流離
崇期
>>>
「あぁ……
同僚の
「奥さん夜勤なんだろ? ゆめちゃんのケーキ、買えなくなるぞ? あとはおれがやっとくよ」
19:00。壁に備え付けられた管理コンピュータに報告をあげて、十五分後に送信ボタンをクリックすれば終わりだ──と自分に言い聞かせながら、おれは作業エリアへ戻る。休憩エリアでうなだれている茎田を横目で見る。
「でも、
「勝目には、おまえは
「ばれないかな……」本当にこの後トイレに直行しそうなくらい顔をしかめている茎田。
「大丈夫だって、うまくやっとく。もう帰れ」おれは手を振って、追い払う仕草をした。
ここは、機械さえちゃんと息をしていれば万事オーケーな場所だ。仕事をするのはあくまで機械。おれたちは監視役。そのおれたちを見張る嫌な
19:20。オンラインでの終業報告直前、おれは青ざめることになる。勝目の顔が通信用端末のモニターに映しだされたとき、やつに横顔をさらしてしまったために、早々に事態に気づかれた。
「ヤマモリ、どうした」
「あっ」おれは慌ててモニターに顔を振る。「すみません、先ほどまではなんともなかったんですが、エラーメッセージが急に──」
「報告!」勝目の怒声。スピーカーがびりっと震えた気がした。
おれは姿勢を正す。「〈F5018〉です。
「……ところで、クキタは?」
息を飲む。「あ、腹を下してるみたいで、今トイレに」
まばゆい光線に縁取られた勝目の顔は微動だにしなかった。「では残業を許可する。二人で作業すれば、三十分くらいで終わるな。八時まで、異論はないな?」
「申し訳ございませんが、八時半までお願いできないでしょうか?」まずいことになったと、そればかりが喉元にせり上がってきた。
「各営業所で許されている時間は──」
「すみません、」語気強く遮り、風を切るほどの勢いで頭を下げた。「……実は、茎田は帰らせました。かなり具合が悪そうだったので。今、ここにはわたし一人です」
「おい」勝目の声の温度が一段階下がった。「嘘の報告をしたな。勝手に帰ったのか。このやりとりだけで無駄な時間が流れている」勝目の右腕が秒で持ち上がり、秒で画面から消えた。「ほら、もう五分も機械が止まってるんだぞ」
「八時半までに、必ず終わらせて帰ります!」おれは再び低頭した。「セキュリティシステムは八時半にセットしていただいて結構です。それで社に報告してください。それまでには必ずここを出ます」
「おまえの腕時計の時刻を報告しろ」
「は?」
「おまえの時刻が狂ってたら意味ないだろ。もし時間が一分でも超えようものならセキュリティ会社から連絡が来て、困るのはおれなんだ。おれの時刻と合っているかの確認だ、早く!」
「腕時計はしていません」おれ自身が狂いそうだった。唇を噛みしめる。
「じゃあ、普段、おまえはどの時計を見て働いているんだ」
「管理コンピュータの時計を見ています」
「その時計の時刻を読み上げろ! 念のためだ!」
おれはすばやく動くとコンピュータ前まで行って、蟻ほど小さな数字を苦々しく覗き込んだ。ばたばたとモニターの前に戻り、「十九時二十七分でした」と報告する。
「おい」ばかばかしいと思っているおれよりも白けた目を勝目は向けていた。「そのコンピュータからモニター前まで戻ってくるのに何秒かかった?」
「…………」
「おまえの携帯端末を使え! 使っていい。もう通信は切る。携帯端末からおれに電話をかけてこい。その端末の時刻を報告しろ!」
こんなときにも腹は減るのか、胃のあたりがごろごろと蠢いているのがわかった。携帯端末での通信に変わり、勝目の顔を拝まずに済むのは助かったが、先ほどにも増して忌々しい会話を交わした。
ばかが。定時に終業報告している時点で狂っていないことぐらいわかるだろ。やつは時刻に関してはなんとか満足してくれ、セキュリティシステムは八時半にセットする、と告げた。八時半までに機械を回復させ、建物にロックをかけ、外に出ろ、と。
「
おれは思わず自分の腹を押さえた。いや、聞こえるわけない。いまだ端末を握りしめ、勝目と対峙している。
「おれが
フィー、フフー……
これか。おれの耳にもフクロウの声が拾えるようになった。風の音だと思っていた……。そういえば、この建物を囲んでいる林にいる鳥を、地元民は「流離」と呼んでいると聞いたことがある。
風流なこった。この寂れた町の連中も、勝目も。無言で故障する機械と無情なディジタル時計に追い詰められているおれ。なにが悲しくて詩人化した勝目と話し続けなければならんのだ。無駄な時間が流れている。無駄な時間が流れている……。
「八時半までに絶対にそこを出ろ。クキタのことを許されたかったら」
最後の言葉だけ、元の勝目に戻っていた。言われなくとも一刻も早く作業を終わらせるつもりだった。独身のおれにだって、予定はあるんだ。夜の鳥が奏でる音色に呆けている暇はない。
フィー、フフィー……
『無事ケーキ買えました。ありがとう……』茎田からのメッセージ冒頭文と、「20:27」という時刻が目に入る。携帯端末を取り落としそうになり、慌てて立ち上がる。
椅子が倒れた。機械を回復させた後、休憩エリアで一息ついて……どうやら眠ってしまったらしい。やばい、疲れている場合じゃない、早く建物から出るんだ。テーブルにはおれの私物が散乱していた。片づけてたら間に合わない。携帯端末と上着をかき取ると、マスターキーを掴む。室内灯の電源を落とし、駆け足で扉の外へ出た。
建物にロックをかける。「ほぉー」と
マスターキーをキーボックスに放り込んだ後、駐車場へと回りながら、携帯端末のメールをチェックする。
銀河銀行からのお知らせ 17:06>
みぞれ館 定休日のお知らせ 18:19>
茎田 19:51>
MKL株式会社 19:53>
「会社から……」おれは内心震えながらタップする。
MKL株式会社
第五営業所 山森様
お世話になっております。先月に行いましたメンタルヘルス診断で、「C判定」という結果が出ました。近日中にオンラインにて面談を行いたく存じます。
お忙しいところ恐れ入りますが、毎朝実施されております〈健康観察〉のページから日程調整をお願いいたします。
厚生課・根岸
メールの文章に再度目を流しつつ、車の真横へ寄る。ひんやりとしたウィンドウに手を置く。腕に巻いた上着を抱え直して、端末をズボンのポケットにしまい、ドアハンドルへと手を移動させた。流離は鳴き続けていた。
車のドアロック解除ができないことに気づいた。
流離 崇期 @suuki-shu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
私の百合観は「女子の輪」/冬寂ましろ
★76 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます