第6話
四月になり、あきらは二年生になった。
二年生初日の日に、同じクラスの大内君が、あきらのそばに駆け寄り、ESS(英語部)に入部するよう誘った。
「お前、英会話サークル、辞めたんやってね。うちんとこは今年で創部百年を迎えんねん。大学から部費が正式に支給されてて、公費の出ない同好会やサークル以上に活動は厳しいんやけど、英語得意みたいやから、一緒にやってみーへんか?」
ESS(英語部)は、ディべート・セクション、ディスカッション・セクション、ドラマ・セクションの三つの部門に分かれていた。
あきらは、二年生の四月初旬に、大内君が所属していたディスカッション・セクッションに入ることにした。
五月のゴールデンウィークが過ぎた頃には、すっかり失恋の痛手から立ち直っていたあきらに、次の出逢いが訪れた。
六月中旬に、目白にある聖麗女子大学のESSとディスカッションを行うことになり、その一ヶ月前の五月中旬から事前打ち合わせのため、サブチーフの大内君と雑用係りのあきらで、聖麗女子大学の正門前にある喫茶店に行くことになった。
「お忙しいなか、お時間を頂き、どうも有り難うございます。サブチーフの二年大内です。こちらは、あきら(実際は姓で紹介されていた。)です。よろしくお願いします。」
と田中君が相手方の三人に挨拶すると、
「いつもお世話になっております。聖麗女子大学サブチーフの二年『千秋』(実際は姓で紹介していた。)に竹内です。こちらこそ、よろしくお願いします。」
と、相手方の鈴木さんも挨拶を返して来た。
この日は具体的な話にはならず、本当に顔合わせ程度に終始して、軽く雑談をしたくらいだった。
そこで、あきらは、聖麗女子大のディスカッション・セクションの二年生でサブチーフの『千秋』と初めて顔を合わせたのであった。
彼女は、あきら好みのスラッと背が高くストレート髪が背中まで伸びたお嬢様風の美人だった。
通常は、どこの大学とディスカッションを行うかは、チーフ同士で決め、両大学の二年生のサブチーフが中心となって補助役の他の部員何人かと一緒に進めることになっていた。
しかるに、うちのサブチーフの大内君は、普段から東京弁をしゃべらないせいか、関西弁だとそうでもないに、女性に相対するとあがってしまい標準語がうまくしゃべれなくなってしまう。
丁寧な言葉でやり取りする必要があることから、あきらが代わりに意見調整役を行い、大内君が補助に回ることになった。
翌週の土曜日の夕方も、大内君と二人であきらは、新宿の喫茶店ルノアールで二回目の打ち合わせを行った。
この時、ディスカッションを行う会場を聖麗女子大にするのか、あきら達の東明大にするのかを決めるため、大内君と竹内さんが東明大に向かい、あきらは千秋の案内で目白の聖麗女子大へと、二手に分かれて下見に行くことになった。
ひととおり聖麗女子大の教室や講堂等を見て回ったあきらは、案内してくれた千秋に言っ
た。
「だいたい分かりました。さすが女子大ですね、ごみ一つ落ちてなくてキャンパス内も綺麗ですね。うちの大学は、あちこちにたばこの吸殻がいっぱい落ちてて汚いんですよ。ディスカッションの会場は、ここにした方がいいでしょう。」
「そうなんですか? ありがとうございます、光栄です。」
と千秋が頭を軽く下げると、あきらは笑みを浮かべながら急に話題を変えた。
「ところで、これから映画でも観に行きませんか?」
「はぁ?」
千秋は不思議そうな顔をしていた。
「突然でごめんね。」
「これってデートのお誘い?」
「そうでーす。」
「大胆ねー。」
千秋は冷静に状況判断していたが、あきらは更に続けた。
「随分昔の映画だけど、マイ・ファエア。レディっていう映画が、近くの名画座で上映されているんだ。まだ観たことないもんだから、この機会に君と一緒に観ておきたいと思ってさー。」
「ああ、オードリー・ヘプバーン主演の映画ね、私も観てないから、行きましょう。」
幸いにも、千秋は初対面からあきらに好印象を持っていたので、OKしてくれた。
二人は目白駅から山の手線で移動して、高田馬場にある名画座に入った。
映画館の中に入って、しばらくは館内の暗さに目が慣れていなかったので、あきらは右手で千秋の左手を引き、もう一方の手で手探りしながら中央の席まで進み、二人並んで座った。
座って映画を観ている間も、あきらは意図的に千秋の手を握ったままずっと放さずに、知らん顔して、映画の場面によって、彼女の手のひらをこちょこちょしたり、ぎゅっと強く握ったり、指を全部絡めたりしていた。
彼女はその度に何度もあきらの方を見ていたが、あきらは、真っ直ぐ映画のスクリーンを見たまま、敢えて知らん顔を続けていた。
すると、千秋はあきらの右耳に顔を近づけ、回りの観客に迷惑が掛からないよう小さな声で囁いた。
「あなたって、色んなことして来るのね! 映画観てないでしょう?」
今度は、あきらが千秋の左耳に顔を近づけ、
「はい、映画観てません。映画は口実で、他に目的があるんです。」
「えっ?」
千秋はびっくりしたような顔を見せていた。
あきらはそんな千秋に一切かまわず、
「実は、一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
と話を続けた。
「な~に?」
「あのオードリー・ヘプバーンみたいな女優さんになり切ってさー、演技でいいからさー、俺の耳元で、『あきら、大好き!』って、三回続けてささやいて欲しいんだ。」
一瞬の間があってから、千秋はそっとあきらの耳に口を寄せ、
「え~、そんなこと、恥ずかしくて言えないよー!」
「演技でいいんだけど、演技で。大女優、千秋・ヘプバーンになったつもりでさー。」
すると千秋が表情を変えて、
「演技って何よー?」
と、真顔で答えた千秋の反応に、あきらがびっくりしていると、
「でも、思いっきり演技して、言ってあげるね!」
続けざまに、あきらの耳元で、
「あきらー、大好き、だ~い好き、だいだ~い好きっ!」
と、三回囁いてくれた。
千秋の声は、堂々と自信に満ちてはいたが、期待と戸惑いを感じさせるような声でもあった。
「ありがとう、俺も千秋ちゃんのこと大好きだよ。」
「ほんとかな~? 他の娘にも同じようなこと言ってるんじゃないの~?」
「そんなことないよ、神に誓って千秋ちゃんだけさー!」
「半分だけ信じることにするね。」
「厳しいな~。」
その頃には、もう映画がどうでもよくなってきていたあきらは、映画観るのはそっちのけで、さらに彼女の耳元で続けた。
「図々しいようだけど、もう一つお願いしてもいいかい?」
「今度はな~に?」
「大したことじゃあないんけど、千秋とちょっとした勝負をしてみたいんだ。」
「かまわないわよ。」
「それじゃあ、行くね。」
「どうぞ。」
「君とキスしたい!」
「えっ!」
千秋は、少し顔を赤らめていた。
「何べんでも言うよ。君とキスしたい、キスしたい、キスしたい、千秋とキスしたいんだ。」
と、あきらは彼女の耳元でささやいた。
それから、うっとりしたようにぼっとしている千秋に、今度は優しく低い声で言った。
「いいのかな?」
すると、我に返った千秋は、
「ほんとに? 私とキスしたいの?」
「うん、千秋とさ! キスさせてよー、いいでしょう?ねっ!」
あきらは、強引に迫ろうとした。
「イヤ! でも、もし私が、万に一つでも、『いいよ』って言ったら?」
「そりゃもちろん、お許しを得たから、お言葉に甘えて、すかさず遠慮なくね・・・。」
千秋は少し考えて、
「じゃあ、明日ならいいわよ。」
「明日かい? う~ん、参った。君は頭がいいな!」
「明日、日曜日で両親いるけど、うちに来てもいいわよ。勇気ある?」
と言って彼女は笑っていた。
「この勝負は完全に俺の負けだ。負けたからには、今日は全部俺がおごることにするよ。まずはっと、何か冷たい物買ってくるね。」
と言って、あきらはそれまでずっと握っていた千秋の手を放し、席を立って売店まで行った。売店であきらは、ちょっと考えを巡らしてからソフトクリームを二つ買うと、五分くらい店の前で時間を潰し、ソフトクリームが溶け出しそうになるまで待っていた。
あきらは、今にも溶け出しそうなソフトクリームを両手に持って、席に戻って来た。
「はい、小銭を財布に戻すから、ちょっと持ってて。溶けて流れ落ちてきそうだから、身体から放して持った方がいいよ。」
と言って、自分の席に座ってから千秋の方を向き、片手に一つづつ両手を広げて持って来たソフトクリームを彼女にそっと渡した。
千秋があきらの方を向いて、両手を広げてそのソフトクリームを恐る恐る受け取ると、あきらは、左手に小銭を握ったまま、すぐに彼女のあごの下に右手の人指し指を横に添えて軽く持ち上げ、顔を斜め上に向かせた。
そして、ソフトクリームをできるだけ自分の身体から離して、両手を広げたままじっとしている千秋の唇に、いきなりチュッとキスしたのです。
千秋は状況を理解できずにキョトンとしていた。あきらは、千秋の下顎からゆっくり手を放し、左手で彼女の右手にあったソフトクリームを受け取ると、にやりと笑っていた。
「今の、ソフトクリームよりも甘かったよ。ご馳走さまでした。」
ハッと我に返った千秋は、
「もー、抵抗できない状態にしておいてなんだからー。」
と、あきらの右腕を軽く抓りながら言った。
「ははは、ごめんごめん、どうしても君にキスしたくってさー。早く食べよう。」
と、二人でソフトクリームを急いで舐めていた。
その頃には映画が終わり、エンディングの曲が館内に流れ始めていた。
こうして、あきらが生まれて初めて経験したファーストキッスは、まったくの勢いまかせで、強引に行ったものだった。
千秋に軽いキスをすることに成功したあきらではあったが、これから、彼女があきらとステディなお付き合いをしてくれるという確証はなかった。
映画が終わった時刻は、九時過ぎになっていたので、あきらは千秋を家まで送って行くことにした。
彼女の家は、最寄の駅から十分くらい歩いたところにあったのですが、その途中は、二人で並んで歩きながら会話していた。
「あきらさん、あんなことして、もし私が怒ってうちとのディスカッションがダメになったら、どうするつもりだったの?」
「その時は、みんなに謝って、責任取って辞表書くつもりだったよ。」
「大袈裟ねー、彼女は?」
「いませんよ。千秋が、俺の彼女になってくれたらいいなー。」
「それは、これからのあなた次第ね。だって、あなたのこと、まだよく分からないもん。」
「そりゃそうだよね、頑張りま~す!」
「そうそう、頑張ってよー。」
「とは言っても、どう頑張りゃ~いいんだろう?」
「なに弱気なこと言ってるの? あなたならできるわよ、期待してるからね!」
「は、はい。」
この日は、こうして千秋を家まで送り届け、あきらが自分のアパートに帰って来た時刻は、夜の十時を過ぎていた。
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