中華料理屋のバンパイア

八重土竜

中華料理屋とバンパイア

 午後二時半。

 昼食の時間を少し外れたころ、空腹を抱えた五十嵐勇作は見慣れた中華料理屋の前に立っていた。

 経年劣化で黄色っぽくなったガラスの引き戸の奥に人の気配はない。ガラスには紙に手書きで『本日の餃子売り切れ』と書かれた紙が貼られていた。

 引き戸の頭上で「龍将軒」と書かれた赤い暖簾がはためいていた。

 暖簾はかかっているが、何処を見ても「営業中」の札は見当たらない。そして、「準備中」の札も。

 勇作が引き戸に手をかけて開ける。

 ガラスの引き戸はガタガタ、と騒々しい音を立てた。

 店内に人の姿はない。店に入って左手側に厨房と、八席のカウンター。経年劣化でピンク色っぽくなった丸椅子。右手側には四人掛けの机が二つと、二人掛けの机が三つ。どの机もキレイに拭かれてゴミ一つついていない。カウンターと机の上には割りばしと調味料、それからティッシュペーパーが整然と並べられていた。

 厨房の奥では、大きな鍋に湯がぐつぐつと煮えて、湯気を絶え間なく噴き上げていた。

 勇作は人気のない店内を見回して、それから一番奥のカウンター席に座った。

 気が付けば、勇作の前に冷たいお絞りが一つ置かれている。

 扉がガタガタと音を立てるので、そちらを見ると暖簾を下す背中が見えた。


「なんで気配消すんだよ」


 と勇作がその背中に声をかけたが、暖簾を下し終えた彼は返事を返さなかった。

 彼が気まぐれなのはいつものことだ。

 清潔な木綿の手ぬぐいから、銀色の毛の生えたうなじが見えている。


「なぁ」


 再び声をかけたが、返事はない。

 丁寧に丸められた暖簾が、ゆっくりと扉の横に立てかけられる。黄ばんだガラス越しに、「営業中」の赤い文字が見える。表側には「準備中」の札が見えているはずだ。


「なぁ、おい」

「よぉ、坊」


 カウンターの正面から声をかけられて、勇作の肩がびくりと震えた。

 厨房の奥、コンロの前に声の主が立っていた。

 白い清潔そうなコックコートに身を包んだこの店の主・五十嵐キースがこちらを不思議そうに見ていた。


「あ、あれ? だって、今暖簾を――」


 混乱したままに見たものを告げれば、彼が「ああ」と納得したように頷いた。


「見分けつかなかった? あれは俺の「影」だよ」


 赤と紫の間の瞳がおかしそうに細められる。


「坊に見分けがつかんなら、影に店をやらせても平気そうだなぁ」


 と彼が独り言ちる。

 誰があれの見分けがつくものか。まるきり同じ姿でなかったか。白いコックコート、少し猫背な佇まい、太陽を嫌った白い肌、短く刈り込まれた銀色の髪の毛。

 暖簾を下す動作はいまにも「よっこいせ」と声を上げそうだった。

 垣間見えた人ならざるその技に、勇作は眉間にしわを寄せた。


「なんだ? 腹減ってんのか?」


 キースが機嫌よさそうに笑って、中華鍋を火にかける。白い犬歯がよく見えた。


「チャーハンと餃子でいいか?」

「ラーメンも」

「はいよー」


 と彼が背中越しに返事を返した。

 中華鍋を振るうその背中を凝視する。やはり、先ほど見た背中と寸分狂いはない。幻でも見せられていたかと思ったが、入り口には暖簾がきれいに丸められていた。

 勇作が自分の目の前に置かれたお絞りで手を拭く。手が冷えていくにつれ、動揺も落ち着いた。ともかくは、腹ごしらえだと気持ちを切り替える。

 調理場でたった一人。キースはてきぱきと動いていた。

 店内を見回すと、入り口側の壁の掲示物のラインナップが変わっている。

 至近の小学校が作ったらしい「龍将軒」への感謝状のようだ。低学年が道徳の時間に作ったものだろう。読みにくい文字がピンク色の模造紙の上で踊るようにして書かれていた。油などで汚れないようにか、すでにラミネートされている。


「りゅうしょうけんさん

いつもおいしいラーメンをありがとうございます

ぼくはさゃぁしゅーラーメンが大すきです

これからもおいしいラーメンをつくってください」


 稚拙だが、子供なりに頭をひねった書いたに違いない。子供らしい誤字と習ったばかりであろう漢字がパラパラと見られる文章を読んでいるうちに、カウンターにドンブリが置かれた。


「ほい、先にラーメン」


 中太の縮れ麺にカツオと昆布、ホタテの出汁で作ったしょうゆベースのスープ。チャーシュー、メンマ、煮卵、焼き海苔、刻んだネギ。オーソドックスなトッピングの中に、紅白のかまぼこがプカリと浮いている。

 かまぼこがトッピングに上がるようになったのは、この龍将軒の店長が五十嵐キースに引き継がれてからだ。ただ、「おいしい」からそのかまぼこを入れている。

 スープをすすると、出汁の甘さに混ざるまろやかさと、しょうゆの塩味がマッチしている。慣れ親しんだいつもの味だ。それこそ、二十数年この味を食べ続けてきた。

 縮れた中太麺に、スープがよく絡む。すすり上げると、すっかり満たされた気持ちになる。

 麵の間にトッピングを齧る。歯ごたえのある太いメンマ、そして味の染みた煮卵。スープに浸かって暖かくなったかまぼこを齧る。スープより塩味が弱い故に、それが妙なアクセントになる。

 無言でドンブリにかじりついていると、餃子の焼けるよいにおいがしてくる。

 ちらりと視線を上げると、キースが振り返って目を細めてこちらを見ていた。

 勇作の食べっぷりを見て笑っているのだ。

 なんとなくそれが気恥ずかしくて、視線をドンブリへと視線を落とす。麺はもう半分も残っていない。


「はい、お待たせ。チャーハンと餃子」


 そうこうしているうちに、勇作の前に皿が二つ置かれた。


「腹いっぱい食えよ」


 ラーメンのどんぶりに、チャーシューが二枚追加される。分厚いそれに迷いなくかぶりついた。

 勇作の隣に、キースが腰を下ろす。彼の前にも餃子が一皿おかれている。頭に巻かれた手ぬぐいを外して、キースがそれを尻のポケットにしまった。

 しかし、餃子の前に座ったのに彼がすぐに腰を上げる。

 勇作はチャーハンを口に入れようとして、視線だけでそれを追った。


「そんな勢いで食ったらのど詰まらすぞ。誰も盗らねぇからさ」


 と彼が厨房から麦茶の入ったピッチャーとガラスのコップを持ってやってくる。

 勇作の前に置かれたコップには麦茶がなみなみと注がれた。隣に麦茶のピッチャーが置かれる。

 チャーシューの味が強いチャーハンをかみしめながら、勇作がひょこりと頭を下げた。

 もう一度厨房へ戻ったキースは、赤い液体が注がれたコップを手に席へ戻って来る。

 餃子に手を付ける前に、キースがそれに口をつけた。


「……それ何?」


 チャーハンをかき込む手を止めて、勇作はキースの手にしているコップを凝視した。


「ん、トマトジュース」

「あんたが飲んでるとシャレになんないね」

「ほんとにな。血圧高いって言われて困ってんだ」

「血圧とかあるんだ」

「あるに決まってんだろ。俺を何だと――よそ見してないで早く食え」


 愚痴っぽくなるのを嫌って、キースが話を切り上げる。彼が再び赤い液体基トマトジュースに口をつけた。

 チャーハンを半ばにして、餃子に手を付ける。勇作は餃子のたれと、ラー油で餃子を食べる。隣のキースは小皿にたっぷりと酢を出していた。

 よく焼けたもちもちの皮に、ぎっしりと餡が入っている。餡は、刻んだ野菜が多めなのに、その野菜が肉汁をしっかりとからめとって離さないため、満足感がある。ニンニクと少しだけ混ぜられたショウガがガツンと爽快な後味だ。餃子は全てキースの手包みで、その日に仕込んだものがなくなれば終わりになる。

 入り口には『本日の餃子売り切れ』の紙が貼られていたはず。

 あっという間に八個のうちの四つを平らげて、勇作は一度麦茶でのどを潤した。

 隣のキースものろのろと餃子に口をつけていた。

 短く刈り上げた銀色の髪の毛に、透けるように白い肌。整った容姿はそれだけで誘蛾灯のように人を引き付ける。彫りの深い顔は、到底日本人には見えない。だが、彼は紛れもなく五十嵐キース。この店の先代の養子になった男だ。

 先代が亡くなってから早十五年。キースが店を引き継いでから三十年ほどだ。町では龍将軒はすっかりキースの店になっている。

 子供のころから、幾度となくここで食事をしているが、勇作の記憶の中にある彼はずっと同じ顔だ。

 長いまつ毛に囲われた目は、赤紫に光っている。白すぎる肌には、シミ一つない。見た目は今年二十二の勇作よりも少しだけ年かさに見える。

 顔さえ似ていれば、兄弟かと言われる。勇作が幼いころは、親子だとも言われた。

 二つ目の餃子を口に入れようとしたキースが大きな欠伸をする。

 切れ長の目には生理的な涙が溜まった。


「眠そうだね」

「そりゃ、ほんとなら寝てる時間だ」

「昼営業やめたらいいのに」

「いや、腹すかせてる奴がいるからなぁ」


 キースがにやにやと笑いながら勇作のほうをみている。

 勇作は照れ隠しに餃子をぱくりと口に入れた。

 腹を空かせてやってきているのは確かだが、揶揄われては立つ瀬がない。金のない大学院生なのだから、親戚に食事をたかってもしょうがないではないか。

 そう抗弁したかったが、勇作は餃子と一緒にそれを飲み込んだ。


「まぁ、飯屋なんて、食いに来てもらえるうちが花だよ」


 それは、勇作の祖父である龍将軒の先代の口癖だ。

 勇作が幼いころは、祖父母とキースが店内で忙しく立ち働いていた。今は、キース一人でこの店を切り盛りしている。

 少し冷えてきたラーメンの汁を飲みながら、勇作は先ほどの「影」に思いを馳せていた。キースとまるきり同じ立ち姿。なんとなく大儀そうなその動き。ふとした時に首をめぐらすその癖まで。もう一人「五十嵐キース」がいるのだと言われても、納得してしまいそうだった。

 彼がもし振り返っていたら、勇作はさらに混乱しただろうか。

 生まれたときから見慣れているその顔。父親とも、兄弟とも違う顔立ちだが、勇作にとっては間違いなく家族である。仕事に忙しい祖父母、両親に代わってキースはよく面倒を見てくれた。学校行事にも必ず顔を出してくれた。そんな彼を見間違えたのなら。

 勇作はひどく取り乱したに違いない。

 隣で餃子を頬張りながら、新聞を読み始めたキースを眺めてみる。

 人間離れした容姿、そしてわけのわからない技。それのすべての原因は彼がバンパイアであるからという理由で片付くのだから、世の中とは理不尽なものだ。

 キースの皿の上の餃子はあらかた食べ終わっている。


「そういやお前、バンパイアなのにニンニク平気なのか?」

「うーん」


 キースが餃子を飲み込んで、トマトジュースに口をつけた。


「毎日食ってたら慣れてきたな」


 一般的な弱点と言われていてもそんなものらしい。


「体調悪い時は蕁麻疹出るけど」


 口ぶりからすると、アレルギー反応のようなものらしい。勇作もサバのアレルギーを持っているから気持ちはわかる。

 久しぶりにバンパイアらしい不思議な力を見せられてしまうと、妙に彼の生態が気になってしまう。

 家族として長年一緒に暮らしてきているが、彼がバンパイアと言われなければきっと誰にもわからない。朝の四時には起きだしてきて、店の準備を始める。六時前に一度戻ってきて、勇作の食事の世話をしてから、店を構える商店街の掃除へと出かけ、勇作を学校へ送り出す。

 朝にも強いし、食べれないものやできないこともない。いささか顔の作りがよいことを除けば普通の人間と遜色ない。唯一、昔からその容姿が変わっていないということが不思議であるくらいだ。


「血とか吸わなくていいの?」


 バンパイア。日本語に訳せば吸血鬼。だが、そんな血なまぐさい姿を勇作は見たことがない。キースからはいつも厨房の食用油の香りがほのかに香る。

 だが、以外にもキースは目を見開いて、勇作に向き直った。


「バッカ。吸ってるにきまってるだろ」


 コックコートの胸元を開けて、彼が自分の短い髪の毛を撫でつける。


「俺、モテるんだわ。イイ男だから」


 勇作に向けられた意味深な笑みは、確かに女性を引き付けるものだろう。

女性と縁のない生活を送っている勇作は、そこはかとなくその笑みに反感を覚えた。

コックコートの胸元から、銀色のネックレスがちらりと見えるのも、またキースの色気を引き立てている。


「それも女の人にもらったの?」

「これはおばさんにもらった」


 おばさんとは、この店の先代の妻の名である。五十嵐文江のことである。勇作から見ると祖母にあたる女性だ。

 龍将軒の名物女将として、長年店を切り盛りしてきた。優しく「勇ちゃん」と呼んでくれた声が今でも思い出される。手先の器用な人で、よく勇作に服を繕ってくれた。

 キースが胸元からチェーンを引っ張り出す。銀色の鎖はよく手入れされているようで、きらりと光っていた。使い込まれた銀特有の黒ずみはどこにも見当たらない。


「それ、シルバー?」

「ああ、銀だと思う」

「それ、十字架だけど大丈夫なの?」

「いや、これは十蔵さんの十だから」


 十蔵とはこの店の先代の名である。五十嵐十蔵。勇作から見ると祖父にあたる人だ。

 戦前からあったこの龍将軒を、長年切り盛りしていた人だ。無口な人だったが、勇作のことはよくかわいがってくれた。


「別に、銀じゃ死ねないし、十字架も怖かないからなぁ」


 キースがそう言って、ネックレスをコックコートの下に戻した。

 確かに、キースはこの近くにある教会にも頻繁に出入りしているし、寺社仏閣にも気後れしていない。

 ますますバンパイアらしくなくなってきた。ただの若作りおじさんではないか。

 餃子を口に入れたキースが横目で勇作を見ている。検分するようにじろじろと赤紫の視線が勇作の顔の上を撫でた。


「……何?」


 その視線から逃れるように、勇作はチャーハンの皿へと顔を戻す。


「いや、ますます十蔵さんに似てきたと思って」

「それ、会うたびに言われる」

「ほんと。若いころにそっくりだよ。目元がさ。やっぱりお前は十蔵さんの孫だねぇ」

「ジロジロ見んな。金とるぞ」

「そういうところは文江さんそっくりだわ」


 キースが嬉しそうに言った。

 きっと他意はないのだ。血縁の中に、すでに亡い人の面影を感じて懐かしがっているだけ。ただそれだけ。

 キースは長く龍将軒を、五十嵐家を見てきた。

 この男が、この五十嵐家の生き証人だから。


「早く食って、皿洗いと夜の仕込み手伝ってくれ」

「はい、はい」


 残った餃子とラーメンのスープを流し込む勇作に「“はい”は一回」と小言が飛ぶ。これも、祖母の文江の口癖だった。客商売をする人だから、躾には一等厳しい人だったのだ。

 五十嵐家は、血のつながらないキースの中にも確かに受け継がれている。

 勇作は空になった皿を持って、厨房へと入った。

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