明日から、また、自分らしく
私は熱気に満ちた店内を想像していた。最も優れたルー語、このイベントのてっぺんをとろうとする熱に充満した店内は電子レンジを利用しなくても総菜弁当が手で持てないくらいあちあちに温まってしまうような日なのだと勘違いしていた。売り場のあちこちでルー語があーでもない、こーでもないと飛び交い、なのにレジ前ではM-1の舞台袖みたいな顔した人の列が出来ているのだと想像していた。
白菜やキャベツは一番外側の葉に至るまで瑞々しいし、鮮魚コーナーには17時を回ったというのに刺身の油テリが綺麗なままだ。
---誰も考えてきていない---
私は当日のスーパーの入り口に立ち始めて恥ずかしくなった。私だけが本気。単純にこれまでの1週間が恥ずかしい、というだけではない。当日までお題が分からずその場で、即興の力を試されるIPPONグランプリのように、ここに来る全員が瞬間のひらめきで戦おうとしているのに、私1人だけがクッたネタを用意してきてしまっていることがいけない。単純な世の中の恥なんてものはそれなりに受けてきたらかいいのだけど、笑いに対する当然の精神性で後れをとっていることが私には恥なのである。
その日に"必要だとカゴに入れたものの中"で"もっともおもしろいものを選ぶ"私は不文律を見落としていた。事前に掲示があったのだから考えてきてもいい。そんな慰めはレモンがギリギリ果物コーナーの仲間に入れてもらってる感じがする。笑いはその場その場の明文されないルールに従ってこそなのだ。レモンは野菜コーナーか、踏み込めば精肉、鮮魚コーナーにある方が潔い。レモンは牛タンか白身魚の友達なのだから。
私は必要なものをカゴに入れる。
セサミオイル
気狂い塩
ホルスタイン・ミルク
調味料メイン。なんで土曜日に買い溜めしたんだ。私のバカ。ボディから出たサビ。決め撃ちのディスタンス。
そもそも笑いこそが一番の生。冷蔵も冷凍も意味がない。笑いの鮮度はその場でしか発揮されない。なのに私はまるで5分間の漫才ステージが与えられたように準備をしてスーパーを訪れた。
ホルスタイン・ミルクでいくのだろうか。または今日のため、土曜日には買わなかった牛豚合い挽き肉をカゴに入れるべきだろうか。
レジの列は普段と変わらなかった。牛乳と牛豚合い挽き肉の両方をカゴに入れて並ぶ。4番までレジは稼働しているのに、誰もルー語を発していない。1商品が5%OFFくらいでは誰も行動しない。ますます私は恥ずかしい。
だけど1つ前の家族連れの子供をお母さんが静止している。
「変なイベントだから、恥ずかしいから、言わないでね」
男の子は大人の静止にむちゃくちゃに抗議する。彼は言いそうだ。
これはまずい。止める大人、うずうずする子供。すでにフリが効いている。
レジにお母さんがカゴを置く。ピッピッピッと会計が進む。袋は大きめの2つお願いしますなんて普通の会話が交わされる。男の子は店員さんの手際のいいレジ通しを凝視する。
そしていよいよその時だった。
ポップコーンを店員さんが手に取ったとき、男の子は叫んだ。
「弾けもろこし!!」
晴天を突くような声だった。
大人達は止まった。
「弾けもろこし…」
大人が静かになったから怖くなってしおらしく言ったから私はもうダメだった。
「弾けもろこしだね。こちら5%OFFにさせて頂きます」
30代くらいの優しいお姉さんな店員さんはまず優しく弾けもろこしだねと男の子に伝えると、次にポップコーン、いや弾けもろこしが5%OFFになったことをお母さんに伝える。
お母さんは恥ずかしそうにすいません、と店員さんに言った。それから所在なさげに、腰の高さにある男の子の頭を掌で押さえた。男の子はそんな暖かい母の手を振り払うとレジの向こうにかけだした。
その向こうにはお父さんがいた。
「弾けもろこし!パパ!!弾けもろこし5%OFFだよ!!」
ただ生まれた落ちただけだった世界を、自身の小さな勇気が僅かに変えた感動を父に告げる。
お父さんはスマホをしまってから男の子の目線まで屈んで「うん、弾けもろこしだね。よかったよかった」と言う。
私はもうダメだった。すごく愉快だった。そしてもうどうしようもなかった。必死にクッたネタもダメだ。いや、私の人生で一番の電撃が走ってもきっと勝てない。あんな無垢な男の子の笑いには決して勝てない。あのキラキラには勝てない。
「お箸やレジ袋はどうなさいますか?」
"トュギャザーしてください"言えるはずがない。
「結構です」
まさに言わぬがフラワー。結局私のカゴの中のものは何の滞りもなく会計を済ませた。ただの真面目な女子大生。イベントなんてなかったみたいに会計を済ませた。
ヴィヴィアンの財布に大きなロゴが付いていることが今日は恥ずかしかった。今日の晴れ舞台のため、昨日の夕方に綺麗に塗ったネイルが恥ずかしかった。金髪ツインテの髪から覗くバチバチピアスの耳が恥ずかしかった。私はいつだって私の好きな姿でいて、その代わりに人から変な目で見られてもおもしろい女であり続けてきたのに。今日はもうダメみたい。ダメだ。アイメイクがじんわり滲んだ涙で崩れてしまう。
そうか、このためのイベントだったんだ。親子が素敵な思い出を作るためのイベントだったんだ。私はそこでなんだか自分を出そうとしてしまった。私の舞台じゃないのに。
帰ったらお父さんに電話しよう。
スーパーの自動ドアをくぐると、それまで冷蔵の温度に晒されていたせいか、春先の夜の方が暖かく感じた。空はすっかり暗い。駐車場の向こうの方のライトの下にあの親子が車に向かって歩いているのが照らされていた。はっきりは聞こえないけど「ハジケモロコシ」と言っている気がする。
ふと、こんな私は結婚したり、子供を持ったりできるのだろうか不安になった。「ハジケモロコシ」の暖かさの分だけさっきまでそうでもなかったのに寒さを感じた。春の寒さらしかった。イベントを最初見た時に感じた寒さとは違っている。きっと春は暖かいのだけど私自身が寒かった。
こんなに寒さを感じるのに、私はそれでもまだ、この1週間のことを、牛豚トュギャザーミートやその場で思いついたホルスタイン・ミルクを誰かに伝えずにはいられなかった。自分の芯に残った熱はどこかに発したかった。
私には、その相手がまだ、お父さんしかいないのである。
お父さんに電話で全部話してすっきりしたら、明日大学のお笑いサークルに見学に行こう。学祭で見たおもんない先輩男女コンビに話を聞いて少しホっとしてから、私はそれ以下かもしれないと反省しよう。M-1やIPPONグランプリはピンだし、実績不足だしでまだ無理だから、とりあえずサークルに入ったら来年のR-1に出場エントリーをしよう。R-1なら3回戦くらいまでいけるかもしれない。
本気でやってたら、今日の話を一緒に笑ってくれる人が見つかるかもしれない。
私の居場所はマンデーの大型日用量販店にはまだないのだから、明日からはくすぶる火を大きくしてちゃんと私のできることをしようと決めた。
あと、今日は、少し泣く。
マンデーの大型日用雑貨店 ぽんぽん丸 @mukuponpon
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