第5話 異形の怪物
森の鬱蒼とした空気が、急にねじれるみたいに視界を歪ませる。僕とレアラは、崩れかけた樹木の隙間を抜け、先ほど見つけた狭間の口――まるで黒い渦のような境目――へと足を踏み入れた。奇妙な冷気が肌にまとわりつく感覚に、一瞬腰が引けそうになる。でも、ここで引き返しては何も始まらないと、自分に言い聞かせた。
「大丈夫? ここからが本番よ。」
前を歩くレアラが、杖を軽く握り直しながらこちらをうかがう。僕は身体を、ほんの少し震わせながらうなずいた。
「うん、僕は……やるしかないから。行こう。」
黒い闇がかすかに明滅し、宙を覆う。次の瞬間、僕の足元から視界の端まで、まるで絵本から飛び出したように明るい彩りが広がっていった。
それは、予想外の光景だった。森の静寂を通り抜けたはずが、そこは大量のお菓子が浮いている不可思議な世界だったからだ。
「これ……本当に狭間の中なの?」
僕は思わず息を呑んだ。足元を見ると、ふかふかのスポンジケーキのような地面が広がっていて、僕の靴がぐにゃりと沈みこむ。鼻をくすぐるような甘い香りが漂い、空には大きな金平糖がふわふわと浮いているではないか。
「見た目は可愛らしいけど……よく見て」
レアラが杖を向けた先、ちょっと離れた地面の亀裂からは黒い靄が滲んでいた。溶けたチョコレートかと思いきや、何か腐ったような臭いを伴う闇色の液体があちこちに広がっている。確かにファンシーなビジュアルなのに、不穏な空気をひしひしと感じる。
「狭間というのは、世界の歪みが反映される場所だから、どんな姿になるか分からないの。今回は……まぁ見ての通りお菓子の世界といったところかしら」
「なるほどね……確かに普通じゃない」
僕は剣の柄に手を置きながら、慎重に数歩を進める。表面はスポンジのようにフワフワしているが、踏み込みすぎると妙にぬるりとした質感が足裏にからみついてきて、不快感を覚える。
「気をつけて。ここにいる魔物は、狭間の邪気を帯びてる以上、かなり強いから」
「分かってる。前に倒した狼みたいなやつも出てくるのかな……あんまりああいうのとはやりたくないんだけど……」
「まぁ、私としてはあなたが前に出てくれるほうが助かるわ。死霊術を表立って使うことはできないけれど、アンデッドのあなたなら多少目立っても『ただ強いだけ』って思われるでしょ?」
レアラは軽口めかして微笑む。死霊術を使う彼女が堂々と力を振るうのは確かに危険かもしれないが、アンデッドである僕ならある程度は前線を任されても不自然じゃないのかもしれない。もっとも、アンデッド自体も禁忌だと言われればどうしようもないのだが。
「死霊術ってものすごく目立つのよ。アンデッドのあなたが前に出てくれるだけで、私は魔法を抑えられるってわけ」
「そっちは抑えられるかもしれないけど、僕のほうが目立ちすぎたらどうなるんだろう……。アンデッドってバレたらまずいんじゃ?」
「見た目はただの少年だし、深く疑われない限りは大丈夫よ。やけにタフな子供くらいで納得してもらえるかもしれないわ」
そんなやりとりを交わしつつ、お菓子の森の奥へと歩を進める。大きな飴細工の塔がそびえていて、その周辺にはパステルカラーのキャンディが砕けて散らばっている。けれど、その光景をよく見ると、キャンディの割れ目から黒い靄がもやもやと漏れだしていて、やはり異様な雰囲気が消えない。
そこへ、ずるり……と地面を粘っこく這う音がした。振り返ると、チョコレートの洪水をまとったかのような異形の魔物が姿を現す。身体の一部は妙に膨れ上がり、ケーキの生地が骨に絡まって変形しているみたいだ。明らかに普通の魔物とは違う歪さを放っている。
「来たわね。マコト、準備はいい?」
「う、うん。見た目は甘そうってか……結構グロいよ」
「狭間に生まれた魔物は一律で『ハイジン』というの、どんな見た目でも油断しないで。中身は世界の歪みそのものなんだからね」
レアラが小声で死霊術を唱え始める。するとぼんやりと闇色の骨兵が数体、彼女の周囲に姿を結ぶ。
「僕は剣で対応するよ。こいつ、こっちに向かってきてる……!」
歪んだハイジンが唸りを上げ、チョコレートが混じったような粘液を床に滴らせながら迫ってくる。僕は尻込みしそうな気持ちをぐっとこらえ、片手剣を抜いて斬りかかる。前に戦った狼のときよりは慣れた……と言いたいけれど、やっぱり戦うのは恐いものだ。
「うわっ、こいつ、やたら粘ついてる……!」
斬りかかった剣がハイジンの体内にめり込むものの、まるで溶けた飴細工を切り裂くみたいに感触が掴めない。それでも深く切り進めば痛打にはなるらしく、怪音を立ててハイジンが後退する。骨兵たちも骸骨らしい動きで牽制してくれ、意外と連携が取れているようだ。
「ナイスよ、マコト。そのまま押して!」
「わ、分かった……よっと!」
闇のオーラをまとった骨兵がハイジンの横合いを突き、僕も前から正面突破を図る。ハイジンが苦しげにうねっている隙にレアラが黒ぐろとした闇の弾を放ち、決定打を与えた。粘液状の体がまるで熱されたチョコレートのように溶け崩れ、ぐじゃりと地面に沈んでいく。
「はあ……はあ……辛いなあ。甘い匂いと気持ち悪さが混ざって吐きそう」
「まあ、初の狭間攻略だもの。慣れないのは仕方ないわ。まだ奥にいる気配がするし、行くわよ」
「うん……頑張るよ」
そう言いながら、僕は割れた地面を踏みしめて立ち上がった。まだ腕の先には粘つく液体がまとわりついていて、お菓子のような匂いが鼻を刺激する。だけど、この不快感にも少しずつ慣れてきたのは確かだ。
レアラの尻尾が、ふんわりと揺れた。見知らぬ狭間でのお菓子の世界は、可愛らしさの裏に底知れない危険を秘めている。甘い匂いと、どこか腐ったような刺激臭が混在する奇妙な空間を抜けて、さらに奥へと進む道のりは決して楽ではないだろう。それでも、僕とレアラは互いに視線を合わせ、次の一歩を踏み出した。
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