5-2.誕生 -anti bliss-

「所長ッ!」

 俺さちと小夜ねぇの間に入ってきたのは所長だった。

 脇腹を押さえながら、フラフラとした足取りで小夜ねぇの前に立つ所長。普通に立って喋っている、ただそれだけで辛そうである。

「そのためだけに……こんな大掛かりな……襲撃を仕組んだのかい?」

「はい。生贄に適した人間と、押収室にある大量の契約アイテム。どちらも必要だった。特に、真柴ほど悪魔との親和性の高い人間はそういませんから。でも、もう一つ大きな理由が」

「……」

 所長は何も言わず先を促す。

「D-PAINという組織の壊滅。私が目指す世界では、この組織は邪魔なだけです」

 小夜の指すD-PAINという言葉には、俺と陽菜も含まれているのだろう。そう考えると、心臓がまるで鷲掴みにされているかのように痛かった。

「所長は私たちD-PAINの存在の矛盾について考えたことがありますか?」

「矛盾?」

「私たちは契約犯罪を取り締まる。悪魔との契約を厳罰化し、賢者の契約書の流通を固く禁じる。でもそれは絶対じゃない。法の目をくぐり抜け、犯罪者はあらゆる手を使って禁断の力を得ようとする。結果、どうなったか」

「……」

「結果的に、この世は “犯罪者だけが悪魔と契約できる” という構図になったんですよ。善良な市民は今も昔も抗う力を持たず、襲われるままに奪われる。例外的に悪魔を使役する警察組織、つまり私たちもいますが圧倒的に数が足りない。これも、悪魔との契約を厳罰化した影響ですね」

 結果論だが、結果だけ見ればそうかも知れない。

 はっきり言って俺はそんなこと考えたこともなかった。

 小夜ねぇはそんな事を考えていたのか。

「私たちD-PAINという組織がこのいびつな構造の原因の一旦を担っていると思いませんか?」

「思わんね。キミの口ぶりはまるで賢者の契約書の流通を自由化しろと言っているように感じるが、そんな事をしたとて争いの火種が増えるだけだ」

「そうは言ってませんよ。でも、これ以上問答をする時間もなさそうですね」

 小夜ねぇはチラと真柴の方へ視線を向ける。真柴はさっきまで謎の独り言をぶつぶつと口から発していたが、いつの間にか静かにぐったりとしていた。意識を失っているのかもしれない。

 その様子を確認した小夜ねぇは会話を打ち切り、たおやかな所作で立ち上がった。

「キミは素晴らしいエージェントだった……実に残念だよ」

 所長もまた、対話を諦めたようだった。

 大きく息を吐き出しながら、腰を落として構える。重症を負いながらもなお、小夜ねぇと戦うつもりのようである。所長の背後には木彫りの彫刻のような悪魔が浮かんでいる。

「テスカトリポカ」

「今の所長では私には勝てないと思いますけど」

「私もまだまだケツが青くてね。勝てないからと言って尻尾を巻けるほど、お利口じゃないのさッ!」

 言い終わるよりも前に地面を蹴って一足で小夜ねぇの目の前へと迫る所長。渾身の掌底を突き出すも、その拳は小夜ねぇの当たる前に止まってしまう。

 小夜ねぇがイズレエルを使い村瀬さんを自分の前に突き出し、盾代わりにしたのであった。

 拳を寸止めする所長。

「ぬうっ……!」

 怯んだ瞬間、小夜ねぇの足元から伸びた黒い影が閃光のように走った。

 まるで剣のように鋭利に形を変えたイズレエルに斬られる所長。

「ぐはっ!!!」

 スーツが裂け、胸から血が吹き出す。

「所長。貴方のそういう甘ったるい所……………大嫌いでした」

 膝から崩れ落ちる所長。そしてその所長にさらなる一撃を加えようと更に影を伸ばす。しかし、その刃物のような形状をした影が所長に届くことはなかった。

 所長と影の刃の間を透明の膜が遮る。

 陽菜の悪魔、バエルが出したシャボン玉だ。所長はシャボン玉に包まれ、振り下ろされた影の刃はシャボン玉に弾かれる。

「もうやめて……」

 涙で目を真っ赤に腫れ上がらせながらも強い意志で小夜を睨みつける陽菜。

「お姉ちゃんの馬鹿ぁぁッ!!」

 言葉こそ拙いが、戦う覚悟をした強い目だった。

「陽菜は私と戦うのね。モモちゃんはどうする?」

 その視線を受け止め、小夜ねぇは俺の方を向く。

「俺は……」

 一瞬だけ、目をつぶって考えた後、目を開いて両手を目線まであげ、構える。すでにアラガミの力により強化済みの右腕をギリと強く握り込んだ。

 俺もまた、戦うことを選んだ。その明確な意思表示。

「わからないことだらけだけど、少なくとも小夜ねぇを魔人とかいう存在にはさせない。そのために戦わなければ止められないのなら、戦う!」

「そっか。それなら──戦わなきゃね」

 小夜ねぇが俺たち二人に戦いの体勢を取る。小夜ねぇから湧き上がる殺気に、思わず気圧されそうになり全身に鳥肌がたった。

 この人は、本気だ。本気で俺たちを殺す気なんだ。

 そう思った瞬間には、眼の前に小夜ねぇの足元から伸びたイズレエルの三日月状の刃が迫っていた。

「くっ!」

 右腕でそれを受け流し、一歩踏み込む。

 この距離なら俺の拳も小夜ねぇに届く。狙うのは頭。百戦錬磨の小夜ねぇと長期戦になれば負けるのは俺だ。せめて一撃で気絶してくれれば……。

 右腕に力を込め、しかし大きく振りかぶると躱されてしまうため、最小限のモーションで小夜ねぇに向かってまっすぐ振り抜く。それはボクサーのストレートの形に似ている。

 しかしその拳は小夜ねぇまで届かなかった。

 ぐにょん。そんな感触。

 小夜ねぇの足元から伸びた沢山の黒い影のうちの一つが粘土のように形を変え、今度は盾となって俺の拳を弾いた。

 右腕を弾かれ、その衝撃で体制を崩す俺を逃がすまいと、その他の沢山の影が鋭い針となって襲いかかる。

 しかしそれもまた俺に届くことはなく、俺の周囲を守るように漂うバエルのシャボン玉に阻まれる。

 一瞬の攻防だが、このやり取りの隙に小夜ねぇは自分の体を後方窓際の方へ移動し、俺との距離を取っていた。

 両者の攻撃は相殺に終わったが、結果的に俺と小夜ねぇとの距離は開き、先程より不利な状況になってしまった。

 実はすぐに拳が届く距離で戦いが始まった初っ端がだいぶ俺にとって有利な位置だったということか。

 いや、この程度で怯んじゃ駄目だ。

 ここが広さに限りある部屋である以上、縦横無尽に逃げることはできない。そういう意味では俺の右腕が届く接近戦に持っていきやすいはずだ。

 俺は窓際に立つ小夜ねぇに向かって駆け出した。

「おぉぉっ!」

 小夜ねぇの足元から、背後から、そして小夜ねぇの影と重なっている窓枠の影から、無数に体を分裂させたイズレエルが襲いかかってくる。

 鎌や槍のように形を変えた無数のイズレエルのその剣閃は先程より遥かに早くなっている。はっきり言って、その先端はまったく見えない。俺の、いや人間の動体視力の範疇を遥かに上回っている。

 そのため、それらの攻撃を躱すには切っ先ではなく根本、イズレエルの体が飛び出している影の部分の位置の僅かな動きを見て先読みをするしかない。

 しかし、そんな事をしていれば歩は止まり、小夜ねぇにたどり着くことはできない。

 俺は、俺の周囲に漂う陽菜のシャボン玉が致命傷を逸らせてくれる事を信じて、それらに対応することを切り捨てる。

 俺は正面からくる攻撃だけをさばくことに専念し、最短を突き進む。

「ぐっ! つぅ──!」

 俺の周囲を漂うシャボン玉が、イズレエルの俺への攻撃を絶えず逸らしてくれているとはいえ、完全に威力を殺せるわけではない。逸れ、曲がった切っ先が肩や足などに掠り、細かい攻撃を受ける。

 不意に走る激痛をただこらえ、足を止めずに前へと進む。

 小夜ねぇに俺の拳が届く距離まであと三歩、二歩……一歩。

 届く! 

 俺が右腕に渾身の力を込めた時、不意に周囲の音が止まった気がした。いや、実際に止まったのだ。イズレエルの攻撃全てが。

 眼の前の小夜ねぇは静かに立ち、俺に向かって腕を拡げていた。

 まるでハグを求める恋人がやるポーズのように見えた。

 しかし、その目はこう言っていた「できる?」と。

 このコンクリートすら豆腐のように握りつぶせる右腕の全力を、無防備な姉に振り抜けるのか?と。

 ほんの一瞬の逡巡。

 握り込んだ拳がわずかにだけ緩んでしまったその刹那。

(──いくじなし)

 小夜ねぇの唇がそう動いたように見えた時、俺の左眼にナイフのように鋭利なイズレエルがめり込んだ。

「ぐぁぁああああああああああっっ!」

「桃也!」

 焼けるような痛みが全身を駆け抜け、硬直する。陽菜の声に反応することもできずにその場で呻く。

 その腹に鈍い衝撃が走り、俺は後ろへふっとばされた。

 蹴られたのだ、小夜ねぇに。

 俺はごろごろと無様に転がり、結局また距離を離されてしまった。

 また振り出しに戻る。いや、今も左眼には絶えず激痛が走っている。視界が真っ赤に染まり、右目からも涙があふれる。呼吸もうまくできやしない。そんな状態だ。振り出しどころか……これは詰んでいる。

 俺は負けるのか……?

 負けるとどうなるんだ?

 小夜ねぇは止められず、俺も陽菜も助からない。所長も村瀬さんもだ。

 いや、そんなこと考えてる場合か、次の攻撃に備えないと負けてしまう。

 思考の天秤がネガティブに傾き、ぐるぐると同じことを堂々巡りで考えてしまう。

 そこへ割って入る唐突な真柴の叫び声。

「うぐぇ!……あばばばばばあばぁぁぁぁぁばろろろべろべろ」

 今までのぐったりとした様子とは代わり、打って変わって苦しそうにもがき出す。

 体内から体を食い破るように出てきた沢山の大きなムカデ……いや、あれは真柴本人が契約していた悪魔、ムシュマッヘか……とにかくそれが、ぐるぐると真柴の顔や体に巻き付く。

 ムカデ人間、とでも形容するしか無いようなグロテスクな姿へと変貌する。

「時間切れ。肉体が飽和状態になって “魔骸化” が始まったみたい」

 そう呟いた小夜ねぇからは先程までの殺意は消えていた。

「そいつを喰べてイズレエル! その力を私たちが吸収する時、魔人の力が手に入る」

「やめ……るんだ……」

 這いつくばった姿勢のままで引き絞るように声を出したのは所長だった。

「魔人の力で全ての契約者を……皆殺しにするつもりか……犯罪者どころか……人類そのものを滅ぼしかねん……」

「ご心配なく。私の作る世界では、そもそも撲滅の必要がなくなるんですよ」

 小夜ねぇの影から悪魔イズレエルがニュッと出てくる。普段は目しかないイズレエルだが、目の下に真一文字に縦線が入ったかと思うと、バカッと割れて巨大な口が開く。

「やめッ──!」

 バグン!

 蛇が獲物を丸呑みするように真柴を頭から丸ごと口に放り込むイズレエル。グチャ、パキ……と飲み込まれた内側からすり潰されるような不快な音が響く。

 そして飲み込むと同時に小夜ねぇの足下から湧き上がった影が小夜ねぇ自身を覆いはじめた。

 ──ズ、ズズズ、ズズズズズ!

「ふぅっ!ぐっ!あぁアアああ”あァあア”ァァああ”あ”ァァ”あっ!」

 イズレエルの影が小夜ねぇの全身を包み、繭のような状態になる。

「小夜……ねぇ……」

「あぁあ! あああッ──!」

 中で体を作り変えているのか、小夜ねぇの苦痛にあえぐ声と、ゴキゴキと不気味な音が繭の内側から聞こえる。

「……」

 あまりの異様なな光景に、俺はいつの間にか痛みを忘れていしまっていた。

 深く呼吸を吐き出すと、体を起こし戦闘態勢を取る。

 左眼は塞がって開かない。深々と突き刺さる感触があったんだ。眼球は裂け、失明したと思ったほうが良いだろう。

「桃也……どうしよう」

 陽菜が不安に怯えた顔で俺を見る。まるで迷子になった少女のようだ。

 陽菜のこんな顔を見るのは、おじさんとおばさんが殺された時以来だ。

「イズレエルを殺して小夜ねぇと切り離す」

「そんな事……」

 できないかもしれない。

 確かに悪魔を殺せるなんて話は聞いたことがない。が、他に何も思い浮かばなかった。

「できるかどうかなんてわからないよ!でもやるしかないだろっ!」

「うん……うん!」

 俺と陽菜、二人で繭状態の小夜に向かって駆け出す。

「魔人になんて、させるか!」

 繭に向かって飛びかかり、拳をまっすぐに振り下ろす。

 しかし俺の拳が繭に当たる直前、繭は自然に崩れ始め、中身が姿をあらわす。

「ああああああああああああああっ!」

 パァァァァァン!

 吸収したムシュマッヘが元々もっていた爆発能力の暴発なのか、あるいは魔人とやらのエネルギーの奔流なのか、小夜ねぇの叫び声と共に彼女を中心として大爆発が発生した。

 俺や陽菜を含め部屋全体を丸ごと吹き飛ばすような爆発だった。

 大気が破裂した。

 音の振動で鼓膜だけでなく、全身が震えるような、そんな今までの十七年の人生で一度も聞いたことのないほどの轟音とともに俺たちがいたビルの最上階の窓は粉々に砕け、勢いよく吐き出されるように落ちていく。

 俺は落下しながら、目線をさっきまで俺たちがいた部屋へと向ける。

 状況に興奮してアドレナリンが出ているためか、はたまた混乱しているためか、落ちていく自分も含めやたらとスローモーションに感じる。俺とともに飛散して落下していくガラスの一つ一つに夕陽があたり、乱反射する様子はさながら映画のクライマックスのようだ。

 視線の先では窓ガラスが割れるどころか、窓枠そのものがはずれ、ポッカリと空いた口のようになった一室から、大量の煙が吹き出している。

 落ちていく光景の中、俺はさっきまで自分たちがいたフロアを見上げる。そこには、魔人として覚醒した小夜ねぇの禍々しい姿があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る