第3章
白いブラウスに紺のスーツ。膝裏ピッタリの長さに合わせたスカートも紺。黒っぽい色のせいでより暑さが増す。
「あっつ…」
たまに足を止め、ペットボトルの中のお茶を飲みながらも、迷うことなくある方向に進んでいく。
(あぁ、もうお茶も
何て心の中で呻くが、それを口に出すことはしない。理由は単純。『この暑さでは何か言うのも
千夏はふらふらと頼りない足取りで、家――といっても貸し出されたものだが――から出て歩き、とある家の前で足を止めた。
どーんと大きく広い日本家屋である。
真っ白な塀に囲まれた、美しい庭。
そこには鯉の泳ぐ池さえもある。
千夏が初めて見た時、城と平屋の合の子(家?)だと思ったほどだ。
千夏は堂々と、大きく豪華な家の扉を…通り過ぎ、本邸と思われる大きな屋敷…の左後ろの方にポツンと建つ一戸建ての家のドアの前で立ち止まった。
呼び鈴を鳴らし、ピーンポーンという間の抜けた(?)音を聞く。しかし、一向に住人は出てこない。
「なぎ〜!」
そして鞄からゴソゴソとスマホを取り出すと、電話をかけ始める。
しかし、応答はなし。
『ヴ〜〜、ヴ〜〜、ヴ〜〜』がただ繰り返され、最終的には、「おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」という無慈悲な機械の平坦な声が聴こえた。
(まぁ、想定内)
小さくため息を着くと、千夏は合鍵を取り出し、ガサ入れでもするかの様に遠慮もなしにドアを開き、中にズカズカと入っていく。
ハイヒールを脱いできっちり揃えると、
「なぎ〜〜っ!」
玄関からリビングに続く戸を開けて顔だけ出し、声の限りに叫んだ。
「なぁっ〜ぎ〜〜っっ!!」
先程より大きな声を出した…筈だったが、うんともすんとも返答はない。
「ああ~ぁぁっ!」
千夏は、眉をギュウッと寄せ、唸った。
(うーん、仕方ないっ最終手段を使うしかないかー!)
「行くか…」
頬を両手で挟み、ばちっと叩く。
弱めにしようと思ったが、思いの
ぐわらっと玄関のドアを勢い良く開ける。
ずんずか突き進み、階段に続く戸を開ける。テカテカと上がり、とある部屋の前で立ち止まった。
ドンドンドンドン。
ドンドンドンドン。
ドンドンドンドン。
とにかくドアに拳を打ちつける。
痛い。
ふつーに痛い。
痛いけど、こうでもしないと、あの人は駄目だ。
「なぎ!」
そう呼びかけて(おそらく無意味)、まぁ予想通り反応がないので、お行儀は悪いが、ゴッとドアを蹴った。
すると…
「…っにゃ、※#%$&€‰µ©¥∉∅∂……」
意味不明すぎる寝言が聞こえてきた。
「なぎ!!」
もう一回、ゴッ。
「…○∆¤‡†π≫☆@…むにゃ=®§∩ωΘΦ…」
(長くなった……っっ!?)
「なぎ!!!」
膝でゴンッ。
「…↹⇜*%℃⇙℉‰№¶«§※£€ⅸⅷⅭⅧ✳✡▷…」
(もう全然分かんない……)
ふと左腕に着けた腕時計を見やると、長針はもう『8』を指している。
(時間がやばい…っ、あーぁっ、もう!)
「なぎ、開けるよ!」
力いっぱいに扉を押すと、ふつーに開く。
(鍵くらい閉めとけよ!)
今は鍵を閉めていないのがとても助かるが、常識的には駄目だと思う。
そのまま開くと、ゴッと鈍い音がした。
「あれ、」
冷や汗タラァリ。
恐る恐る部屋を覗くと…
「きゃあっ!」
千夏は叫んで扉を思いっきり閉めた!
今度はドアがギイイゥッと音が出したが、もう千夏にそれを案じる余裕はなかった。
(なっ、何で裸で寝てるのこの人!)
「んにゃ…ちぃちゃん?」
ガチャっとドアが開かれ、上半身ハダカの青年が顔を覗かせた。
「ぎゃあああっっ!!服着てよ、警察呼ぶよ!」
スマホを取り出して
ふと、次のことに気がついたのだ。
(あれ、警察呼んだら捕まるの私じゃね…?)
その通りである。
家まで押しかけて勝手に私室に入ろうとした……(夜じゃないけど)夜這いと勘違いされるだろう。って、どっちもあり得ない!
(なっ、ななななぜならですね。…私となぎは、仮面夫婦(?)だからなのです!)
千夏と汀は、法的には夫婦なのである!
「ちぃちゃ〜ん、着替えましたー」
「じゃあとっとと出てきてください!」
「はーい…」
むにゃむにゃ言いながらも青年はちゃんとスーツ姿(←ここすごく大事)で出てきた。しかし、ネクタイが緩み、曲がりくねっている。
「あのぅ、汀さん?ネクタイ曲がってますよ?」
そっと顔を見上げて指摘したが…
「…すやぁ……」
「寝てる!?」
立ったまま二度寝した青年の耳には届かなかったようだ…。
「あー、もうっ!なーぎ!」
背伸びして肩をゆらゆら揺らす。
「もう時間がないんです!」
9時まであと10分もない。
「もうお客様がいらっしゃいますよ!」
「……はっ!」
ガクガクと揺さぶると、こっくりこっくり船を漕いでいた青年が完全に目覚め、ビシッと立った。
「あれ、ちぃちゃん。どうしたの?」
いや、『ビシッと』はしていなかった。
「どうしたもこうしたもないよ!とにかく今は仕事です!ほら、早く!」
「はーい…」
このだらけた男、名を
千夏は、稀に…いやしょっちゅう、(この人はどうやって生活しているのだろうか)と疑問に思う。
「みすゞさんに怒られちゃうよ!なぎでは無くって、私が!」
汀に向かって言い放った時、
ぐーきゅるるる
汀のお腹が凄い音を立てた。
「…ちぃちゃん、おにぎり一つでいいから恵んでくれない?」
「絶対ダメです」
即答。
「えぇ~、僕空腹で死んじゃう」
「一食抜いた程度では死なないよ…ほら、さっさと行かないと。あぁ、髪もボサボサじゃないの」
「ちぃちゃぁん、お願いだからさ、」
「ダ・メ・で・す!!」
「ぐえぇ」
潰れた蛙のような声を出した汀を、千夏は思いっきり無視し、タッタカタッタカ階段を降りていく。
「そ・れ・と!なぎ、ちゃんと掃除してくださいよ。リビングぐっちゃぐちゃだったよ」
腕を組んで指摘すると、
「ウ~ン、明日するつもりだったからさ」
などとと小学生のような言い訳をのたまう。
「はぁ…」
(これが幼馴染…)
ため息をついた時、踏み出した足の所に段がないことに気がついた。
カクンと身が傾く。
「!?」
(転げ落ち、)
「ちぃちゃん!」
ぐいっと腰に腕が回った。そのままググッと引き寄せられて、どうにかこうにか落ちずに済んだ。
「ありがと…う、ってウワァ!」
千夏は叫んで腕の中から逃れ、シュインと階段を駆け下りた。
(なっ、なっな、何かハグされてるようなカッコになってた…っ)
彼氏いない歴
読書は好きでも、読むジャンルは(恋愛ナシの)時代小説とお仕事小説だけだ。
よって、何かそーゆーことに耐性がないのである。
(あの美形がすぐ後ろにあった…)
「うぅ…っ」
(あのズボラ人間に一瞬だけだけどときめいてしまった……っ、佐竹千夏、一生の恥だぁ)
その心の声が、汀にとってカワイソウな内容であることは、この際気にせず……
外に出て、門の前まで歩く。グダグダ人間は、グダグダしながら千夏についていく。
「仕事ぉぉおっっ!」
バシイッと両手で頬を挟むようにして叩き、気合いを入れる。
ポケットの中からメガネを取り出し、スチャッとかけた。
「さぁ、受取者・桐生汀さん、お仕事ですよ」
「はい、今回もしっかり務めさせていただきます」
汀は少しおどけてみせたが、笑みを『作り物』のそれへと変化させた。
そして、手に持った上着を羽織る。長い指でボタンをかけていき、ネクタイの曲がりも直してしまうと、彼はようやく前を向いた。
「ほら、いらっしゃるまであと5分ですよ」
千夏は、腕時計をしきりに観察しながら汀を急かす。
こんなに彼女が浮かれている理由……
それは、『初仕事だから』だ。
汀のもとで、働き始めたのが去年。これまでしてきた仕事は、
職業柄、お客様は少ないが、
「とにかく、これが私の初仕事なんですから!」
しっかりしてくださいよ、とでも言いたげな視線から、汀はそっと視線をそらす。
「…あの車ではないんですか!?」
「あ~、そうかもねぇ」
「ほらっ、急いで!」
「でもさぁ、今日は相談だけでしょ?」
先程の美しい笑みは何処へやら、ぐにゃぐにゃとクラゲのように身体をうねらせ、彼は駄々をこねる。
「お〜に〜ぎ〜り〜」
「あ。あの車じゃ無かった」
「じゃあ食べられ、」
「ああ~っと、あの黒い車かもしれないですね」
「おにぎ、」
「あれ、違った」
「おに、」
「あ、いらっしゃいました。違った」
「おにぎり…」
「ちょっとなぎ!」
汀の口をもがっと塞ぐと、千夏はやる気に満ちた表情で笑みを作った。
「私、一つ決めたんだ」
「…ふぁふぃほ?」
汀の口から手を離して、
「…なんて?」
「『何を』って言ったの!」
「あ。そう…」
千夏は汀の方を見やる。
「もう、後悔しないように生きるって、決めたの」
「………………よ」
汀は、何かを呟いた。
「え?」
「格好いいよ、ちぃちゃん」
「え…そ、そぉ?」
照れる千夏。
「…やっぱり好きだなぁ」
「え?なんて?」
汀はフッと笑う。
「言わないよ。僕にだって、黙秘権はあるもんね!」
「えぇっ、気になるよ!!!余計気になるんだけど!?」
「嫌だ!」
――――――
―――
―
✤✤✤
「どうだと思うかい?辰巳」
そんな2人の様子を遠巻きに眺めている影がふたつ。みすゞと、その忠臣の辰巳だった。
「そうですなぁ。千夏様…あの方は、自分の才能に気づいておられないようです」
「あぁ」
「どうなさるおつもりで?」
「…あの子を苦しめたくない」
「坊ちゃまですか?」
「あぁ。あの子は、私が育てたようなものだろう。私は…あの子を傷つけたくはない」
「…そうですね」
私も同感です…と、辰巳はフッと笑った。
「貴方様は、坊ちゃまの母親、そのものですよ」
「そうだといいが」
「少なくとも私は、貴方様ほど子煩悩な人間を見たことがありません」
「え…私って子煩悩なのか?」
みすゞの発言に、辰巳は優しく笑った。
「…貴方様も、私にとっては娘同然に思っておりますよ」
「…では、あの子は孫か」
「ふふっ、そうなりますね」
「ともかく、まだ千夏は修行をしていないからね。まだ私は、母としてあの子を助けなければならないようだよ」
みすゞの慈しむような優しい顔に、木の葉が柔らかな影を落としていた。
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