6-1.悪魔を滅ぼす者の名は -The Devil’s Pain-

 六歳の頃、両親が交通事故で亡くなった。

 俺の両親には親戚がいなかったようで、俺は一旦施設に預けられることとなったのだが、それも早々に六藤家に引き取られることになった。

 六藤家とは当時、俺の家のお隣さんだった家で、血縁関係こそなかったものの俺の父と六藤のおじさんはいわゆる無二の親友というやつだった。

「桃也くんはね、ご両親に不幸があってね……。今日からウチで一緒に暮らすことになったんだよ」

「今まで通り仲良くやっていきましょうね」

 六藤のおじさんとおばさんがそう言って、俺を小夜ねぇと陽菜に改めて紹介した。

「……」

 当の俺はと言うと、塞ぎ込んでいた。

 父と母をいっぺんに失い、自分もまた大怪我をしたのだ。しかも、右腕はもう利き腕として使えないかもしれない。

 そんな無言の俺に対し、事情がよく理解できておらず呆けている陽菜。一方で、事情を理解して歩み寄ってくれたのが小夜ねぇだった。

 小夜ねぇは俺の顔を覗き込むよう膝をまげて、優しく微笑む。

「今までは幼馴染だったけど、今日からは姉弟だねぇ。弟も欲しかったから嬉しいな〜! よろしくねモモちゃん」

 当時、子供ながら自分の居場所があることに、少しだけホッとしたような気持ちになったのを覚えている。

 それから俺が持ち直すまでは早かった。三人で遊ぶ日々は楽しかった。

 三人で毎日公園に行ったし、当時の家は畳があったので、夏は畳の上で大の字にみんなで昼寝をした。

 冬は家族みんなで鍋をつつくのも楽しかったし何より美味しかった。

 少して小夜ねぇが中学校にあがり、はじめて制服に袖を通した姿を見た時に俺は初めて “女の子に見惚れる” という事を経験した。

 テスト前には小夜ねぇは俺と陽菜に勉強を教えてくれたが、結構厳しくて普通に泣きそうになった。

 後は、陽菜と小夜ねぇは結構喧嘩をするのも意外でよく覚えているな。

 まぁともかく、毎日毎日それは楽しい日々だったのだ。

 六藤のおじさんとおばさんが殺されるまでは。

 あの日、陽菜と学校から返って来て家の前にカラーコーンと『立入禁止』と書かれた黄色いテープが貼られていた時、全身の血の気が引いた。

 そして、その向こうで号泣する小夜ねぇがいたのだ。

 あの顔を俺は、一生忘れられないと思う。

 その思い出の小夜ねぇと、ビルから落ちていく中で見上げた先にいる魔人化した小夜ねぇの顔が重なる。

 表情が全く違うし、そもそもあれから随分と時間が経って顔つきも変わっている。

 なのに、なんであの時の顔と重なるんだろう。


 ズズーン!

 大量のガラス片や砕けた建築材とともに、大きな音を立て地面へと激突する。土埃が舞い散り、あたりに飛び散る。その中心で、瞑っていた右目をあける。

 爆発の勢いで、斜めに吹き飛ばされるように落下していったためか、本部ビル建物の真下ではなく、道路を挟んだ向こう側まで来ている。

 本部ビルの大爆発の音は周囲の人々を困惑させたのか、ところどころでわーきゃーと騒ぎ、逃げ惑うような喧騒が聞こえる。

 それなりの高さから落ちたのに擦り傷程度で転がっている自分に驚く。

 よろよろと立ち上がり、自分の体をひねって見てみるものの、先ほど小夜ねえとの戦いでついた傷以外に大きな怪我はしていない。

 自分が直撃したであろう地面には、バエルの大きなシャボン玉があり、クッションの役目を果たした後はパチンとはじけて消えていった。

 俺の脇には陽菜がよろよろと立っている。どうやら爆発の勢いで散り散りに飛ばされてしまったのか、所長や村瀬さんの姿は見えない。

 だが、バエルのシャボン玉が俺を守ってくれたことを考えると所長や村瀬さんも同じく陽菜とバエルのおかげで無事であると考えていいだろう。

 ズン!とひときわ大きい振動を起こして、小夜ねぇが俺の向かいに飛び降りてくる。こちらは受け身など取らず、ちょっとした段差を飛び越えた程度の軽やかな動きである。

 その動作だけで、既に小夜ねぇが人間を大きく逸脱している事がわかる。

 小夜ねぇは自分の能力を自分自身まだ把握しきれていないのか、魔人と化した自分の掌を握ったり開いたりしながらまじまじと見ている。

 頭には角らしき何かが生え、首から下は指先に至るまでまるで全身タイツをきたような漆黒に覆われている。しかしそれが服なんかでないのは、グズグズとくすぶるような音を発しながら絶えず形や大きさを変えていることから容易にわかる。

 何より顔が、表情が人間のそれではなかった。

 やや下がり気味だった目も、筋の通った鼻も、柔らかそうな唇も以前通りだ。

 だが違う。

 目線に込められる感情が、視線の動かし方が、表情を形作る様々な要素が人間ではない不気味な所作をしていた。

「みんなを殺して自分は魔人になる……これが小夜ねぇのやりたかった事か」

「そうだね。概ね計画通りかな」

「計画って、いつからだよ。俺達と楽しく会話して、良い姉ちゃんでいてくれてる時も……腹の底ではいつか裏切って魔人になるつもりだったのか!? 俺達を騙していたのか!!」

 悔しさ故か、語気が荒くなる。自分でも知らず、怒鳴りつけるような大声になっていた。

「騙していたつもりはないよ。あなた達にとって良い姉でいたい、そう思う事と魔人になることは相反するものではないもの」

 俺の叫ぶような問に、抑揚を変えることなく平然と答える。

「ただ、二人がD-PAINにいなければ、とは何度も思ったし、今も正直心苦しいんだ。あなた達まで殺さないといけないのは……」

 頬に手を添え、まるで他愛もない世間話をするかのような屈託のない言い方で自分たちを平然と『殺す』と言ってのける小夜ねぇに強い狂気を感じる。

「小夜ねぇ」

 心臓が高鳴り、胸を抑える左手に力が入る。

 まるでヘドロのように俺の胸中に渦巻くこの感情は何だ?

 怒りだろうか。

 いや、違う。この気持ちはそんな生易しいものではない。

 いつだったか、皆でやっていた人生ゲームで六回連続で “1” が出た時、おれは怒った。

 あるいは小学生時代、クラスの男子が好きの裏返しで陽菜をいじめて泣かせた時、俺はめちゃくちゃ怒った。

 思い返せば、俺はちょくちょく怒っていた。

 だが、あのときの感情が “怒り” なのだとしたら、今俺の心にある感情は何だ?

 そこにある気持ちは一緒だ。でも強さが圧倒的に違う。

 怒りという言葉ではとても形容ができないほどの灼熱の感情が沸いてくる。

 その感情が、この道を踏み外した愚かな姉を止めろと俺に呼びかける。

 俺は一度目を閉じて、それからゆっくりと見開いた。

 闇に閉ざされていたはずの左眼にじんわりとした温かな光を感じる。

「?」

 全体的に朱色に滲んでいるが、潰されたと思った左眼が確かに見えている。

 いや、見えているどころではない。視界を通して、空気の流れ、漂う匂いや小夜ねぇの殺気の形状まで把握できる。

「これは……」

「ザンネンながらお前の左のおメメは穴が空いちゃって、もうその穴は塞がらないのダ。だから吾輩のおメメを貸してあげるのダ」

 俺の肩越しにそう教えてくれたのはアラガミだった。

 これが、アラガミの眼?

 そうか、俺は左眼を失った代償としてアラガミから眼を借りることができるようになったのか。

 エントランスでの戦いの時に言っていたアラガミの言葉を思い出す。

 左眼に、穴か。

 左眼を失明したのは悲しい出来事だ。きっと傷が癒えていく度に俺は失った体がいかに大切な自分の一部だったか感じるのだと思う。

 でも今は、眼前の魔人に対し正直それどころではないし、この眼ならイズレエルの繰り出す弾丸のような速さの攻撃も見切ることができるかもしれない。その期待感に高揚している気持ちが上回っていた。

 俺は強い意思で小夜ねぇを見据える。

 陽菜もまた、同じく強い意思で姉を睨みつけた。

「小夜ねぇの大馬鹿野郎が! ……陽菜っ!」

「うん!」

 陽菜が両腕を左右に勢い良く開く。それを合図に現れたバエルがそのサソリのような尻尾からまるでサブマシンガンのように連続して液体を吐き出した。

 液体は一つ一つが内側から膨らみ、大小様々な沢山のシャボン玉となり、周囲に広がっていく。

 俺も小夜ねぇに向かって駆け出す。しかし俺は、まっすぐに小夜ねぇに飛びかかるのではなく、周囲に漂うバエルのシャボン玉へと突っ込み、飛び乗る。

 シャボン玉に身体を大きく沈ませ、その反発力で跳躍して小夜ねぇに向かっていく。トランポリンの要領で通常の飛び込みよりも遥かに早いスピードで相手に迫ることができる。

 室内などの狭い場所では使えなかった、俺と陽菜のコンビネーションだ。

 いつか契約犯罪者と戦うときのために二人で練習していたが、まさか小夜ねぇに使うことになるとは。

 バエルのシャボン玉の意外な使い方と予想以上のスピードに少しだけ驚き、俺の拳を躱さずに、足元から湧き出た鋭利な剣状の影で真正面から受け止める小夜ねぇ。

 俺と小夜ねぇはギリギリと鍔迫り合いの様な形になり、密着状態だ。

「良い眼だね。悩みは吹っ切れたのかな?」

「おかげ……さんでねッ!」

「嘘」

 ふふ、と微笑みながら俺をしなやかな脚で蹴り上げる小夜。ただの蹴りにも関わらず、まるでトラックにぶつかったかのような勢いで、斜め上の上空へ吹き飛ばされる。

「ぐっっはぁ」

 跳ね上がった体が、道路上にある交通案内板にぶつかりそうになったその瞬間、案内板をバエルのシャボン玉が包む。

「バエル!」

 トフン、と柔らかい音を立ててぶつかる衝撃を殺すシャボン玉。更に、地面に落下する俺の着地点へシャボン玉を発生させる。

 落ちた俺はそのまま地面のシャボン玉を蹴って加速し、再び小夜ねぇへと迫り、右腕の攻撃を繰り出す。

 小夜ねぇ相手にはこの右腕があたる距離までまず詰めることが必須。

 俺はバエルのシャボン玉による反動を活かしながら常に前へ前へ移動しながら攻撃を出し、小夜ねぇは魔人化したその四肢のみで恐ろしいほどの速さで下がりながら攻撃を繰り出してくる。

 一進一退の高速の攻防が続く。一撃が間違いなく致命傷だ。アラガミの左眼のお陰でなんとか、影の攻撃の軌道を視認することができる。この左眼がなければ三秒と持たずに俺の体には風穴が空いていただろう。

 しかしこの眼を持ってしても右腕以外の身体は俺の、生身の人間のものだ。身体能力の限界上、全てを躱すことはできない。

 無数の攻撃を左眼で確認しながら、避けられるものは避けるが避けられそうにないものが右腕でさばく。

(一瞬でも気を抜けば、右腕ごと体をへし折られそうだ)

 当たればその攻撃の全てが簡単に俺を死にいたらしめるだろう。

(一発一発が……なんて力)

 弱気な気持ちが頭をもたげる。

(これが……これが……魔人の力か……)

 対峙して剣戟を繰り広げながら、手数も力も緩むこと無く攻撃をしかけてくる小夜ねぇと、その小夜ねぇの鬼気迫るオーラに、内心恐怖にも似た身震いを感じる。

「モモちゃん」

 そんな俺の心を見透かしたように小夜ねぇが囁きかけてきた。

「今、『これが魔人の力か』って思ってる?」

「……」

 囁く間もお互い攻撃は止めない。はっきり言って俺の方に返事をする余裕はなかった。

「まさか、この程度のわけないでしょ」

「──!?」

 その一言とともに、よりいっそう強い殺気を解き放つ小夜ねぇ。その体の周囲から、まるで間欠泉が噴き出すように黒い影、いや既に影という概念は逸脱し、もはや黒いオーラとなったそれが噴出し、あたりを取り囲む。

 その殺気にあてられ、一瞬動きが止まってしまう。

 気がつけば、後ろに回り込まれている。

 ドッ!!

 振り返るよりも早く、小夜ねぇが影いオーラを腕にまとい一撃を放つ。

 生きてるかのように蠢きながら津波のように押し寄せる攻撃に、受け身すらまともに取れずに十メートル近く吹き飛ばされ、建物の壁にぶつかる。

「うがぁっっ!!」

 頭をかばったため、背中をもろにぶつけ全身に衝撃が走る。

「はぁ…はぁ…ぐぅふっ!ゲホッゲホッ!」

 吐き出す咳に血が混じっていた。口を手で拭って上を見上げると、小夜ねぇは俺が背にした建物の壁に足を突き刺し、垂直に立っている。

「モモちゃんさ、さっき言ったよね。『契約者による犯罪を減らしたい』って」

「はぁ……はぁ……」

「それ、本気で思ってる?」

 突き刺さっていた片足を壁から引き抜き、そのまま俺へ蹴りつける。向こうからしたら軽く小突く程度の力だろう。右腕で受け止めたものの、もはや足の踏ん張りが効かなくなってきているのか、俺は大きくよろめいた。

「くっ!……思ってるよ! 悪いか!」

 負けじと小夜ねぇへ拳を繰り出すが、あっさりと躱される。

「契約者による犯罪はまるで虫が沸くように日々増え続けているのに、それを取り締まる私たちは慢性的に人不足で、チンケな小悪党を追いかけ回すことで精一杯」

「ぐっ」

「イタチごっこにすらなっていないんだよ」

「ぐあっっ!」

 小夜ねぇはつらつらと喋りながらも攻撃の手を緩めない。俺は四方八方から攻めてくる黒いオーラに防戦一方となり、体中が少しずつ傷ついていく。

 先程までの攻撃が一撃必殺だったことを考えると今はだいぶ抑えられている。要するに、いたぶられているのだ。

「どんなに力を尽くしても、救えない時だってある」

 最初は淡々と喋っていた小夜ねぇも、段々と声に憎悪と狂気の色が混じっていく。

「何の根拠もなくただ『契約犯罪者を根絶する』なんて臆面なく言えるなら、それは理想ではなくただの欺瞞だよ!」

 それはすでに俺に向けてではなく、社会の在り方や憎き犯罪者と言った大きな主語に対する様々な負の感情のようだ。

 最後の一言に怒りを乗せ、ぶつけるように一際激しい攻撃を繰り出す小夜ねぇ。

 しかし、それは感情的になったことで先程までの縦横無尽な攻撃ではなく直線的な攻撃だった。

 アラガミから借りた左眼がその攻撃を捉え、右腕で弾く。

 そして小夜ねぇの体制が崩れたところで渾身の一撃を食らわせた。

「ごちゃごちゃうるせぇーーーーーーーーーーーーーー!」

「ふぐっ!」

 潰れるようなうめき声をあげて後方へ吹き飛ぶ小夜ねぇ。

 アラガミの力の宿る右腕のありったけだ。魔人といえど無事ではいられまい。

「キレイ事で悪いかよ……できないかもしれない目標を掲げる事がそんなに恥ずかしいことかよ!」

 もはや膝から下が笑い始めているが、根性だけでそれを押さえつけ、立つ。

「できないからってケチつけて泣きわめくほうがよっぽどダセェだろうが!」

 小夜ねぇに入った俺の渾身の一撃は、受け止めようとした小夜ねぇの左腕を明後日の方向に捻じ曲げ、なおも止まらず顔半分を変形させたが、それもシュウシュウと音を立ててすぐにもとのあるべき姿へと整っていく。

「小夜ねぇはあの時からなにも変わっちゃいない」

 ダメージとは呼べない程度の微々たるものだが、潮目が変わるのを感じる。俺の怒りの咆哮が戦いの流れを捻じ曲げる。

「四年前おじさんとおばさんが契約者に殺されて、ずっと部屋の隅で泣いてた時と同じだ」

 やはり思い出すは四年前の泣き顔だ。

 それは部屋の隅っこで小さく三角座りして泣いている小夜ねぇ。

「今だって、自分の望む結果が手にはいらないことに絶望して泣いてる」

「私が泣いてる?」

 意外な言葉に、ピクリと片眉を上げて反応を見せる小夜ねぇ。

 それは前から思っていたことだ。

「小夜ねぇは泣き方を変えたんだ。涙を敵意に変えたんだ」

 俺は彼女の悲しみに方向を与えたかった。

 ただ自分や両親を憐れむだけに時間を費やすのではなく、同じ悲しむなら誰かのために涙を流してほしいと考えた。

 そうすればいつか涙も枯れて止まると思っていたから。

 その考えは間違っていたとは思っていない。でも、彼女はついぞ泣き止まなかった。今もなお、だ。

「私は──」

 パァン!

 小夜ねぇが何かを言いかけたその時、突然の発砲音がした。

 弾丸は小夜ねぇの頭を真横から撃ち抜き、小夜ねぇのこめかみからはまるでワインのボトルを逆さにしたように血がドボドボと吹き出している。

 いつの間にか、小夜ねぇと俺が戦うこの道路の向こうではパトカーが何台も集まり、沢山の警察官が様子を伺っている。そのうちの一人が、震えながら銃をこちらに向けている。

「……」

 頭の側面に穴が空いた状態でも、特に大きなダメージを受けた様子もなく首だけをパトカーの方に向ける小夜ねぇ。

 口をモゴモゴとさせ、ペッと弾丸を吐き出した。

 憎々しげに、警察官の方を睨みつけ、手をそちらへ向ける。手から伸びた触手のような黒いオーラが、シュルシュルと音を立ててナイフのような鋭利な形になっていく。その数は一本二本と増えていき、あっという間に数百本に。

「邪魔をするな」

「ひ、ひぃ……」

「やめろぉおっ!」

 俺の叫び声も虚しく、数百本のナイフが警察官達めがけて解き放たれる。

恐怖で身動きすることも忘れて縮こまる警察官達。

 しかし、そのナイフが警察官達に到達する直前、巨大なシャボン玉が警察官やパトカーを含めた辺り一面をまるごと覆う。陽菜が警察官たちの前にかばうように立っている。

 ドドドドドド、という滝のような音が響いたかと思うと、ナイフはシャボン玉に弾かれ地面に落下した。

「うっ……うぅ」

 小さなうめき声とともに膝をつき、ゆっくりと崩れ落ちる陽菜。

 防ぎきれなかった幾つかの小夜ねぇの放ったナイフが、陽菜の腹や足など数カ所に刺さっている。

「陽菜っ!」

 うつ伏せで倒れる陽菜に、駆けつける。

「陽菜っ! 陽菜っ!」

「姉さんは、さ……」

 陽菜を抱き起こすも、今すぐにでも気絶しそうな虚ろな眼の陽菜。

「ああ見えて結構おっちょこちょいなんだよね」

 その視線は俺を捉えていない。過去の姉の姿を虚空に見ているのか。

「キクラゲをクラゲの一種だと思っていたぐらいだし……」

「あ、ああ……知ってる。うん……小夜ねぇはデキる女ぶってるけど天然だ」

「きっと契約者の犯罪が憎くて……くやしくて誰にも相談できずに悶々としているうちに……ちょっと考え方を間違っちゃんたんだよ……」

「うん」

「桃也……姉さんを助けて。私、姉さんが……誰かを殺すところなんて、見たくないよ……」

「うん。大丈夫……俺が全部なんとかするから」

「ありがとう。やっぱり、桃也は頼りに……な」

 最後まで言葉を言い切ること無く、気絶する陽菜。

 俺は陽菜を抱えあげ、優しく道の端まで運ぶ。それを何の感慨も持たずに冷ややかな顔で見ている小夜ねぇ。

 彼女のこめかみに空いた穴は既に塞がっていた。

 俺は陽菜が右手首につけていた、俺があげたヘアゴムをその手から外すと、自分の髪をそのヘアゴムで束ねた。

 アラガミの力が宿る右腕は器用なこともこなせるので、以前よりもたつくことはない。

 これで髪の毛が邪魔になることはない。

 好きな人が好きじゃないと言ったらしい髪型だが、今はこれでいい。

「アラガミ」

「はいナ」

「もっと強い腕が欲しいんだ」

「……貸したいのはヤマヤマなのダ。でも吾輩の身体は……」

「わかってる。穴が必要なんだよな? この失明した左眼みたいに」

 俺は地面に飛散していた大きなガラス片を左手に取り、アラガミによる右腕の強化を解除する。

 むき出しになり、とたんに力が入らなくなりだらりと垂れ下がった右腕に、深々とガラスを突き刺した。

「がぁっ!あああああああっ!」

 血が噴水のように吹き出し、ミリミリと音を立てて引き裂かれていく右腕。

 駄目だ。これじゃあきっと足りない。もっと! もっと強く!

「まだだ! まだ足りないよなぁ!?」

 俺はそのまま膝をつき、右腕を地面において、全体重をかけてガラス片の上に脚を乗せた。

「おおああああああああああああああっ!」

 ベキ、という鈍い音を立てて最後の手応えが完全になくなった。

 骨が砕け、肉は裂け、皮膚はちぎれている。俺の右腕は完全に切断された。

「はぁ……はぁ……ほら……でっかい “穴”…… だろ?」

 最終的にねじ切った形になったので、血管やその他の繊維が潰れてしまっているのか、あるいは、千切った直後に左腕を右脇に挟んで圧迫止血しているためか、幸いにして思ったほど大量の血は出ていない。せいぜいぼとぼとと滴り落ちているぐらいだ。

 気を抜くと失神しそうなほどの激痛だが、もはや身体の物理的な痛みを痛みと感じなくなるくらいに心の方が痛い。

「………」

 いつもとは違う俺の雰囲気に、不思議そうな、少し困惑した様子のアラガミ。

「桃也。前にも言ったが、吾輩の能力はお前の心が望んだ分だけ力を貸すことなのダ」

「ああ……わかってるよ」

「だから、お前が心のどこかで “戦いたくない” と思っていれば、強さは生まれないのダ。ナマクラになっちゃうのダ」

「うん……それもわかってる」

「だから不思議なのダ」

「……」

「今の桃也はありえない程、精神(ココロ)がみなぎっている。何故なのダ?この戦いはただの殺し合いなのダ。でも、お前は小夜が好──」

「だからだよ」

 俺はアラガミの言葉を最後まで言わせず、言葉をかぶせた。

 それはきっと陽菜も小夜ねぇも気付いていることだけど、でも今ここで言うべき言葉じゃないと思ったからだ。

「だから戦うんだ」

 左眼は失明し、右腕もたった今自分で引きちぎった。

 体力はもうほとんど残って無いし、膝だって今にも折れそうだ。

 でも、心は少しだけ晴れやかだった。

「今戦わなきゃ、今小夜ねぇを取り戻せなければ俺は永遠に後悔する」

 ずっと、悩んでいたことに答えが出たのだから。

「必ず勝つ。勝ちたい、じゃない。勝つんだ」

「それなら……」

 アラガミは静かに口を開いた。いつも無表情のぬいぐるみのようなやつだが、今だけは少しだけ微笑んでいるようにも見える。

「ただ心の底から自分の “最強” を信じるのダ。必要なのはそれだけなのダ」

「うん、俺は初めて出会ったときからアラガミの力を信じてるよ」

「違うのダ。吾輩の力ではない、吾輩を呼び寄せた自分の力を信じるのダ。お前が信じきれないのはいつだって自分なのダ」

「そっか……うん。そうかも」

 小夜ねぇが向こうから静かに歩いてくる。向こうもまた、これが最終局面である事を感じ取っている。

(俺は、小夜ねぇみたいに犯罪者をただ憎悪するなんて、できない)

 見上げた空は日が沈み、すでに夜だった。

 鼻から大きく息を吸い、深呼吸する。

(陽菜みたいに見ず知らずの誰かを守りたいから、てのもピンとこない)

 静かに、しかし確かに滾る俺の内面に呼応するかのように、右腕があった部分に何かが生えてくる。滴っていた血も既に止まっているのを感じる。

(俺は、俺だけが納得する理由で戦う)

 これまでは、自分の右腕の上から装甲のような形でアラガミの右腕を憑依させていた。しかもアラガミいわく、一番弱い腕だという。

(小夜ねぇにこれ以上、罪を重ねさせない。陽菜からこれ以上肉親を奪わせない)

 しかし今は違う。文字通り、悪魔の手を借りるのだ。

( “誰か” なんてぼやけた対象じゃない。 “小夜” と “陽菜” 二人を助けたいから戦う!!)

 今までのメキメキというような無骨な感触ではなく、キィィンというような硬質で艷やかな振動が伝わってくる。

(そこに、命をかける!!)

 ──俺は、何を理由に戦うんだろう。

 それはいつか俺が俺に出した問い。その答えを今、ここで得た。

「力を貸してくれ……アラガミ!」

「これが吾輩の本当の腕なのダ! もっていくのダ! んんんんんんんんんっ! はぁ〜!」 

 力を凝縮するように小さく四肢を縮こまらせ、今度は大きく開いて開放するポーズをとるアラガミ。

 アラガミの発したエネルギーが俺の失った右肘から生えてきた異形の腕を更に変形させていく。

 どんどん不気味に形を変えていく腕から、蒸気のような煙が吹き出し、俺の周囲を覆う。

 煙が風に吹かれて消え、姿をあらわすアラガミの右腕。

 その右腕は腕と呼ぶには馬鹿馬鹿しいほど巨大で、あまりにも禍々しく、そして不気味な形をしていた。

 見た目は骨の質感。でも感触としては更に密度が高い鉄のように感じる。

 本来指がある部分には沢山の牙が、親指側も一本ではなく沢山生えている。拳を握るように力を込めるとちょうど猛獣の上顎と下顎が噛み合うような形になる。

 甲の部分にはまるでそこにかつて目玉が嵌まっていたかのような二つの穴がポッカリと空いている。手首の部分は頚椎のようなデザインになっていて、そこから伸びた頚椎は背骨のような形で切断された俺の肘を越え、肩まで巻き付いていた。

 これは、まるで俺の右肘から先が巨大な龍の頭蓋骨になったような、そんな形状だ。

 右腕から体に流れ込んでくる手応えで、この腕がこれまでの右腕と比べ物にならないくらいの力を持っているのはすぐにわかった。

「この腕は……」

「お前は吾輩との約束を果たしてくれたのダ。吾輩もまた、お前との約束を果たすときが来たのダ」

「ああ、そうだったな。ありがとう、アラガミ」

 アラガミに礼を言い、あらためて自分の巨大な右腕を見る。

 今更ながら、アラガミがなぜ “アラガミ” という名前なのか勝手に納得した。

 俺は、かつて自分の深層意識の底でアラガミと出会った時を思い出す。

── キミ、名前は?

── あまねく厄災 その全てを暴々しく咬み千切る 我の名は


── “暴咬(アラガミ)”

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