惜し活

馬子まこ

第1話:赤い影と曇り空

 解像度の荒い監視カメラ映像。

 画面の中心には、簡素な食卓で一人静かに食事をとる男の姿が映っていた。

 誰もいないはずのその映像を、何かを探すように凝視する――血走った目の“誰か”。


 

 * * * 


 空は分厚い雲に覆われ、薄い灰色の世界が広がっている。

 その中を、無精髭を生やした男が量販店からフラフラと出てきた。

 ヨレたパーカーにしわだらけのジーンズ。手にはレジ袋。

 社会の隅に引っかかるように、どこか所在なさげに立ち止まる。


 震える手でタバコに火をつける。

 その震えが寒さによるものなのか、あるいは内側からくる“何か”なのかは、本人にもわからなかった。


 ゆらゆらと歩く男は、次の瞬間、前方から現れた自転車と正面衝突した。

 乗っていたのは若い女性。驚いた表情のままハンドルを切り損ね、男も女も地面に倒れ込む。


 男はそのまま、意識を失った。


 


 * * * 


 目を開けると、病院だった。


 蛍光灯が不自然に明るい診察室で、医者が言う。


 「足首の捻挫と、軽い頭部打撲です。MRIも撮りましたが、特に問題はありませんでした」


 異常はない。

 そう言われても、どこか“異常”を感じているのは、男自身だった。


 


 * * * 


 男の住むアパートは、築四十年は経っていそうな古びた木造建築。

 ドアの鍵は硬く、部屋の中は常に湿ったような空気が漂っている。


 出窓に置かれた植木鉢には、小さな花が一輪、寂しげに咲いていた。


 買ってきたレジ袋をテーブルに置き、中を覗く。

 缶詰、インスタントラーメン、歯磨き粉……。


 ――ん?


 見覚えのない商品がいくつか混じっていた。

 重曹、ドライアイス用の袋。

 レシートの金額にも、違和感。


 「……こんなの、買ったか……?」


 男は首を傾げ、何とか記憶を引き出そうとするが、脳内には靄がかかったままだ。


 


 ピンポーン。


 玄関のチャイムが鳴る。

 出ると、見覚えのある顔――自転車を運転していた女が、菓子折りを手に立っていた。


 「この前は、本当にすみません……。大丈夫でしたか?」


 お詫びに来たという女は、向かいのアパートに住んでいること、そして自分が看護師であることを告げた。

 事故のあと、彼が運ばれたのは偶然にも、彼女の勤める病院だったのだという。


 玄関先での短いやりとり。


 ふと、彼女の視線が男の背後――部屋の奥へと逸れる。

 一瞬の動揺を、男は見逃さなかった。


 「……どうかしましたか?」


 「……いえ。……何でもありません。あの、こちらに連絡先を……」


 メモを差し出すと、女は慌ただしく頭を下げ、そのまま帰っていった。


 


 * * * 


 その夜、男は布団に横たわっていた。

 部屋は静まり返り、まるで“呼吸”すら止まったような気配。


 ――「じじじじじ……」


 耳に届く、何か小さな虫が鳴くような音。


 男はゆっくりと目を開けた。

 音は天井の方から聞こえている。


 ――「じじじじじ……」


 発生源はわからない。

 音が耳に染み入り、神経をじわじわと逆撫でしていく。


 その時だった。


 布団の中から、黒い手がにゅっと伸び――


 男の首を掴んだ。


 「うぐっ……!」


 身体が動かない。

 声が出ない。

 まるで金縛りにあったように、意識だけが浮いていく。


 「バキッ!」


 骨の軋む音――首が折れる音だった。


 その瞬間、男の金縛りが解けた。


 汗だくで跳ね起き、部屋を見回す。

 誰もいない。何もない。


 だが確かに、“あれ”はいた。

 あの音と手の感触が、まだ喉にこびりついている。


 「……夢か……? 金縛り……か……」


 手のひらを見つめる。

 爪が食い込むほど、強く握っていた。


 鈍く、また頭痛がやってくる。


 男はゆっくりと立ち上がり、炊事場へ向かう。

 冷たい水とともに、薬を流し込む。


 その間も、心のどこかで確信していた。

 ――あれは夢じゃない。


 確かに“何か”がいた。

 この部屋に。


 


▶次回予告:第2話「濡れた刃の記憶」

再び忍び寄る音。浴槽の中に広がる赤い世界。

そして、指先に残る“誰か”の痕跡――。

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