第2話:濡れた刃の記憶 

朝――。


 外はまだどんよりとした曇り空。

 男は、捻挫した足を引きずるようにして洗面所へ向かった。


 顔を洗い、歯を磨き、ひげを剃る。


 ――ピリッ。


 首元に鋭い痛みが走る。

 鏡越し、シャツの襟元をめくると……鎖骨のあたりに、三本の爪で引き裂かれたような赤い痕が刻まれていた。


 「……まさか……いや、事故のとき……か?」


 記憶は曖昧だ。

 けれど、あの“手”を思い出すと、喉の奥がじわりと冷える。


 昨日の夜の出来事を、頭の中で反芻する。

 じじじじじ――あの不快な音。

 動かない体。絞めつける手。

 夢のはずが、記憶の奥に“触感”として残っている。


 背中に嫌な汗が滲んだ。


 


 * * * 


 玄関を開けると、向かいのアパートの前で、例の看護師の女が自転車の鍵を外しているところだった。

 目が合う。


 女は、にこりと微笑んだ。


 「大丈夫ですか?」


 「え、ええ……なんとか」


 軽く会釈を交わし、男は出勤のため歩き出す。

 彼女も同じ方向へ。勤務先の病院へ向かうのだろう。


 今まで何度も顔を合わせていたはずなのに――気にも留めなかった。

 なのに今、何かが気になる。背後に、視線のようなものを感じる。


 


 * * * 


 夜。

 コンビニ弁当を空にし、男は風呂へ向かった。


 脱衣所の冷えた床。

 浴槽に湯を張ろうと、排水栓を摘まみ、風呂蓋を外す。


 ――その瞬間。


 「う……わっ……!!」


 息を呑む。


 浴槽の中は、真っ赤に染まっていた。


 ぬるりとした液体が、ゆらゆらと波打っている。

 その中に浮かぶ、長い黒髪がいくつも――絡まり合い、沈んでいく。


 血のような液体。

 女の髪。

 浴室全体に漂う、鉄臭く、生臭い匂い。


 男はその場に尻もちをつき、後ずさる。


 「な……なんだよこれ……ッ」


 浴槽には一滴の水も入れていない。

 あれは“いつの間にか”そこに存在していた。


 まともに浴室に入ることもできず、男は扉を閉めて、膝を抱えたまま動けなくなった。

 数時間が過ぎても、恐怖は消えなかった。


 


 * * * 


 苛立つように薬箱を開け、処方された頭痛薬を掴む。

 本来の量以上に数錠、無造作に口へ放り込んだ。


 喉を焼くように水で流し込むと、男はそのまま布団に倒れ込む。


 「……ふざけんなよ……なんなんだよ……」


 強烈な眠気が、怒りと恐怖を押し流していく。


 


 * * * 


 「……じじじじじ……」


 あの音が、また聞こえる。


 耳の奥で、湿った羽音のように震えている。


 そして今度は――


 「……○○くん……」


 女の声。

 耳元で囁くような、甘く、怨嗟にも似た声。


 男はうっすらと目を開けた。

 額や首筋、全身が汗で濡れている。


 時計を手に取る。

 AM3:00。


 「また……金縛りか……?」


 首を左右に振り、汗を拭った。


 そのとき、手の平に広がるぬめりに気づく。


 「……ん?……なに、これ……?」


 鼻先をかすめたのは、鉄のような強烈な臭い。


 汗じゃない――血だ。


 布団も、顔も、手も、濃く粘つくような赤に染まっていた。


 「……ひっ!!」


 男は慌てて洗面所へ駆け込む。

 顔を洗い、首元を確認する。


 自分の傷ではない。

 流れていた血は、どこからも“出ていなかった”。


 「な、なんだよこれ……」


 シャツを脱ぐと、鎖骨にできた爪痕に水が染みてヒリついた。


 そして――


 浴室の扉が、半開きになっていることに気づく。


 中には、赤い湯のままの浴槽。


 「……ふざけんな……」


 背筋が凍り、喉が乾く。

 この部屋で起きている“何か”に、心がざわつき始めた。


 


 * * * 


 震える指でリビングの照明を点けると、天井の一部から**ぽた……ぽた……**と何かが滴り落ちていた。


 暗赤色の液体が、布団に、床に――広がっていく。


 男は天井を見上げる。


 その先から、**“じじじじじ”**という音が、また――確かに聞こえた。


 


▶次回予告:第3話「滴る天井の奥へ」

記憶の裂け目から覗くのは、血の袋と閉ざされた真実。

“あの音”の正体が、天井裏で待っている――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る