私が砂浜で海を眺めている茉白ましろを初めて見たのは、雪がちらつく冬の日だった。この街では雪が降ることなんてめったにないから、その日のことはよく覚えている。期末テストの最終日だった。

 テストの日だったから、学校も早く終わり時間もあった。私はテストで疲れ切った頭をリフレッシュするために、少し遠回りして家に帰ろう、ということにしたのだ。学校から少し歩いたところには海がある。家とは逆方向になってしまうけれど、たまにはいいだろう、と。


 靴をサンダルからローファーに履き替え、昇降口を出ると、一気に冷たい空気が肺を埋め尽くす。空からは、ふわりとした雪が、はらはらと舞っていた。


「さむ~い」


 そう言いながらも、遠回りして家に帰ることを決めたのは、珍しい雪を見てテンションが上がっていたからなのかもしれない。私は少し浮足立つ気持ちを抱えながら、学校を後にした。

 気分が良かったとはいえ、寒さは変わらない。私は寒さを少しでも和らげるために、途中、自動販売機で温かいココアを買った。それは飲まずに、手で握りしめたまま、海へと向かう。

 足取りは軽かった。寒い中一生懸命空を飛んでいる鳥も、ひんやりとした風に枝を揺らす木々も、やけに鮮明に見えたのだ。心が軽いと、こうも世界が明るく見えるのだ、と私の口からは自然と鼻歌が紡がれていく。


「……そういえば」


 私はふと足を止め、鼻歌もやめる。


「この曲、どこで聞いた歌だっけ」


 いつかどこかで、誰かが歌っていた気がする。けれど、どこで誰が歌っていたのか、思い出せない。

 寂しいけど、どこか温かい気持ちになるような歌だ。私はこの歌を気に入っていたから、よく鼻歌で歌っていた。


「うーん……」


 考えても考えても、思い出せない。このまま考え続ければ、そのままずっと思い出せなくなる気がした。


「まあ、きっといつか思い出すよね」


 そうして私は、また、鼻歌を口遊みながら海へと足を向けた。



 雪が降っているからか、海はかなり寒かった。コートを着て、マフラーも着けている。さっき買ったココアは、ここまで来るうちに冷めてしまったけれど。それでも、海から吹く風というのは想像以上に寒かった。どうして遠回りして海を見に行こうなんて思ったのか。少し後悔の気持ちもあった。

 けれど、波の音が近くに聞こえる中、海面に白いまっさらな雪が降り落ちていく。海に触れると、その雪は一瞬のうちに波にさらわれていった。


「……きれいだな」


 あまり見たことがない景色だったからか、その様子を綺麗だと思った。


「──きれいじゃないよ」


 ふと、後ろから声が聞こえた。透き通るような声だった。私は思わず、後ろを振り向く。

 女の子がいた。私と同じ制服を着ている、少し背の低い子。ハーフアップに結ったさらりとした細い髪の毛を、指ですくって顔にかからないようにしている。

 かわいい、と思った。けれど、こんな子、見たことがない。一瞬で目を奪われるくらいには、私が理想としている女の子像だったのだろう。そんな子、一目見ただけでも忘れるはずがない。しかも、同じ制服を着ているから、学校も同じのはずだ。


「あれ? びっくりさせちゃった?」


 彼女がふわりと微笑む。その笑った表情も、今にも消え入りそうな女の子、という感じで初対面なのに、守ってあげたくなるくらいだ。


「……う、ん。びっくりした」

「あはは、ごめんね」


 私は首を横に振る。たしかに突然後ろから声をかけられて、びっくりはした。けれど、彼女のような女の子に出会えたのだから、そんなことは些細なことで、どうでもよくなっていた。


「あなた、名前は? 私は茉白」

「茉白……ちゃん。私は、綾羽あやは

「呼び捨てでいいよ、綾羽」


 そのとき、私の胸がとくりと跳ね上がった気がした。今までは、そんなことなかったのに。彼女に、茉白に名前を呼ばれただけで、ときめいてしまったらしい。


「ねえ、綾羽」

「……な、に?」


 冬なのに、じっとりとした汗が背中を伝った気がする。息の仕方を忘れてしまったみたいに、私の心臓はあまりにも大きく飛び跳ねていた。


「綾羽はさっき、あの雪を見て綺麗だって言ったでしょ」


 確かに言った。冬の海は荒れていて、さして綺麗だと思えない。けれど綺麗だと思ったのは、雪が降っていたからだ。どんなにすさんだ風景でも、雪が降っていたらいい風景のように私は思う。ただ単純に、雪が好きだからなのかもしれない。

 だから私は、茉白の言葉にこくりと頷いた。

 すると茉白は、にこりと微笑んだまま、目を細める。不気味に思える仕草だったけれど、私はそれでも、茉白から目が離せなかった。そして茉白の口がゆっくりと開かれる。


「……私は、綺麗だとは思わない。残酷、だと思うかな」


 茉白の言葉に、私は頭を殴られた気分だった。



茉白が残酷だという意味がわからなかった、というのが理由のひとつだ。雪は、綺麗なものじゃないのか。溶けてなくなるからこそ、そこにある一瞬が綺麗に見えるものではないのか。

私は茉白を仰ぎ見る。


「雪、綺麗と思わない?」


茉白は海を眺める。何かを考えているのだろう、という表情だった。そしてしばらくして、


「雪は綺麗。けど、綾羽が綺麗だって言ってたものは、やっぱり残酷」

「……どうして?」

「だって、すぐに消えちゃうじゃない」

「う、ん」


 茉白の言っていることも理解できた。きれいなものは、きれいだからこそずっと手元に残しておきたくなる。だから、消えてしまってはもったいない。


「茉白は、大事にしたいの?」

「うん。きれいなものは、大事にしたい。だから、消えてしまうと残酷だなあって、思うんだ」

「そっか」


 今初めて会ったばかりだというのに、茉白のことが少しわかった気がして、嬉しく思った。私は微笑みを茉白に向ける。


「ねえ、茉白のこと、もっと教えてほしい」


 茉白は首をかしげる。


「なんで?」

「いや、えっと……茉白のことが、知りたいから?」

「どうして、そう思ったの?」

「さっきの雪の話を聞いて、そういう話をもっと聞いてみたくなった……って理由」

「そっかぁ……」


 茉白は突然静かになり、顔をそっと海のほうへと向ける。

 そこから、茉白は何も言わなかった。海を眺めて、時折ふぅ、と息を吐いて。私が茉白に声をかけても、何かに集中しているように、押し黙ったままだった。


「……さむ」


 それにしても、雪の降る中、コートを着ているとはいえ制服のままはそれなりに寒かった。

 茉白は、制服だけだった。コートも着ずに、雪の中に立っている。白い肌に寒さで赤くなった鼻先と頬が目立つ。きっと、私よりも寒いだろう、と思った。


「茉白、私そろそろ帰るね。寒いし」


 茉白から返事はない。


「茉白は寒くない? よかったら、コート使う? 茉白はまだ、もう少しだけここで海を見てそうな気がするから」


 茉白から、返事はない。けれど、茉白をそのままここに置いていくのはなんだかいい気持ちにはならない。私はそうっと、茉白の肩に自分のコートをかける。そうすれば、やっと茉白からも反応があった。


「コート、ありがとう」


 それは遠慮する言葉ではなく、受け入れる言葉。久しぶりに「ありがとう」と聞いた気がして、なぜか泣きそうになった。


「う、ううん。返すの、いつでもいいから。それじゃあね」


 茉白はそのあと、ばいばい、と言ってくれたかもしれない。けれどその返答を待つことなく、私は急いで岐路についていた。



 海辺には、少女が一人。雪の降る中、海を眺めていた。肩にはコートがかけられている。その華奢な体躯には、少し大きいと思えるようなコートだ。

 少女は、海に消えていく雪を眺めながらぽつりと呟く。


「コート、あったかい」


 そう言って肩にかけていたコートで、ぎゅっと自分を包み込んだ。

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