第29話

朝起きても、昨夜から続く胸の高鳴りはまだ収まっていなかった。


今日は文化祭当日。

花子先生へ、想いを届ける特別な日。


身支度を整えると、準備で忙しいことを言い訳に、朝食も摂らず家を飛び出した。


胸の奥まで澄み渡る冬の空気が、火照った体を心地よく冷ましてくれる。


いつもなら歩いて通う道を、今日は走りながら駆けていった。


校門に到着すると、例年とは違う文化祭の空気に気づく。


業者のような人たちが慌ただしく校内を行き来し、体育館の方からは建設作業の金属音と、それを指示する声が響いてくる。


飾り付けも、生徒の手作りとは思えないほど派手だった。

明らかに外注レベルの装飾が見事に馴染み、祭りの賑わいを華やかに演出している。


——こんな風に、楓さんの仕業だとわかる痕跡が、隠す気もなくあちらこちらに溢れていた。


「あら、葵さん。おはようございます」


声に気づき隣を見ると、楓さんと千代さんの姿があった。


「おはようございます、お二人とも。なんだかそわそわして、じっとしていられなくて……。手伝えることがあればと、早めに登校してしまいました」


「その気持ち、わかります。でも今日のあなたは主役。もしものことがあれば大変ですから、準備は全部、私たちに任せてください」


笑いながら言う楓さん。

それでも、申し訳なさそうにする私を見て、千代さんが優しく続ける。


「でしたら、本番に向けて少しだけリハーサルをしておきますか?

音響の用意はもう出来てますし、鈴木さんたちも先ほど到着して、体育館で各自の準備を進めています」


「本当ですか?」


「みんな、葵さんと同じで、今日が待ち遠しかったみたいですよ」


にこやかに微笑む楓さん。


二人に案内され、私は体育館へ向かった。


扉を開けると、そこにはまるで一流ミュージシャンのコンサートのようなステージが組まれていて、思わず目を疑った。


壇上には、今日まで心を通わせてきた仲間たちが、私達に気づき手を振る。


「桐原先輩!」


小原さんの元気な声が、少し冷えた冬の空気を暖かくした。


「桐原さん、おはよう」


「もう準備は万端ですよ」


住吉君と鈴木さんも、笑顔で声をかけてくれる。


皆んなの場所へ向かおうと階段に足をかけたその時、楓さんに呼び止められ足が止まる。


振り返ると、彼女はエレキギターを抱えて立っていて、熱い眼差しでこちらを見つめていた。


「高校最後の文化祭、最高のものにしましょう」


その言葉に私は無言で頷き、ギターを受け取る。


さあ、すべてを出し切ろう。


心の中でそう唱えながら、私はロックの象徴を力強く肩にかけた。



朝、目を覚まして身支度を整える。

この日が近づくにつれて、胸の奥がそわそわしてしまって。

昨夜なんて、何年ぶりかで寝つけないという体験までしてしまった。


――まったく、子どもみたいね、私。


思わず苦笑しながら朝食を済ませる。


ふと、リビングに飾られた夫の遺影に目をやると、

今日はなんだか、いつもより嬉しそうな顔をしている気がした。


……ふふ、貴方にも私の気持ち、伝わってるのかしら。

生徒に慕われるのは、教師としてこの上ない幸せですものね。


軽く化粧を整え、外へ出ると――


見慣れない高級車が、家の前に停まっていた。


「吉田花子様でいらっしゃいますね?」


黒い燕尾服を纏った、妙齢のダンディな男性が、すっと恭しく頭を下げる。


「……貴方は、たしか黒井さん、でしたか?」


「覚えていただいて光栄です」


穏やかな笑みを浮かべながら、彼は観音開きのドアを優雅に開けた。


「お嬢様から、吉田様の送迎を仰せつかっております。

どうぞ、こちらへ」


どうやら、あの子たちがわざわざ手配してくれたらしい。


断る理由なんて、どこにもない。


私は小さく息を整えながら、少しだけ後悔した。

――こんなことなら、もっといい服を選べばよかったかしら。


そんな浮き足だった事を考えながら、初めて乗る高級車にそっと足をかけた。


学校へ到着すると、その華やかな雰囲気と活気に仰天する。


これもしかして全部、楓さん達がした事なのかしら。

やり過ぎだ、と思いながら私は苦笑した。


「あ、花子先生だ!」


「お久しぶりです!文化祭、来てくれたんですね!」


私を見つけた教え子達が、笑顔でこちらに近寄ってくる。

ほんとは誰にも気づかれず、静かに居るつもりだったのだけど。あれよあれよという間に生徒の皆んなに手を引かれて、私はお祭りを回る事になった。

もうお別れしてしまう皆んなの顔を、噛み締めるように目に焼き付けながら教室を巡る。


そしてお昼を回った時、スピーカーから声が流れ始めた。


「皆さん、12時30分より体育館で演劇部の公演が始まります。ご興味のある方は是非お越し下さい」


その放送を聞いて沸き立つ生徒達。

どうやら、かなり大掛かりな公演らしく、今年の文化祭で1番の目玉らしい。


「花子先生ももちろん行きますよね!」


その言葉に頷いた私は、半ば担がれながら大勢の子達と共に体育館へ足を運んだ。


扉を潜ると、文句のつけようの無いほど立派なステージに改造されてしまった体育館に目を見開く。


そこはもう、学校の中という空気は完全にかき消え、これから訪れる熱狂を受け止めれる今日だけの特別な空間と化していた


ここまでやるとは。


それは生徒や教員の皆んなも同じ気持ちだったようで、一様に驚きと興奮に胸が躍っていた。


ほぼ全ての在校生達が集まった所で定刻となり、照明がスッと落ちる。


「皆様、本日はお集まり頂き誠に有難うございます」


「今回上演する演目は予定を変更し、演劇部が創作した劇を披露する事となりました」


「どうか最後までお楽しみ下さい。では、間も無く上演致します」


「タイトルは『歌姫』です」


ーー幕が、上がる。

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