第4話:首に刺さる言葉たち
「好きな人ができたの」
その一言が、全ての引き金だった。
――記憶の中の玄関先。
薄化粧の女が、植木鉢を両手で抱えて立っている。
明らかに“よそ行き”の匂いをまとって、どこか浮ついた足取りで部屋に上がり込んできた。
「え、あのさ、ちょっと話あるんだけど」
テレビの音が小さくなる。
男が振り返ったその瞬間、女はスパッと言った。
「好きな人ができたの」
無表情。
それが余計に、胸を切り裂いた。
「なんで……?」
女は、少しだけ視線を泳がせたあと、続ける。
「もう、全部知ってるのよ」
「……なにが?」
「誰か部屋に入れてたでしょ。香水の匂い、前と違うし、化粧品のゴミもあった。……女の髪の毛も、落ちてた」
男は言葉を失う。
言い訳をしようとした舌が、喉の奥で引っかかった。
女は、小さく笑って言った。
「……もう、いいよ。初っ端からこういうのダメなんだよね。あたし、好きな人できちゃったから」
立ち上がろうとする女の手首を、男は反射的に掴んでいた。
「待ってくれ、違う、違うんだ、まだ……」
「離して」
「話せばわかる! ほんとに、ほんとに違うんだって!」
「離して!!」
振り払おうとする女の動きに、男の中の何かが“ブチッ”と音を立てて切れた。
次の瞬間、男は女の髪を掴み、引きずるようにして部屋の奥へ――
理性は、音を立てて崩壊した。
* * *
何分経ったかわからない。
女は床に倒れ、動かない。
男の手は、首を締め上げたその感触を、まだ忘れられずに震えている。
そして、胸元に残る鋭い痛み――
見れば、鎖骨のあたりに深く突き刺さった、女の親指の爪痕。
あの“傷”は、あのときについたものだった。
――バキッ。
確かに聞こえた、喉の骨が折れる音。
女の口から、血が溢れ出した瞬間――彼は「取り返しのつかないことをした」と理解した。
だが、その感情はすぐに、別のものに塗りつぶされる。
恐怖。
焦り。
そして、“始末”という選択肢。
男は、浴室の扉を開け、水を全開にして蛇口から流し始めた。
電動ノコギリを持ち込み、浴槽の中で機械を動かす。
ぶ゛゛ううぃいぃぃぃぃぃん……
肉と骨を切る、鈍く濡れたような音。
その瞬間だけ、男の表情は――まるで無機質だった。
感情も、罪悪感も、どこかへ消えていた。
* * *
数日後。
冷蔵庫の奥にしまったいくつかの肉片。
そして、それでも入りきらなかった頭部と腰部を、男は黒いビニール袋に包み、天井裏に隠した。
袋を持ち上げるときの、あの“ずしりとした重み”――
それが今も、腕に焼き付いている。
「……俺は……」
男は、リビングの床で膝を抱え、つぶやく。
「……俺は……殺したんだ……あの女を……」
思い出してしまった。
全てが、脳内に鮮明によみがえってしまった。
殺した。
解体した。
隠した。
そして、忘れていた。
自分の手で、記憶を塗り潰してしまっていたのだ。
――そのとき。
男の部屋の窓の向こう。
向かいのアパートの部屋で、何かが動いた。
* * *
暗い部屋の中。
スマートフォンの画面だけがぼんやりと照らしている。
その光の中で、女がひとり、異常な距離感でスマホを凝視している。
――看護師の女だ。
目が血走り、まばたきひとつせず、画面を見つめている。
そして、画面には映っていた。
男の部屋を検視する、数人の警察官の姿。
監視カメラの映像。
自分のスマホで、それをじっと見つめる女。
――そして、ゆっくりと、笑った。
* * *
――さらに、記憶は遡る。
あの日。
水商売風の女が植木鉢を抱えて男の部屋に入る姿。
それを、向かいのアパートから、じっと見ていたもう一人の女の目。
玄関が閉まったあとも、その視線は動かなかった。
見ていた。
彼女は、ずっと――見ていたのだ。
▶最終話予告:第5話「見ていた者、見られていた者」
真実はひとつではない。見つめていたその目に、何が映っていたのか――
そして、"影"はずっと隣にいた。
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