第3話:滴る天井の奥へ
ぽた……ぽた……ぽた……
天井の一点から落ちる、暗く濁った赤。
それは、まるで生きているかのように、音を立てて男の布団を濡らしていく。
男は天井を見上げたまま、息を殺していた。
この部屋の空気が、少しずつ変わっていくのを感じる。
重たく、湿って、“何か”の気配が確実にそこにある。
――「じじじじじ……」
まただ。
耳の奥をくすぐるような、あの音。
どこかで虫が羽を鳴らしているようで……いや、それは音ではなく、“記憶の奥”に染みついた警告音なのかもしれない。
* * *
男は、昨夜の出来事を改めてなぞる。
浴槽の赤い水。
女の髪の毛。
耳元で囁かれた“名前”。
目覚めたとき、自分の顔にべっとりと付着していた“血”。
事故で打ったはずの頭が、鈍く脈打つように痛み出す。
「……思い出せ、何かある……」
男は、買い物袋の中身を確認する。
缶詰。ティッシュ。
――そして、重曹と、すでに気化していたドライアイス用のパック。
「……こんなの……買った覚え……ない……」
だが、レシートには確かに印字されていた。
その日、男自身が購入した記録として。
その組み合わせが、何を意味するのかを考えたとき――背筋に冷たいものが走った。
* * *
男は台所へ駆け寄り、引き出しを開ける。
そこには、白い布に包まれた何かが入っていた。
開いた瞬間、鉄のような匂いが立ち上がる。
ギザギザとした刃。ノコギリの歯。数枚。
そのうちの一枚には、乾ききっていない血がこびりついていた。
「……嘘……だろ……」
手が震える。
しかし、男はそのまま“思いついてしまった”。
天井から滴っていた血。そこを調べなければならない。
* * *
押し入れの襖を開け、懐中電灯を持って天井の板を押し上げる。
ギイ……という音とともに、板がずれる。
真っ暗な天井裏。
電灯を照らすと、木の梁の間に大量のコバエが群がっていた。
「うっ……」
鼻をつく悪臭。
それは、腐敗した肉の臭い。死臭だった。
口元を布で覆いながら、男は懐中電灯の先を動かす。
梁の奥――
そこに、黒いビニール袋がずしりと横たわっていた。
血で濡れた、滴り続けるゴミ袋。
男は、慎重に手を伸ばす。
重い。
中には、確実に“何か”が詰まっている。
袋の結び目に指をかけた瞬間――
「じじじじじ……」
天井裏に響く、あの音。
男の指が、硬直した。
「……くそっ……!」
恐怖に目を背けながら、袋を開ける。
袋の中身が――露わになる。
それは、腐りかけの女の頭部だった。
髪の毛は抜け落ち、膿み崩れた皮膚の下から目が、ぎょろりと男を見返している。
その瞳――
明らかに、男を“知っている”目だった。
「う、うわああああああッ!!」
男は悲鳴を上げ、バランスを崩して押し入れから落下する。
背中を強く打ち、床に倒れ込んだまま、震えが止まらない。
頭の中で、映像がフラッシュバックする。
あの女……。
あの顔……。
男は、確かに“どこかで”その女と――
* * *
ピンポーン。
記憶の中の、チャイムの音。
アパートの玄関前。
水商売風の女が、植木鉢を抱えて訪れてくる。
彼女は男にこう言った。
「好きな人ができたの」
男「なんでだよ……」
女「全部知ってるのよ……」
男「まだ出会ったばっかじゃないか……」
女「もういい。初っ端から、そういうのダメなんだよね。……ごめんね」
別れ話。
部屋を出ようとする女の背中。
その時、男の中で何かがはじけた。
「ふざけんなよ……ふざけんな、ふざけんなッ!!」
髪を掴み、女を部屋の中に引きずり戻す。
もがく女。
泣き叫ぶ声。
首を絞める手に、力が入る。
その時――
女の親指の爪が、男の鎖骨のあたりに、深く突き刺さった。
「バキッ!」
喉の骨が折れる音。
女の目が、見開いたまま、動かなくなった。
* * *
男は、うつ伏せのまま床に倒れたまま、涙を流していた。
「思い出した……」
あの女は――自分が殺した。
現実を突きつけられた男の顔が、ゆっくりと恐怖に変わっていく。
天井の奥から、まだあの音が聞こえていた。
「じじじじじ……」
▶次回予告:第4話「首に刺さる言葉たち」
想い、憎しみ、疑念、そして一瞬の狂気。
すべての引き金は、別れ話だった――。
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