中華料理屋とバンパイアハンター
時刻は午後八時。龍将軒の店内はガランとしていた。
店前には「営業中」の札と、赤い暖簾がはためいている。
かき入れ時であるにもかかわらず、客はカウンター二人だけ。そのうちの一人はすでに食事を終えたていた。しばらくしないうちに会計を終え、店を出て行ってしまう。
店主と客が一人。厨房で煮え立つ湯の音が、静かな店内に聞こえていた。
不思議と、飲食店にはこういう日が必ずある。客足が全くと途絶えて、開店休業状態の日が。そういう日はあきらめて早仕舞いをした方がいい。
龍将軒の店主五十嵐キースはそう思いながらカウンターに座る客を見た。
いや、彼は客とも呼べない。五十嵐家の跡取り、五十嵐勇作である。彼はただ実家に食事をしに来たに過ぎない。
大盛りのチャーハンと、餃子二人前を黙々と腹に収めている。
開いた丼をカウンターから回収したキースに、勇作がちらりと視線を送った。
「客来ないね」
「ああ、そういう日もある。今日は、お前が食い終わったら仕舞いだ」
「ええ、まだ八時だよ?」
「こういう日はいくら粘ったって、こないものは来ないよ」
キースの潔い引き際に、勇作はそんなものなのかと思った。商売の駆け引きはいまだにわからない。
勇作が使いにくい手を動かしながらチャーハンをかき込む。
「あーあ、こぼしてるぞほら」
すっかり店じまいのつもりのキースが勇作の隣へ座る。スプーンからぽろぽろとこぼれた米粒をテーブルから集めていた。
勇作の方はスプーンすらうまく扱えない己の手に顔をしかめる。
「なんでカッターの刃ごときでそんなデカい怪我するかね」
「俺もこんなミイラみたいにされると思わなかったんだよ」
勇作の右手は包帯に巻かれ、王墓のミイラのごとくなっている。それもこれも、勇作が大学の研究室で、手を滑らせ人差し指と中指の股をカッターで深く切ってしまったからだった。水かきの部分が左右にちぎれ、その間からダバダバと血があふれる光景に鈍い勇作もさすがに焦った。
幸い、深い傷ではなかったため縫わずには済んだが、傷跡は残るだろうとのことだった。
病院でしばらくは指を動かさないようにと言明され、傷が開かないように人差し指と中指をくっつけた状態で固定されている。
そのため、箸が使えず今日のラーメンはあきらめたのだ。
勇作の心はあと幾日したら箸が使えるようになるだろうか、という算段ばかりだ。
スプーンを指の間に何とか挟み込んで、食べづらそうにしている勇作に、キースが眉を下げた。
「食べさせてやろうか?」
「キモイ!」
親切心で手伝ってやろうかと言えばこれだ。勇作は昔から自立心が強いから仕方がない。小さなころもキースの手助けを嫌がって、できもしないことをしようとしていた。キースはそれのしりぬぐいと、勇作が怪我をしないようにと目を離せなかった。
キースは肩をすくめる。体はしっかりと大きくなったが、中身はまだまだ子供だ。
その時、店の扉がガラガラと音を立てて開く。
申し訳ないが、もう店仕舞いだと伝えようと思ったが、「こんばんは、やってますか?」の声にキースは入り口を振り返った。
「お、高橋さん。久しぶり」
「あー、高橋さん!」
キースの声に入り口を振り返った勇作も破顔した。
暖簾をくぐって店内に入って来たのは、三十半ばのスーツ姿の細身な男だった。黒縁眼鏡の奥にある垂れ気味の瞳はやさし気だ。手には、大きめのボストンバッグを持っている。
高橋と呼ばれたその男が、店内を除いてぺこりと頭を下げた。
「勇作君もこんばんは。あんまりにも静かだから、もうお店が終わったのかと思いましたよ」
「今日は妙に客足が遠くてね」
高橋はにこやかに挨拶をして、勇作と一つ間を開けてカウンター席へと座った。
キースがお絞りを渡しながら「なんにします?」と愛想よく注文を聞いた。
「ラーメンチャーハンセットと餃子二人前」
と高橋が迷いなく答える。
何を隠そう、高橋はこの龍将軒の常連だ。それこそ、子供のころから通っているらしい。この三十年近くメニューを変えていない龍将軒での注文を諳んじることなど、朝飯前ならぬラーメン前である。
高橋の細身の体に見合わぬ注文の量であるが、これには理由があるのだ。
「今日は“アノ”日ですね?」
注文を受けたキースが嬉しそうに笑う。高橋もそれにこっくりとうなずいて「ええ、準備万端ですよ」とにこやかに答えた。
キースが厨房に消えていくと、高橋は勇作の手元をのぞき込んだ。
「勇作君、どうしたの? その手」
「研究室のカッターでばっさり」
怪我をした手をひらひらと躍らせながら、勇作がかいつまんで怪我の状態を説明する。
その話に高橋が顔をしかめた。「あーあ」と吐息交じりの声はまるで自分が怪我をしたかのようだった。
「気を付けてね。刃物は怖いんだから」
「はーい」
「ほんとにわかってるのかなぁ……?」
勇作の軽すぎる返事に、高橋は首をかしげている。
心配されている方はどこ吹く風で、チャーハンにぱくつくのに忙しそうだった。
怪我と言えば、と勇作が思い出したように顔を上げた。
「高橋さんの方は、足治ったんですか?」
「ああ、うん。もうほとんど。……傷跡見る?」
「ちょっと気になるけど……チャーハン食ってからでもいいですか?」
血や傷口を見るのは少し怖いが、あの大きな傷口がどう塞がっているのかも気になるのが正直なところだ。
恐怖より好奇心が大いに勝った勇作は、それでもあと数口残ったチャーハンを急いでかき込んだ。
高橋は勇作がチャーハンをかきこむのを待ちながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「実は、キースさんにもらった薬がよく効いてね。もうほとんど、傷は塞がったんだ」
先月、高橋は仕事の際に受傷して、松葉杖をついていた。今はすっかりよさそうであるが、あの包帯で巻き上げられた傷のことを勇作は思い出したのだ。
「怪我の多い仕事だと思ってたけど、まさかあそこまで大きな怪我をすると思わなくて」
痛み止めを飲んでも収まらない痛みと、慣れない松葉杖に四苦八苦している高橋のことを勇作は覚えていた。
「家族にもすごく心配をかけてしまって。」
確かに、家族が仕事から帰ってきて松葉杖をついていたら心配するに決まっている。あの怪我に比べれば勇作の切傷など子犬にかまれたようなものである。
「だから、勇作君もキースさんに心配かけちゃだめだよ?」
そう続ける高橋に、勇作がチャーハンを飲み込みながらコクコクと頷いた。
「マジで大変そうでしたよね。」
「いやぁ、まさかねぇ。ケロべロスの子犬があんなに大きいものは思わなかったから。油断しちゃったよ。ほんとに……」
「ヤマタ君、元気にしてましたよ。ますますデカくなってます」
「ヤマタ君――って、あの子犬の名前?」
「はい、写真見ますか?」
「見せて~」
勇作が傍らのカバンを漁って、一枚の写真を取り出した。
「わぁ~! かわいいねぇ。うちの犬神の小さいころ思い出すよ。」
写真を受け取った高橋が、と歓声を上げる。その眦はますます下がっていた。
写真には、黒い子犬が映っている。しかし、その首が普通の子犬とは違っていた。よく肥えてムチムチとした四つ足の体から、三つの頭が生えている。
この写真に写っているのが、まぎれもなく数か月前に高橋の怪我の原因になったケロべロスの子犬である。
子犬と言っても、体長一・五メートルをすでに超えている。ケロべロスは成犬になると最大八メートルほどになると、ヤマタ君を預かってくれているドッグブリーダーが勇作に教えてくれた。
そう、まぎれもなくあの地獄の番犬・ケロべロスなのである。
高橋が仕事で訪れた廃屋で、違法に飼育繁殖されていたらしい。それを捕まえようと近づいた際にじゃれついたヤマタ君に高橋は足の肉を嚙みちぎられかけた。
「やっぱり大きいよねぇ。嚙まれていなかったらもふもふしたかったなぁ」
「今は、だいぶ力加減もわかってきたみたいですよ。今度一緒に見に行きます?」
「僕のこと覚えててくれてるかな」
高橋が肩をすくめた。眦は下がったまま、目じりのしわが深くなっている。
ところで、と写真を勇作に返しつつ、彼が声を低くして尋ねた。先ほどと打って変わって、真剣な表情だ。
「……ねぇ、ケロべロスの写真いつも持ち歩いてるの?」
「はい、お守りになりそうなんで」
勇作のカバンの中からヤマタ君の写真が出てきたのが気になったらしい。笑顔は崩さぬまま、困ったような顔で勇作に尋ねる。何か言いたげではあるが、それを直接言わないのが大人である。
それに対して、勇作の方は特に違和感を覚えていない。心からケロべロスの写真はお守りになりそうであると思っているし、ケロべロスの子犬の写真をかわいいものであるとも思っている。吸血鬼に育てられたせいであろうか。
「勇作君、変わってるよね」
「まぁ、育ての親が吸血鬼だもんで」
「あんまり一般の人には見せないようにね。びっくりさせちゃうから」
高橋の忠告に勇作がようやく状況を理解してこっくりと頷いた。
「ああ、そっか。あんまり、見慣れない生き物ですもんね」
「うん、吸血鬼もね」
勇作が不思議な状況に慣れすぎているだけだ。いや、慣れというか、生まれてこの方一緒に暮らしているのだから、それを不思議とも思わないのだろう。ましては、吸血鬼と言えど、姿かたちは人と同じ、キースに至っては長く生きた吸血鬼であるがゆえに、人間の生態に完全に適応できているのだから。
勇作も鈍くはない。高橋が伝えたいことを察して、深く頷いていた。
最後の一口のチャーハンを飲み込んで、勇作が顔を上げる。真剣な顔をして高橋に向き直った。
「じゃあ、早速見せてもらってもいいですか?」
「おじさんの脚なんか見ても、何も楽しいことないと思うけど……」
「いや、キースの薬がどれくらい効くのかと思って」
高橋が「やっぱり、勇作君変わってるよ」と笑いながら、スーツのズボンをめくった。
あらわにされた脹脛の真ん中あたりに、ピンク色の傷口が盛り上がっていた。傷口の淵は、まだ赤みが残っている。
「痛くないんですか?」
「うん、もう痛みはないかな。動かすとちょっと引き連れるくらい」
高橋が足を動かすと、ぐっと筋肉が盛り上がる。薄ピンク色の傷口が、突っ張っているようだった。勇作は傷口よりも筋肉質な脚に、圧倒されている。
勇作はなかなか筋肉が付きにくい体なのだ。食べても食べても肉は付かないし、筋トレのためにジムに通ったこともあるが、体はヒョロヒョロのままだ。人よりも力はある方だが、やはり見た目の不健康さをなんとなく気にしている。
それに対して、高橋の脚の立派な筋肉覆われている。きっと、一朝一夕作り上げられたものではない。勇作が逞しいその足にくぎ付けになっていると、頭上から呆れたような声がかかった。
「ちょっと、高橋さん。うちの子にあんまり刺激の強いもの見せないでくださいね。夜寝れなくなっちゃうから」
「あはは、ごめんなさいね。子供の知的好奇心を満たしてあげるのも大人の役割でしょう?」
「そんな好奇心満たさなくてよろしい」
キースが眉間にしわを寄せながら、高橋の前にラーメンの丼を置いた。
「わー、おいしそう! 仕事帰りのラーメンはやっぱり最高ですね」
湯気を上げるラーメンを前に、高橋が目を輝かせる。丼をのぞき込むので、眼鏡が白く曇っていた。
「高橋さん、今日はどっちの仕事だったの?」
「今日はバンパイアハンターの方ですよー」
高橋が上機嫌に答えてラーメンに胡椒を振った。
「今日は悪いバンパイアでした?」
と勇作が訪ねるのに、高橋は手を拭いてから首を横に振った。
「いやいや、若いバンパイアでさ。ちょっと注意して終わったよ」
「若いったって、人の姿なら二百歳は超えてるでしょ?」
「人の世に馴染むのには時間がかかるでしょう? キースさんも、苦労したんじゃないですか?」
「ああ、いや、まぁ……」
高橋の一言にやりこめられて、キースがしりすぼみになる。もごもごと何か言い募ろうとして、言葉にならなかった。
何を隠そう、今目の前にいる高橋清吾は由緒正しいバンパイアハンター組織・高橋組の六代目である。
昨今におけるバンパイアハンター事情は厳しい。最盛期には日本国内にも三百万人ほどいたバンパイアハンターは今や十万人ほどに減っている。代を重ねるうちにバンパイアハンターたちの技量が上がり、吸血鬼の捕縛に人数を割かなくなったことに加え、吸血鬼たちの年齢も次第に上がっていき、老成したものやキースのように人間と暮らしているものなども増えてきて、吸血鬼が事件を起こすことも少なくなってきていた。
家業としてのバンパイアハンターは減っていき、高橋のようにバンパイアハンターが本業であるものはさらに少ない。高橋の話によれば、バンパイアハンターが稼げる副業になっていることの方が多いという。
勇作は一度だけそのバンパイアハンターの会合という物に連れて行ってもらったことがあったが、有名企業の会社員から医者、会計士、弁護士などの士業が並んでいたり、警察官や自衛官、消防士、魚の方の漁師や狩りの方の猟師、農家、保育士、スポーツ選手、関取などなど多種多様な自営業など、他業種交流会となっていた。
高橋が柔らかに笑みながら続ける。
「それに、僕は本質的に悪いバンパイアというのはいないと思うんだ。皆、人間の世界を知らないだけ。無知を罪だと断じてはいけない」
「そ、それはそうですけど……」
「キースさんも、多少は身に覚えがあるでしょ?」
「ま、まぁ、若いころは――いろいろしましたけど」
「ほらね」
タジタジのキースに高橋は穏やかにうなずいて見せた。
しかし、キースの言い分も高橋はわかっているのだ。人間に限りなく馴染んでいるキースは、吸血鬼の評判が悪くならないように常に気を使っている。自分や一緒に暮らす勇作にもそのような目が向けられることを常に心配している。
キースは長すぎる生の中で、人間の偏見の根深さについて誰よりも理解しているつもりだ。
だが、バンパイアハンターである高橋に言い込められてしまうと、何も言い返せなくなってしまう。
キースは高橋組とは先々代からの付き合いだ。先々代との出会いはもちろん、吸血鬼のキースを捕縛しに来たことだった。だが、キースの出したラーメンを食べて先々代は考えを改めたという。高橋家先々代・高橋清嗣曰く「あんなにおいしいラーメンを作れるキースさんが悪さをできるわけがない」というわけだ。
バンパイアも善しあしというわけである。
キースも人がおいしそうに食べているのを見るのは好きなようであったし、そのころにはだいぶ人との生活にも慣れていて、なおかつ五十嵐家の一員として受け入れられていたこともあったのだろう。
キースが焼きあがった餃子を勇作と高橋の前に置く。
勇作は左手で小皿を渡しながら高橋に尋ねた。
「でも、キースは血を吸うって言ってたぜ。悪い吸血鬼だ」
「知らないのかい、勇作君」
高橋がカバンから小さなプラスチックケースを取り出す。その中から親指ほどの何かを取り出した。全体的にピンク色のそれからキャップを外すと、高橋が人差し指の先に押し当てる。
パチンと音がして、押し当てた指先からぷくりと赤い血が盛り上がった。
「キースさんが一回に吸う血の量はこんなもんだ」
人差し指の先。BB弾より小さな血の玉ができている。
こんなもの、ほんの切り傷よりも少ない。勇作が研究室のカッターで指の股を切った時よりも血液の量は断然少なかった。
「蚊みたいですね」
「残念だけど、蚊は雌しか血を吸わないんだよ」
高橋は、指先の血を何かの機械に押し当てながら答えた。
「それに、キースさんは許可を得てからしか人の血を吸わないでしょ?」
「ん、確かに」
小皿に餃子のたれとラー油をたっぷりと出した勇作が頷いた。
高橋がカバンから細長い筒状の薬を取り出す。インシュリンの注射薬だ。
幼少のころから一型糖尿病を患っている高橋にとっては食事前のルーチンである。
「お手洗い借りますね」と立ち上がりかけた高橋をキースが止めた。
「別にほかにお客さんいないから、ここでしてもいいよ」
「え、でも……勇作君が……」
「俺全然気になんないよ」
勇作の幼馴染にも一型糖尿病を患っている人がいる。勇作にとっては幼馴染どころか幼稚園から大学まで一緒であるから兄弟のような存在だ。彼が食事の前にインシュリンを使っているのも何度も見ている。
勇作の顔色を窺っていた高橋だったが、若干食べにくそうに聞き手と反対の手を使って餃子を頬張っているのを見て、とうとう納得したようだった。
シャツをぺろりとめくりあげて、インシュリンの針をお腹にぶすりと突き立てた。
慣れてしまっているから大した痛みはない。
ようやく高橋はおいしそうなラーメンと餃子にありつけた。
一口目のラーメンをすすり上げて、小麦粉の甘みと、しょうゆの焦げた香りが高橋の腹を満たした。
人間も吸血鬼も何も変わりはないと思っているのが、高橋の正直な気持ちだ。
高橋は食事にありつくためには必ず薬が必要だし、吸血鬼は食事にありつくために必ず人間が必要だ。
人間の血を必要とする吸血鬼は人間という生き物を嫌っていようといまいと、人間と関わらなければならない。
ある者は怯えるかもしれない。ある者は敵意を向けるかもしれない。ある者は罵るかもしれない。ある者は泣き叫び、もがき苦しむかもしれない。ある者は信仰心を試されるかもしれない。ある者は受け入れるかもしれない。
そんな人間たちとのかかわりの中で吸血鬼は少しずつ人間を学び、順化していく。キースほど人と関わっている吸血鬼は珍しいものの、高橋が知る限りどの吸血鬼も少なからず人に交わって生活している。
高橋は焼きたての餃子を頬張りながら、こちらに背を向けているキースにちらりと目を向ける。
皿を洗っているようで、手元がせわしく動いている。短く切りそろえられた銀髪が、手ぬぐいの中にきれいに収められていた。
その見目の美しさを除けば百人の人間の中に放り込んでも、彼を吸血鬼だとわかるものはいないだろう。
隣の勇作は、餃子を頬張っていた。兄弟、いや親子のように仲のいい二人は家族以上の絆で結ばれている。吸血鬼と人間だから、ではない。キースと勇作であるからこの関係性が成り立っているのに違いないのだ。
洗い物を終えたキースがこちらへやってきて、勇作に「うまいか?」と尋ねる。餃子が口一杯に入っている勇作は首だけで返事をしていた。
まるで親子のようなやり取りだが、彼らの年齢は親子どころか、孫ひ孫よりもずっと開きがある。
横目で二人のやり取りを見ていると、ふとキースが高橋に目を向けた。
勇作に向けたままの優しい笑みで「高橋さんは? 足りた?」と尋ねる。
高橋はどぎまぎとしながら、すすり上げたラーメンを急いで咀嚼して飲み込んだ。
「はい、とても。お腹いっぱいです」
「そりゃよかった」
吸血鬼は皆決まって顔の造りが整っている。吸血鬼でありながら、俳優やアイドルをしているものもいるのだから、逞しい限りだ。
不意に美しい顔に微笑まれれば、慣れている高橋ですら呆けてしまう。美しいものは老若男女皆好きなのだ。
柔らかな雰囲気のままのキースが高橋に目を向けた。
「高橋さんの所はどう? 儲かってます?」
「ああ……いやぁ……」
高橋が曖昧に笑って首をかしげて見せる。正直芳しくはない。この時期に売り込みをかけてみるものの、高橋のやり方が悪いのかいつも客の反応はいまいちだ。
「冬に対策した方がいいって、売り込んではいるんですけどねぇ。素人さんにはわからないみたいで」
「まぁ、実物が出ないとやっぱり危機感抱かないんじゃないですか?」
「やっぱりそうかなぁ……難しいよねぇ……」
経営者二人がカウンターをはさんでうんうんと唸っていた。
難しい話の分からない勇作は黙々と餃子を口に運ぶ。
餃子の数が減っていくにつれ、二人の会話から拾った断片的な情報がつながって来た。
そして、どうも高橋の発言のつじつまの合わなさに気が付いてくる。
そもそも、バンパイアハンターの仕事を売り込む、とは。吸血鬼に対しての危機感とは。吸血鬼の対策、とは――勇作はキースとの長い生活の上でこの世にはびこる吸血鬼の苦手とするものが、出鱈目であると知っている。
キースは十字架を恐れるどころか普通に教会に出入りするし、寺社仏閣もめぐる。もちろん、ニンニクだって別に苦手でないし、銀製品だって身に着けている。
そんな状態でキースだけが特別ということはないだろう。おそらくは、他の吸血鬼とて同じだ。そんな吸血鬼に対処する術があるというのだろうか。
「罠だけでも仕掛けさせてくれって頼んでみてるんですけどねぇ」
「それ、無料ですか?」
「五個までなら無料ですよ」
「じゃあ、うちにもかけてもらおうかな」
「ちゃっかりしてるなぁ、キースさんは」
高橋が声を上げて笑っていた。隣で聞いている勇作は人知れず変な汗をかいていた。吸血鬼用の罠が存在していたとは。勇作は初耳である。ぜひ目にしてみたい、と思った。
会話の流れが途切れたのを見て、勇作は高橋に話しかけた。
「あの、俺もその罠……見たいんですけど……」
「え? 勇作君、虫嫌いでしょ?」
高橋がきょとんとしているのを見て、勇作はようやく今までの会話に合点がいった。
「なんだ、勇作。吸血鬼の罠なんか見てどうする気だったんだ」
キースの揶揄いに高橋も、勇作の勘違いに気が付いたようだった。遠慮のない笑い声をあげている。
「あー、ごめんごめん。まさか誤解してるとは、思わなくって――」
笑いで声を震わせる高橋と対照的に、勇作は恥ずかしさで震えていた。
ひとしきり笑ってから、高橋が自分を落ち着かせるように水を一口飲む。目じりには涙まで溜めていた。
「順調じゃないのは『高橋クリーンサービス』の方だよ。勘違いさせちゃったね」
と大人の対応をされるのが、勇作にとってまますます恥ずかしかった。
今までの会話は高橋の副業である『高橋クリーンサービス』の話題であるようだった。はじめは高橋組のペーパーカンパニーであったようだが、高橋が清掃業者として人を雇い、今ではそこそこ事業は安定しているらしい。
家庭の水回りや、エアコン清掃から、飲食店の厨房の清掃まで幅広く仕事を受けているが、一番の稼ぎ頭は駆虫・防虫事業であるという。仕事の丁寧さもさることながら、清掃のついでに売り込むという高橋の商売上手なやり方もあるらしい。
高橋曰く「バンパイアハンターの技術が一役買ってるんですよ」とのことだった。どのような技が、どのように活躍しているのか勇作には想像もつかない。
勇作が恥ずかしさからようやく心を取り戻して、恐る恐る顔を上げた。
不思議なことに、カウンターの向こうにいたはずのキースの姿が見えない。だが、「ヒッ」とか「グフッ」とか「クッ」とか、うめき声だか、苦しそうな吐息のようなものだけが聞こえてくる。
勇作が怪訝な顔をするのに、高橋が困ったように教えた。
「キースさんは、笑いすぎて過呼吸起こしてるよ」
「キース! 笑いすぎだぞ!!!」
勇作が抗議の声とともに立ち上がって、カウンターの向こうをのぞき込む。キースはカウンターの向こうでうずくまるようにして、肩を震わせていた。
「だって……ヒッ、吸血鬼の罠って、グフッ……」
「でも、吸血鬼用の罠を作るのはすごくいいアイデアかもしれないね」
高橋のフォローに勇作が口をへの字に曲げる。カウンターの下で、いまだにキースの笑い声が聞こえていた。今や笑いすぎてヒィ、ヒィ、と死にかけの虫のような声であえいでいる。
「いやいや、本当にいいアイデアだと思うよ。すごくいい」
彼の真剣な声に、勇作がやっと頑なな態度を解いた。
「頭の固い僕らバンパイアハンターにはない発想だなぁ」
「でも、罠にかかるような馬鹿な吸血鬼なんていませんよ」
「罠にかけられると思っているバンパイアも、いないと思うんだよね」
高橋が胸元から黒革の手帳を出すと、白紙のページにさらさらと何か書きつける。
「やっぱり、罠には餌が必要かな?」
「吸血鬼ってグルメですよ。気に入った血しか吸わないから……」
「勇作君、やっぱりバンパイアに詳しいねぇ。うちに就職する?」
やや呆れを含んだ高橋の言葉に、勇作は眉をしかめる。
「好きで詳しいんじゃないですよ」
勇作が視線だけで、原因を指し示す。吸血鬼はいまだにカウンターの下で笑っていた。勇作はそろそろ殴ってやりたい気分だった。どうせ殴ったところで、自分のこぶしが傷むだけだったが、それでも一矢報いてやりたかった。
そこで、あることを思い出す。
「そうだ、他の吸血鬼はどうかわからないですけど……キースは算盤に弱いですよ」
キースは算盤が大すきだ。夜な夜な出してきては、毎日売り上げの計算を算盤でしている。ここで間違っていけないのは、キースは金勘定が好きなわけではない。本人も商売に向いていないというのは理解している。だから、算盤で計算することが好きなのではない。算盤が好きなのだ。
物が少ないキースの部屋には、算盤だけで六丁もある。文字通り、算盤見ると目の色が変わるのだ。
「算盤?」
高橋が不思議そうにしているのに、ようやく蘇ったキースが口をはさんだ。
「別に、算盤に弱いわけじゃない。あの粒粒が堪らなくなるんだ」
「……粒粒、ああ、粒粒ですね」
妙に納得したような高橋に、キースも満足気にうなずいていた。ついていけてないのは勇作だけだ。
「俺はそこまでだけど、緩衝材のぷちぷちが堪らないってやつも知ってるな」
「緩衝材かー、確かにあれも好きそうですね、バンパイアは」
「小豆が好きで和菓子屋やってる奴もいるし……」
「和菓子屋……ああ、あの人か。好きでやってるんですね、あの店。粒あんのどら焼きが有名な――」
二人の会話に置き去りにされた勇作がようやく会話の切れ目を見つけた。なぜ、吸血鬼の罠の話が粒粒の話になり、緩衝材の話になり、小豆好きの和菓子屋の話になったのか。
そう訪ねると、高橋は意外そうな顔で答えた。
「バンパイアは、実や粒を数えたくなるっていう癖があるんだよ」
「だから、コメ研ぐとき目を瞑ってるのか、キース」
頷くキースは困り顔だ。
「コメは細かすぎるから何とか我慢できるけど、やっぱりむずむずするんだよな」
腕を組んだキースは弱り切っている。本当に苦手らしい。だから、よく自分にコメ研ぎを頼むのか、と勇作は納得した。
「あれも結構きつい。なんだっけ、勇作が好きなあの小さいブロック……」
「ああ、レゴ?」
「それそれ」
レゴブロックは勇作が趣味で子供のころから集め続けている。今はアンコールワットの制作にいそしんでいるが、確かに同居していた子供のころから、「レゴブロックだけは、ちゃんと片付けろ」とうるさく言われていたのを思い出した。
ほかの物に対してはあまり言われなかったが、レゴブロックに対してだけ口うるさかった理由を勇作はようやく理解した。
勇作が無邪気にレゴブロックで前方後円墳を制作している間、それを見守っていたキースはむずむずしていたわけだ。
「意外な弱点だよなぁ」
と、勇作がつぶやいてキースを見上げた。角度によっては赤にも紫にも見える瞳が、勇作を見返していた。どうした、と聞きたげに、整った顔で片眉を上げる。妙に気障なそのしぐさに、勇作の眉間にしわが寄る。
吸血鬼は皆顔が整っている。勇作が知っている吸血鬼は数人だけだが、その数人だけでも。皆海外のモデルのようなきれいで、迫力のある顔立ちだ。どの吸血鬼も太陽を嫌った白い肌をしていた。
「太陽光は大丈夫なのか?」
「吸血鬼が太陽嫌いなんて迷信だぞ」
キースが勇作の質問をバッサリと切る。迷信のような存在に、迷信を解かれるようなことがあるとは。
「それ、よくいわれるんだよなぁ。なんで吸血鬼って太陽がだめだと思われてんだろうな」
「基本的に夜行性の吸血鬼が多いからじゃないですか? キースさんも一時夜間の営業しかしてない時期があったでしょ?」
「ああ、そういうこと……」
高橋の解説に、キースは納得していた。なぜ吸血鬼の方が吸血鬼の生態を解説されているのかと勇作は呆れていた。
その後も、吸血鬼の苦手なものの談義は続いたが、閉店時間まで客は一人も来なかった。
中華料理屋のバンパイア 八重土竜 @yaemogura
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