐々木ささき 千香ちか

 ・大道具……矢島やじま 敏也としや

 女優、弓野卯月ゆみのうづきの伝説の舞台が今甦る!

 ~~~~~

「この演劇公演にお兄さんが関わってるんじゃないかな」

「どこにも兄の名前が書いてないけど……」

 玲那が何度読み返しても兄の名前は見つけられない。そこで糸井はある一行に人差し指を滑らせる。そこには『落平朝子』と書かれていた。

「この人がどうかした? 女性のようだし、兄となんの関係があるの?」

「名前がそのまま書かれているわけじゃないから一見わからないけど、お兄さんの名前をローマ字にして逆さから読んでごらんよ」


 OKASA ARIHITO(おかさ ありひと) → OTIHIRA ASAKO (おちひら あさこ)


「あ!」玲那はぽかんと口を開けて糸井の顔を見た。

「ほらね」

 なんでもないことのように、糸井は澄ました顔をしていた。


 翌日、玲那と糸井は一見廃墟のような洋館の前に立っていた。

「なんでわたしまで?」

「頼りにしてるよ、糸井さん。今度学食おごるから」

 公演チラシに書かれていた劇団ホームページから新入生見学会が開催されていることを知った玲那は、糸井を連れて指定された建物に来ていた。その建物は大学から数十分歩いた場所にあり、見た目は古びた西洋風建築の洋館だったが、内装は改築して一室を劇場として利用しているらしい。

 待ち合わせ場所は洋館の玄関ホールだったので、ドアをぎしぎし鳴らしながら中に入る。ドアが開く音が聞こえたのか、建物の奥から人が現れた。小柄で眼鏡をかけた女性だ。作業中だったのか着ているジャージは埃っぽく、手には軍手をはめている。

「あの、すみません。見学希望なんですけど……」

「あなたたちが昨日見学会に申し込んでくれた新入生?」

「はい、そうです」

「わざわざこんなところにようこそ。ごめんね、もうすぐ公演初日だから忙しくて。わたしが今日の案内役で、佐々木っていいます」

 佐々木は軍手を外しながら言った。

「小笠です」「糸井です」二人は軽く頭を下げた。

「あっちにいるのは、大道具担当の矢島さん。わたしは演出助手っていう肩書きはあるけど、言ってみれば雑用係って感じ」

 部屋の隅ではがたいのよい男が何枚もの黒い布をいじっていた。彼は無言のまま頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「この建物、歴史があるんだけどその分古くて思わぬところに段差があったりするから、足下に気をつけてね」

「洋館を改築して舞台にするなんて珍しいのでは」

 糸井がきょろきょろと辺りを見回した。

「元々は誰も住んでないぼろ屋を格安で貸し出していたのを、お金のなかった貧乏劇団が舞台用に使い始めたのがきっかけみたい。そのうち他の劇団も使い始めて、あれよあれよと舞台専門になっちゃったてわけ。あの扉の奥が劇場よ」

 玄関ホールの奥には両開きの扉が二つあった。

「近くに新しい演劇ホールができてるんだけど、『青鬼の女』をやるんだったら五年前と同じ場所がいいしね」

「あの、すみません……」

 玲那がおずおずと切り出した。

「『青鬼の女』ってどんな舞台なんですか?」

「知らずに来たの? こんな小劇団に見学に来るくらいだから、知ってると思ってた」

 玲那は糸井と目を合わせた。兄を探していることは黙っておこうと二人で決めた。妹に気づいて兄が雲隠れするのを阻止するためだ。

「わたしたち、チラシを見て興味を持っただけなので、何も知らないんです」

「そうなのね。じゃあ、軽く説明するわ。『青鬼の女』っていうのは五年前にこの劇場で公演された舞台で、その当時ものすごく評判になったの。死を呼ぶ舞台って言われて、半ば伝説化しているわ」

「死を呼ぶ舞台って……?」

 なんだか物騒な話になってきたと玲那が息を呑んだとき、部屋の奥の扉が開いて一組の男女が現れた。

「その二人が新入生かい?」

 男の方が声をかけてくる。ぎょろっとした目をした中肉中背の男だ。服装はこざっぱりとしていて普通だが、どこか浮世離れした雰囲気がある。

「こんにちは。僕は武智といって、劇団ベニトカゲの主催者で今回の舞台の演出をしているんだ。この劇団はここにいる四人だけだから、新入生が来てくれてうれしいよ。ちょうど稽古の途中休憩なんで何か質問があれば答えるけど」

「武智さん、この子たち『青鬼の女』に興味があるみたい」

 佐々木が武智に飲み物を渡しながら言った。

「おお、それはお目が高いねえ。『青鬼の女』を見たときは本当に衝撃だったから、僕はそれをなんとかして再演したいんだ。弓野卯月と落平朝子の伝説の舞台を再現するなんて無茶だって周りは言うけど、弓野卯月の再来と言われる宮園くんがいる今こそ、やってみる価値がある」

 武智の後に来た白いワンピースを着た女性は苦笑を浮かべてこちらを見ている。彼女が宮園のようだ。モデルのようにほっそりとした背の高い美人で、彼女はさらさらと黒い長髪をなびかせながら近くの椅子に座っている。その隣では佐々木がお茶にタオルにと甲斐甲斐しく世話を焼いていた。

「武智さん、恥ずかしいこと言わないで」

 タオルで汗を拭きながら、宮園は当時を思い浮かべるように言った。

「卯月さんは本当に特別な女優だった。舞台に立っているだけで存在感があって、照明が当たってないのに彼女の周りだけ明るく見えた。わたしなんて全然追いつけてないわ」

「確かに弓野卯月は特別な存在だった。いわゆるファニーフェイスというやつでね、表情や仕草が日本人離れしていて、舞台上でよく映えていた。だけど宮園さんには弓野卯月と逆の魅力がある。君の繊細な演技は観客を引き込む力がある。だからそんなことは言わないでくれ」

「武智さんに言われると自信がつくわ」宮園は朗らかに笑った。さらに武智は熱弁をふるった。

「そして忘れてはならないのが脚本の落平朝子だ。」

 その名前を聞いて、玲那たちはいっそう耳をそばだてた。兄の話が出るかもしれない。だが、武智の話の内容は二人の期待に沿うものではなかった。

「弓野卯月の舞台は常に一人芝居で、その脚本はすべて落平朝子のものだった。落平朝子は謎に包まれていてね。脚本家として名前は残っているけれど、表には出てこず誰も姿を見たことがない」

 玲那はこっそりとため息をつく。結局、落平朝子の居場所を知っている人は誰もいないということだ。武智は玲那たちの様子には気づかず話を続ける。

「弓野卯月と落平朝子は十年前に突如として現れた。落平朝子の観客に語りかけるような独特な言い回しと、弓野卯月の太陽のような輝きに溢れた演技により、舞台は常に熱気であふれ、すばらしいものになっていた。彼女たちは年に数回の少ない公演の中で数多くの賞賛を得ていた。だが、弓野卯月は五年前に突然活動を停止してしまう。その最後の舞台が『青鬼の女』なんだ。一人の女が狂って地獄に落ちる様を描いた作品でね、弓野卯月の狂いように中てられて、舞台を見た人間が死んでしまうと伝説となったんだ」

「実際に死んだ人がいたんですか?」

 糸井が疑わし気に尋ねた。

「ああ、公演が千秋楽を迎えた日の夜に、劇場で死体がみつかった。その死体の有様が、舞台の死と同じ姿だったから、憶測が憶測を呼んで、いろんな噂が立ったものさ」

「舞台のせいで殺人が起こったんですか?」

 殺人という言葉を聞いて玲那はぎょっとする。

「いや、殺人ではなく自殺として片がついたよ。そんな事件があったこともあって『青鬼の女』は特別な作品なんだよ。我が劇団としては、この作品を成功させて箔をつけたいってわけさ」

「武智さん、そろそろ休憩も終わりでしょ。早く稽古を再開しましょ」

 武智はまだ話し足りなさそうであったが、宮園が話を遮って止めた。佐々木が慌てて立ち上がる。

「少しだけ待ってください。この子たちに舞台を見せてあげたいんです。さ、こっちにどうぞ」

 佐々木は奥へ玲那と糸井を導いた。両開きの扉が開くと、玄関ホールよりも開けた部屋に出る。右手に舞台があって、左手が観客席になっていた。舞台は十人も立てばぎゅうぎゅうになるような小さなもので、観客席も五十人ほど入るかというくらいの広さだった。

「客間とリビングの壁を壊してワンフロアにしたものなの。舞台自体はひな壇を組んだだけのものだけど、ここに暗幕を垂らして照明器具をしっかり取り付ければ、結構雰囲気が出るのよ。特に一人芝居だと客席との距離がちょうどいいの。これからこの舞台に装飾を施していけば、さらに雰囲気が出るわ。さっき矢島さんが黒い布をいじってたでしょ? あれを裂いて天井からぶら下げるの」

「なるほど」

「さあ、これで新入生歓迎ツアーは終わり。来てくれたあなたたちには『青鬼の女』のチケットをあげるわ。一週間後に公演があるからぜひ見に来てね」

「ありがとうございます」

 玲那たちが部屋から出るのと入れ替わりに武智と宮園が舞台へ向かう。そこで武智が声をかけてきた。

「そうだ。昔の公演に興味があるんだったら、この劇場の近くにある『空き地』という喫茶店に行ってみればいいよ。マスターが演劇に理解のある人でね。ここらの劇団の公演チラシなんかは全部『空き地』に置いてあるし、マスターもたくさんの舞台を見に来ているから」

「そうなんですか。行ってみます」

 玲那と糸井は頭を下げて劇場を後にした。


「残念ながらお兄さんの手掛りは掴めなかったね」

「これからどうしよう……」

「五年前の公演のことを調べてみようよ。音信不通になった時期とも合うし、お兄さんが関わっていたことは明白だからね。まずはさっき教えてもらった喫茶店へ行こう」

「嫌々ついてきたのに、ずいぶん協力してくれるんだね」

「見学会ですぐ落平朝子に会って終わりかな、と思ってたんだけど、全然姿を現さないから燃えてきたよ。しかも死人まで出てきてしまったし」

 玲那もそのことは気にしていた。兄が書いただろう脚本で自殺者が出てしまっているのだ。妹としては複雑な気持ちになる。

 糸井は玲那のことを気にせず、喫茶店の場所を調べて腕を引っ張る。

「こっちみたい。早く行こう」

 五分ほど歩くと、町屋を改装したとみられる木造の建物があった。柱に『空き地』と書かれた看板がかかっている。糸井はからんからんとベルを鳴らしてドアを開けた。

「いらっしゃい」

 店内は昼間にも関わらず薄暗かった。老舗の喫茶店というと格式ばった感じがして入店しづらいのだが、『空き地』はアンティーク調の家具でまとめられていながらも、どこか懐かしい雰囲気で玲那にとっては心地よかった。カウンターの奥から、髭を生やしたふくよかな体のマスターが出迎えてくれる。入口付近は椅子や照明器具が並べられていてごった返していた。玲那たちはドア近くの椅子に座ろうとしたがマスターに止められる。

「奥のカウンター席にどうぞ。散らかっていてすまないね。近くの劇場に色々貸し出すものだから」

 玲那たちは席について飲み物を注文した。玲那はホットコーヒー、糸井はカフェラテを頼んだ。注文を待っている間に店の中を見回すと、壁に多数の公演チラシが貼ってある。古いものから新しいものまで、元の壁紙が見えないほどに張り巡らされていた。

「どうぞ」

 マスターが飲み物を持ってきた際に糸井が尋ねる。

「演劇がお好きなんですか? こんなにたくさんのチラシ、すごいですね」

「ああ、まあね」

「『青鬼の女』という舞台は知っていますか?」

「もちろん知っているよ。この辺りの演劇関係者では知らない人はいないんじゃないかな。ここを見てごらん。これが当時の公演チラシだよ」

 マスターは壁の片隅を指さした。その他の場所は何枚もの紙が重なっているのに、そこだけは五年前の日付が入ったただ一枚だけが、少しの傾きもなく貼られていた。

 ~~~~~

 舞台『青鬼の女』

 ・主演…弓野卯月

 ・作・演出…落平朝子

 悲しき女の孤独と絶望をあなたたちに捧げる。

 ~~~~~

「落平朝子ってどんな人か知ってますか?」

 一瞬マスターの動きが止まり、二人の顔をじっと見つめる。

「おや、珍しいね。弓野卯月ではなく落平朝子のことを聞くなんて。脚本家志望かい?」

「そんなところです」

「だけど、あまり参考にならないかもしれない。落平朝子の脚本は弓野卯月あってのものだから。弓野卯月という天才がいたから、落平朝子は脚本が書けたんだ。彼女がいない今となっては、落平朝子はただの凡人さ。だから弓野卯月がいなくなったと同時に落平朝子も消えたんだ」

「なんで弓野卯月は突然引退したんですか? とてもすごい女優さんだったんでしょう?」

「ああ。彼女は特別だった。だからこそ誰も彼女の本当の姿は知らなかったんだ。引退して消えた理由も誰にもわからない」

 マスターは目を閉じて呟き、それっきりカウンターの奥に引っ込んでしまった。これ以上得られる情報は無さそうだった。

 喫茶店を出た後、玲那たちは図書館を訪れた。糸井曰く、「噂に尾ひれがついて死体が出たなんて話になっているだけかもしれない」というわけで、当時の新聞を調べることにしたのだ。『空き地』で見た公演チラシに書かれていた五年前の日付前後の記事を片っ端から目を通す。出てこないで、と祈りながら玲那は新聞をめくっていくが、地方紙の片隅にとある記事を見つけてしまった。

「これだ」

 玲那は糸井に声をかけた。糸井はすぐに近寄って新聞をのぞき込む。

 ~~~~~

 ○○月××日、△△区の建物から女性の遺体が発見された。持ち物から女性は山根一花やまねいちかさん(二十二歳)と見られている。遺体発見の前日、この場所では演劇公演が行われていたが、遺体との関連性はわかっていない。争った形跡がないことから警察は自殺として調査を進めている。

 ~~~~~

「確かにこれだね。死体が出たって言うのは本当だったか……」

「兄を探したいだけなのに、なんだかきな臭い話になってきちゃったな」

「ふむ」

 糸井は顎に手を当てて思考を巡らせた。

「今までわかったことを簡単にまとめてみよう。小笠有人は落平朝子として演劇界で脚本家として活躍していた。そう推測される理由は、落平朝子が小笠有人をローマ字で逆読みした名前であるからだ。その落平朝子は女優・弓野卯月とともに十年前から活動していたが、五年前の『青鬼の女』の公演を最後に二人とも姿を消してしまっている。ちなみに『青鬼の女』はいわくつきの舞台で自殺者も出ている」

「落平朝子を探すのは難しいよね。五年前でさえ姿を現さなかったっていうのに」

「弓野卯月とセットで探すしかないね。お兄さん、役者やってたとかないの? そうすれば落平朝子イコール弓野卯月説が考えられるんだけど」

「それはないよ。ひょろっとして地味な兄だったから、役者なんてする柄じゃないし、女役なんてもってのほかだよ」

「じゃあ落平朝子イコール弓野卯月説は無しでいいか。こうなれば、一週間後の公演にお兄さんが来ることを期待するしかないな。自分の書いた脚本が五年ぶりに再演されるのだから来ても不思議じゃない」

「なるほど」

 二人は一週間後の公演で落ち合うことを約束して別れた。


 一週間後の公演初日、玲那と糸井は劇場の前に立っていた。

「けっこう人が来てるね」

「これは期待が持てる」

 受付にはかなりの人が並んでいた。あの狭い劇場に全員が入れるか不安になるほどだ。受付は佐々木が一人で回しているようで、列を捌くのに時間がかかっている。見かねた糸井が佐々木に声をかけた。

「あの、手伝いましょうか?」

「ごめん、助かるよ」

 チケットのもぎりをしながら佐々木が礼を言う。

「いえいえ、チケットをもらいましたし」

 二人は受付のテーブルに立ち、佐々木と一緒にチケットを確認していった。並んでいた客たちがどんどん劇場内に吸い込まれていく。

「すごい人ですね」

「いやあ、ある程度人が集まると予想していたけどここまでとはね。流石は『青鬼の女』」

 公演十分前になって、やっと人がまばらになる。

「ありがとう。もう大丈夫だから二人とも劇場に入って」

 汗をぬぐった佐々木に促されて玲那たちは部屋の中に入った。観客席はあちこちから集められたであろう椅子でびっしり埋まっており、既に人でいっぱいだった。椅子はパイプ椅子や長椅子がほとんどだったが、最前列にはアンティーク調の椅子が並べられている。どうやらそこが特等席らしい。玲那と糸井は最後列の長椅子を詰めてもらい、なんとか座ることができた。部屋の中は隣の人と肩が触れあうほどにぎゅうぎゅう詰めになっており、人いきれで少し息苦しく思えるほどだ。

 舞台上には真ん中に一脚の椅子が置かれていた。木製の重そうな椅子だ。また、天井からは無数の黒い布が大小多数のアーチを描きながら垂れ下がっている。

「まもなく公演が始まります。劇場内の皆様は携帯の電源を切り、他のお客様の迷惑にならないようご協力お願いします」

 スピーカーから佐々木の声が聞こえてきた。その声を合図に段々と照明が暗くなっていく。完全に暗転して少しした後、今度は舞台の椅子の上に徐々にスポットライトの光が降り注ぎ、宮園の姿が現れた。

「わたしはあなたの地獄です。あなたはわたしの地獄です。この世の地獄がここにあります……」

 宮園の口上から舞台は始まった。椅子に座ったり、その周りを歩き回ったりして進行していく。宮園が動くたびに舞台上の黒布のアーチがゆらゆら揺れ、時折彼女の顔や体を隠していた。玲那は宮園に釘付けになっていた。小さな劇場であるから、宮園の筋肉のこわばりや声の震えが玲那の身体へ直接語りかけてくるようだった。だが、玲那にはある違和感があった。宮園の演じる鬼女が誰かに操られているように感じるのだ。もしくは、先生の目を気にする生徒を見ているような感覚。その不協和は公演の最後まで拭われることはなかった。

「ここはとても静かです。すべてが破壊されています。わたしはようやく眠ることができます……」

 やがて、宮園は椅子に座りゆっくりとまぶたを閉じた。それに伴い照明が徐々に暗転していく。暗転の後はカーテンコールだった。どこからか武智が出てきて、宮園と二人でお辞儀をした。

「これにて舞台『青鬼の女』の公演は終了です。劇場内は混み合っていますので、出口付近のお客様から順番に退室いただきますようお願いします」

 公演前と同様に佐々木のアナウンスが流れる。玲那たちはすぐに外へ出た。

「すごかったねえ。わたしこういう小劇場の舞台は初めてだったからドキドキしたよ」

「大舞台とは違う緊張感があって偶にはよいね。それより、お兄さんはいたのかい? せっかく受付までしてお客さんと接する機会を作ったっていうのに」

 糸井に言われて玲那は慌てて気を引き締めた。本来の目的を忘れてはならない。

 劇場から玄関ホールにつながる扉は二つあった。舞台側の扉は関係者のみ使えるようで、そこから出てきたであろう武智と宮園、裏方の矢島が退室するお客さん一人一人に頭を下げている。佐々木は部屋の中で退室の順番をアナウンスし続けているようだ。

 客席側の扉からはぞくぞくと観客が出てきた。邪魔にならない程度に離れて立ち、扉から出てくる人の顔を確認する。幸いにして、扉は大人二人が通れるほどの大きさだったので、確認作業は滞りなく進んだ。

 大勢の人が出て行き、人もまばらになってきたが、兄を見つけることはできなかった。玲那はため息をつく。

「いないなあ」

「公演にも来ないということは、もう大学周辺にはいないのかもね。そうなると全国各地の劇団を虱潰しに探していくしかないんじゃない? ものすごく時間がかかるだろうけど」

「そんなあ……」

 玲那ががっくりと肩を落としていると、見覚えのある顔が部屋から出てきた。喫茶『空き地』のマスターだ。彼が最後の一人だったようで、玲那は本格的に気持ちが重くなってきた。そんな玲那を尻目に糸井は軽く頭を下げる。

「お店に来てくれた子たちだね」

「はい。その節はありがとうございました」

「舞台はどうだった?」

 暗い喫茶店ではなく明るい室内光の中で見ると、マスターは意外と若く見えた。あご髭を触りながら玲那たちに問いかけてくる。

「迫力があってびっくりしました」

「そうかい。でも五年前の舞台はもっとすごかったんだ。鬼気迫る、といえばいいかな。本当に自分のいる場所が地獄に思える感じがしてね。それを君たちにも見せたかったよ。宮園さんもよくやっていたが、弓野卯月の影響を受けてしまい、持ち味を活かし切れなかったようだね」

 マスターの言葉で公演中に感じた不協和の正体がわかった。そうか、あの違和感は五年前の舞台を意識していたからだったか……。

 マスターと話をしていると、突然部屋の中から悲鳴が聞こえた。

 玲那と糸井は顔を見合わせる。糸井の行動は素早かった。いち早く客席側の扉から中へ入る。玲那も慌てて後に続いた。部屋の中に入って見たものは、舞台の縁で腰を抜かしている矢島と、舞台の中央で首を吊っている佐々木の姿だった。

 玲那はひっと息を呑む。だが視線はしっかりと舞台に引きつけられていた。舞台中央には倒れた椅子が転がっているだけで、その上で首を黒い布に絡めとられて公演前に見かけた姿のままの佐々木の身体がゆらゆら揺れている。

 糸井はそんな玲那を構わず舞台上に駆け上がっていった。そして佐々木の手首を手に取る。

「脈がない……」

 その声は吐息のように小さかったが、劇場内の静寂の中に響き渡った。


 警察を待っている間、玲那たちは玄関ホールに集まっていた。場には重苦しい空気が流れている。糸井は少し気になることがあると言って客席を歩き回って確認した後、何か考え込んでいるようだった。

「自殺なんてするようなやつに見えなかったのに……」

 矢島がぼそりと呟いた。宮園はすすり泣きしており、玲那が体をさすってなんとか落ち着かせている状態だ。

 武智が魂の抜けたような声で呻いた。

「死を呼ぶ舞台は本当だったんだ……」

 その後、警察が来て捜査を行った。遺書はなく自殺と断定できる要素も少なかったため事故として処理されたが、五年前の悲劇が再び繰り返されたことにより、『青鬼の女』の噂は演劇界以外にも広まっていた。死を呼ぶ舞台で起きた謎の不審死。『青鬼の女』の伝説は各所に知れ渡っていった。


 事件の三日後、玲那は糸井に呼び出されて喫茶『空き地』に来ていた。

 ドアベルを鳴らして中に入ったが、糸井はまだ来ていない。前回と同じ席に座って待つことにする。やはりこの喫茶店はどこか落ち着く雰囲気がある。玲那が読書をして過ごしているうちに、糸井がやって来た。

「ごめん、遅れた」

 座ると同時に注文を行う。前回と同じく、玲那はホットコーヒー、糸井はカフェラテを頼んだ。

「今日はどうしたの?」

「『青鬼の女』の事件について話したいことがあるんだ。少し待って。飲み物が来てからにしよう」

 しばらくしてマスターが注文を持ってきた。

「マスターも聞いてくれますか?」

「ああ、いいよ」

 マスターはカウンターで興味深そうに糸井の顔を見つめてから、近くの椅子に腰掛けた。

「では始めようか」

 カフェラテで唇を湿らせてから糸井が口を開いた。

「まずは三日前の事件について話そう。佐々木さんは公演で使われた椅子を使って首を吊った、もしくは椅子の上でバランスを崩した結果首を吊ってしまったと考えられる。だがそれはおかしい。なぜなら、佐々木さんの靴は履かれたままだった。演劇を愛し、宮園さんを尊敬している素振りを見せた彼女が、その女優が座る舞台道具に土足で上がるだろうか。それに、舞台で使われていた椅子は重くて少し蹴ったくらいでは倒れなさそうだし、倒れたときに大きな音が響くだろうに、事件発生時だれもその音を聞いていない。よって考えられるのは、あの椅子は佐々木さんが首を吊ったときに使われたものではない、ということだ」

 糸井はここまで一息で喋ると、細く息を吐いてカフェラテを一口飲んだ。玲那は話を聞くのに夢中でホットコーヒーに手をつける暇がない。

「では、なぜあの椅子が佐々木さんの下に倒れていたか。それは誰かが佐々木さんが首を吊った後に、どこかの椅子と入れ替えたからではないかと推測される。椅子の入替を誰にも見られず行える候補は二人。遺体の第一発見者である矢島さんと、最後に部屋から出てきたマスターだ。今の段階では二人のどちらが椅子を入れ替えたかはわからない」

 マスターは自分の名前が出たにも関わらず、静かに耳を傾けている。

「ではここで、なぜ椅子を入れ替える必要があったのか、その理由を考えてみよう。その椅子を使われたとわかるとまずい人間がいるということだ」

 そこで糸井はマスターの目をじっと見つめた。

「マスター、あなたはこの喫茶店から劇場に色々なものを貸し出しているといっていましたね。わたしは事件が発生した後、客席の椅子をすべて調べた。その中に、一つだけ脚が折れている椅子が見つかった。それはこの喫茶店にあった椅子と同じものでした」

 礼奈は最前列の椅子にアンティーク調の椅子が使われていたことを思い出す。

「事件当日の各人の動きはこうだ。佐々木さんはお客さんを退室させた後、黒布が外れかかっているのを見つける。それを直そうと彼女は観客席の椅子を舞台上に持って行き、椅子を足場にした。彼女は小柄だからね。だが、そこでタイミング悪く椅子の脚が壊れ、運悪く首に布がひっかかってしまったんだ。退室時に首吊り現場を目撃したマスターは、壊れた椅子が自分の喫茶店であることに気づいた。そのままにしておけばすぐに原因が『空き地』の椅子であることはばれてしまう。罪に問われるのを恐れ、壊れた椅子を観客席に戻し、舞台上で使われていた椅子を誰にもばれないよう静かに倒した。まるで佐々木さんが自殺したように見せるために」

 糸井の言葉を聞いてマスターは首を横に振る。

「すべて憶測だ。それにそうだとしても、事故、もしくは過失であって殺人ではない」

「だが、あなたは知っていたんじゃないですか? 壊れかけた椅子が混じっていたことに。だって、前回わたしたちが来たとき、入り口付近の劇場に貸し出す椅子に座らせませんでしたよね。貸し出す前であれば、座らせない理由はないはずだ」

 確かに、前に玲那たちが来たときもこのカウンター席に座っていた。まだ事態を飲み込めない玲那が声を上げる。

「でも、なんでマスターがそんなことをするの?」

「ここで、五年前の話に移ろう。五年前も今回と同じように、公演の後に死者が出た。その名前は山根一花。あなたはその人を知ってるんじゃないですか?」

 山根一花の名前が出ると、マスターの目に動揺が走った。

「なぜなら、弓野卯月の濁音を外して、ひらがな五十音順で一文字ずつ後ろにずらすと、山根一花になるからね。弓野卯月とは、山根一花の芸名だったんだ」


 ゆみのうつき → やまねいちか


「あ!」

 玲那は思わず大きな声を上げた。

「そりゃあ弓野卯月は姿を消すわけだ。なぜなら彼女は死んでるのだから」

「確かに山根一花さんは知っているが、それでなぜ僕が壊れた椅子を貸し出す理由になるんだい?」

「『いちか』をローマ字にして逆から読むと、『空き地』になる。この喫茶店は山根一花さんに由来したものでは?」


 ITIKA(いちか) → AKITI(あきち)


「この読み方は……」

 玲那の声は震えていたが、糸井は話を止めなかった。

「この変換の仕方は、『落平朝子』と『小笠有人』の名前の法則性と同じだ」

 マスターは『小笠有人』の名前が出た途端、はっとして視線を玲那に向ける。

「そう。マスター、ここにいるのは小笠玲那さん、小笠有人の妹です。兄を探しに同じ大学に入学したんですよ」

 玲那はじっくりとマスターを見た。太って髭まで生やしていたから気づくことができなかったが、暗い瞳の奥にかすかながら兄の面影を見つけた。

「お兄ちゃん……?」

 その言葉を受けて、マスターも玲那の全身を見つめた。十代の成長期の間を会わなかったからか、自分の妹だと気づかなかったようだ。

 玲那とマスターの反応を見て糸井は話を続ける。

「マスター、あなたは落平朝子、すなわち小笠有人ですね? これは推測ですが、あなたは五年前の舞台の名声を汚されたくなくて、今回の舞台を失敗させるために壊れかけた椅子を貸し出したのでは? だが、椅子は結果として佐々木さんの命を奪ってしまった。そして、あなたは自分の椅子だとばれないように椅子を入れ替えた」

 マスターは深く息をついてから、観念して口を開いた。

「それは違う。自分の椅子かどうかなんてどうでもよかった」

 そして、疲れた目で二人を見る。

「不審死だったからこそ、『青鬼の女』の評判はさらに広まっていっただろう? 初めはちょっとした出来心だった。公演中に最前列の椅子が壊れでもしたら、場が白けて台無しになるかもしれない。それくらいの気持ちだった。それなのに、その出来心は新たな死を呼んでしまった。そこで悪魔の囁きが訪れた。この死を五年前と同じく自殺にしてしまえば、『青鬼の女』の、弓野卯月の伝説はさらに強固なものとなるのではないか、と……」

 マスターの目は徐々にうつろになっていく。

「弓野卯月は死んでない。死んだのは山根一花であって、弓野卯月は伝説の中で生きているんだ。彼女はそうやって舞台を永遠のものにしたんだ……」

 マスターの視線は壁の『青鬼の女』の公演チラシの上を彷徨っていた。

「さあ、もう出て行ってくれないか。早いけど店じまいにするよ」

「お兄ちゃん……」

「今日のところは引き上げようよ、小笠さん」

 糸井が玲那の腕を引く。ホットコーヒーとカフェラテは冷えてしまい、最後まで飲むことはできなかった。


 二人は喫茶店を出て川沿いの道を歩いていた。桜の花はほぼ完全に散ってしまい、柔らかな新緑が目に鮮やかだ。

「次に兄に会うときはどんな顔すればいいかな」

「会わない方がいいかもしれないよ。彼は弓野卯月の死によって、永遠に舞台に閉じ込められたんだ。現実を思い出させても辛いだろう」

 糸井の脳裏に鬼女の台詞が浮かんだ。

『わたしはあなたの地獄です。あなたはわたしの地獄です。この世の地獄がここにあります……』

「舞台というより、地獄といったほうがいいかな」

 ぽつりと呟く。隣の玲那を見ると川の向こうをぼうっと眺めている。その頭上では桜の最後の花びらが風に舞い、やがて見えなくなった。

 春が終わる。

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