おまけ 始まり
ピピピピ…ピピピピ…ピピピピ……
「ん…うるさい。…………朝か」
目覚まし時計の音で目を開けると、視界に映ったのは見慣れた黄ばんだボロアパートの天井。窓から差し込む光が、緑色のカーテンを柔らかく包んでいる。
立ち上がるのさえ億劫だったが、一度ぐぅんと伸びをして、窓を開けた。
すると、夏らしい蒸し暑さと蝉の声が部屋に入ってくる。ふわりと揺れたカーテンが、窓枠に柔らかな影を落とす。しかしまぁ、今頃エアコン代も馬鹿にならない…どころかだいぶ高いので、すぐに閉める。
窓際の棚においたガラスのグラスと、そこにさした真っ白なペンタス。水の入ったグラスが日光を反射して、これはこれで綺麗だ。
ペンタスは、西洋では
「はぁ、縁起よくないなぁ。運が悪過ぎて、もう人生が終わってる…」
国立大を卒業して、製薬会社の内定を貰っていた。…いた。
今は無いということだ。
別に、何か犯罪など良からぬことを企んだり実行したりした訳では無い。何故か、その取引先の会社が次々と潰れ、倒産の危機を迎えたことによって内定を取り消されてしまったのだ!
深刻な経営難によって法律違反にもならなかったため、慰謝料を請求することもできず、今はコンビニと飲食店のバイトに明け暮れている。
大学生時代のアルバイトで稼いだお金をちょっとずつ使って生きてきた。しかし、たかが学生のバイト。通帳を睨んではため息を着く毎日だ。新しい仕事を見つけなきゃなぁとは思うものの、それが中々に難しい。
「ふぁ…ぁ」
口に手を当てて欠伸をすると、言いようのない虚無感に襲われた。
私が、合コンにも参加せずに過ごしたあの4年間は一体何のためだったんだ………?
取り敢えず、8時からのバイトに遅れないように準備することにした。
寝間着から、高校時代のジャージに着替える。『佐竹』と金色に刺繍されたジャージは、外を出歩く時には恥ずかしい。
二十代にしては油っ気のない黒髪を百均の櫛でとき、小学校でも禁止されないような紺色のヘアゴムで1つにくくる。
朝ご飯はお腹が空かないので食べない。
水道水をコップについでそのまま飲む。
「んっ…ぬるい」
もしかして、家、無くなる?
もうそれは予知に近いなにかだった。
消防車の近づいてくる音、煙の匂い。
全てが疎ましく感じた。
✤✤✤
出火から5分ほどで、すぐに消防車が到着したためか、我らがボロアパートは全焼を免れた。
しかし、大家さんが高齢だからという理由で、アパートはそのまま崩されることに………。
あれ?
もしかして、私…
住む場所、失った………?
橋から飛び降りる人の気持ちは、こんなものなのだろうか。
大家さんが「ごめんねぇ」と言うのに「全然大丈夫ですよ〜、友達の家に泊めてもらうので!」と嘘をつき、とは言えこんな嘘は地獄に行っても舌を引っこ抜かれる原因にはならないだろうが。
あぁ。どうしよう。
本当に、どうしよう。
もしかして、今日から公園の、ストローを横にしたような形の遊具で寝ることになるのか!?
それとも、ゴミステーションの中とか?
友達の家…
………。
友達と言える友達が一人しかいないのはなぜだろう。そして、そのほぼ唯一とも言える友達の家が、そもそも地方さえ違うのはなぜだろう。
運が…悪い………。
私は、ふらふらと道端に座り込み、たんぽぽの花にそっと手を添えた。
たんぽぽの花言葉は、「真心の愛」「愛の神託」「幸せ」「神託」…などなど。「愛の神託」や「神託」という花言葉は、ヨーロッパで古くから綿毛を使った恋占いに用いられたことからが生まれたらしい。また、明るく真っすぐに咲く姿から「幸せ」「真心の愛」といったポジティブな花言葉が付けられている。一方で、綿毛が風に乗って飛び散る様子から「別離」という花言葉もある…。
何故私は、家を失い、たんぽぽの花言葉なんかを考えているのだろうか。
そうこう言っている間に、もう日が沈もうとしている。
公園に泊まるのは死んでも嫌なので、いや別に死んでもって訳でもないけれど、ホテルを取ることにした。
貧乏性のおかげで、お金はそこそこ貯まっており、かつ財布の中もそこそこ豊かだったので、一番安いと思われるホテルに泊まった。ホテル…こんな、観光用の建物や、イベント、いい景色があるわけでもない中途半端な町にもホテルがあって良かった…。
✤✤✤
次の日、ホテルから直行してコンビニバイトに出ると、こちらがびっくりするくらいの勢いで、色々と聞かれて困った。
「アパートが燃えちゃったんでしょう?」
―――えぇ。まぁ…
「え〜、そんなことあるんだ…」
―――いやぁ、私もびっくりですよ…
「怪我とか、火傷とかない?大丈夫?」
―――たまたま、出ていたので…
「今日来て大丈夫なの?」
―――はい、昨日は急に休んですみませんでした
「何処で寝たの?」
―――公園…ではなく、ちゃんとホテル取りましたよ、流石に
同じような質問を、何度も返しているうちに、全てが面倒くさいような気持ちになってきた。
あーあ、なんで私がこんな羽目に…。
ピッピッ、ピッピッ…と商品のバーコードを読み取っていると、気持ちが暗くなってきた。
当たり前だけど、時間は止まってくれないんだと実感した。
商品の棚を整理していると、何故か無心になれたから、棚整理の仕事を志願した。
どうにかして仕事を終えたあと。
ホテルに帰る途中。
バスより電車の方が安いので、駅まで歩いたり走ったりして、電車に乗ることにした。
駅の改札を転がるように出て、階段を駆け下りたが、電車は無情にも過ぎ去っていった。
次の電車が来るまで、壁に寄りかかって待っていた。
何故か客観的に自分を見ることが出来た。
ショックだったんだ、と気づいた。
内定が取り消されたことも、アパートが燃えたことも、全て。自分のせいで、責められるなら、まだ気持ちのぶつけようがある。自分に対して、ぶつけられる。
だけど…
人に怒りをぶつけるのは嫌いだ。
どうしてだろう。
自分を見ているみたいで、どうしようもないようや気持ちになってくるのだ。難しく、厳しく、つらい。
だけど、人に怒りをぶつけるのが楽だから、私もそれをやってしまうことがある。
すると、すぐにそれは消えてまた憂鬱な気持ちになるものの、一時的に気分が晴れる。今回、私に一斉に、起きた不幸は、誰のせいでもないから。
誰も、誰にも罪をなすりつけられないし、責められない。だから、こんなにもむしゃくしゃしているのだ、と思う。
自分の汚さがはっきり見えたみたいで、ちょっと悲しい気持ちになった。
少しずつ人が増えていく。
幸せそうに手を繋いで歩いていくカップル。
サラリーマンと思われるスーツの男性。
メガネをかけてスマホをとても早く操作する女性。
男の子と女の子、お母さんとお父さんと思われる四人家族。
いろんな人がいるなぁ。
そう呑気に思えてホッとする。
私も列に並ぼうと立ち上がった瞬間だった。
走ってくる誰かに押された。いや、多分、その人にとっては当たっただけだと思っているんだろう。けれど、勢いは消えない。このまま、電車のレールの上に落ちて、丁度良くやってきた電車に轢かれるのではないか、という妄想まで頭を駆け巡った。
慌てて足に力を入れてブレーキをかけようとする。
だけど…
私の中で、悪魔が囁いた。
―――このまま落ちちゃえば、楽なんじゃないの
そう思うと、足の力が抜けてしまった。
確かに、もう…このまま………
そしたら、楽になれるんじゃないか…
そう思ってしまった。
その時。
―――ちぃちゃん!
一人の、男の子の顔が思い浮かんだ。女の子みたいに可愛くて、優しかった子。
―――駄目だよ、ちぃちゃん!
その高くて優しい声が頭の中に響いた瞬間、足にもう一度力が入った。
数歩よろけたけれど、立ち止まることができた。
その瞬間、電車がやって来て、プシューとドアが開いた。ぞろぞろと人々が降りていき、だいたいの人が降りると、列が進み始めた。私も、その最後尾に並んで電車の中に入る。
電車の中は、基本的に寒い。だが、今日みたいな満員電車のときはとても暑い。ギリッギリで乗り込めた私は、ドアに押し付けられるようにして、外を、見ていた。絵画なら、水にぬらした平筆ですうっすうっとヨコに線をつけていくような感じで、もう一直線にしか見えない景色を、ただじいっと見ていた。視界が、にじんでいた。
ぐいっと目をこすると、視界がまたはれた。
その時、視界の隅に黄色い花を見つけた。
たんぽぽだ。
多分、コンクリートのすみっこから生えていたんだろう。
もう見えなくなってしまったけれど。
何だっけ、たんぽぽの花言葉は…「真心の愛」「愛の神託」「幸せ」「神託」。
「幸せ」。
今の私が欲しい花言葉は、これだ。
帰ろう。
素直に思う。
あそこに、帰ろう。
全てに、決着をつけてしまおう。
幸せ。
今の私も、きっと誰かから見たら幸せなんだろう。
帰ろう、私。
帰ろう。
あそこに。
あの子のいる町に。
私は、ドアに、映った姿で、自分が笑っていることに気づいた。
中途半端な、高校生でも出歩かないような、ダサいジャージを着ているけれど、私は今、笑っている。
あの人のもとへ、帰ろう。
帰ろう。
帰ろう
貴方の記憶、受け取ります 真城幸 @hiyokobatake
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます